「高額納税者が多くの票の権利を持つべき」というパラドックス
ある有名な実業家が、このような主張をしたことを聞いたことがあります。
「自分は何億円も納税している。それなのに低収入の人と同じ一票しか持っていないなんて、不公平だと思わないか?」

この主張は「税金を多く収めているのだからそれだけ権利も多くなるはず」あるいは「自分のような人間が権利を持った方がよりよい国になるはず」という考えなのだと思います。
この言い方は一方で論理性があっても、もう一方では支離滅裂なんですね。
仮に「弁舌の達人」がいたとしましょう。
この人はその論理と舌先で多くの人に影響を与えることができます。
それこそ10万票、100万票を動かすことができるとします。
おそらくこの弁舌の達人は選挙には行く必要性を感じないでしょう。
なぜなら自分が投じる一票よりも、自分が発信して作り出す票のほうがずっと大きいからです。
弁舌の達人は説得力という非形式的な権力があるため、形式的な「票」という権力は不要なのです。
つまり、「投じる票が多く欲しい」という考えは、裏を返せば「自分の言説には説得力が無い」と認めているのです。
説得力がないから形式的な権利を欲しているわけですね。
もちろん影響力がないことが悪いというわけではありません。
問題は自分には人を説得する力がないことを認めている一方で、「自分にはもっと権利があってもいいはず」ということを「世間に訴えていること」なんです。
なぜ訴えているのでしょうか。その人は説得力がないから形式的な票が欲しいのに、世間を説得することなどできるはずがありません。
もしこんな大それたことを説得できるほどの力を持っているのなら、形式的な権利など不要なのです。
「自分のような能力がある人間が多くの権利を持っていた方が多くの人のためになる」そう思い、多くの人がその言説に納得するのであれば、予め多くの票はいらないはずです。選挙のたびに有権者に意見をすればきっと資産以上の影響力を行使できるからです。
しかしそれができないから形式的な権利(票)を欲しがっているんですよね。
「自分にはもっと多くの票の権利があってもいいはず」これを世間に訴えるということは、「皆さんはきっと私の言うことには反対するでしょう。だから私の意見を聞く前に私に票を預けてください」こういっていることと同じなのです。
誰がそんな提案に乗るのでしょうか。もしそんな提案に乗る人が多いのなら、こんなことを言わなければならない状況にはなっていないのです。
正当性の循環パラドックス
現代民主主義における「一人一票」の原則は、制度の正当性を保証するための形式です。
しかし、この正当性に疑問を持ちながら、その制度内で制度を変えようとする行為には、自己矛盾が潜んでいます。
たとえば「一人一票の原則を一人一票の投票によって変更しようとする」場合、以下の矛盾が生じます。
成功すれば「一人一票の原則によって、一人一票を否定する原則が正当化された」ことになり、否定された制度が肯定の根拠になっていることになる。
失敗すれば「間違っている制度によって、自らの正しさが否定された」ことにしかならず、やはり制度に納得しない。
もしこの法律が成立し、形式上は整えることができたとしても、論理上は「一人一票の原則が正しい限り、一人一票の原則は無効」というように正当性にパラドックスが含まれてしまうのです。
一人一票の原則が間違っているとしてこれを変更をするのに、一人一票の原則でそれを決定することはできません。
この原則を覆すにはクーデターを起こし、まさに「民主主義を打倒」しなければ民主主義の原則から脱することができないのですね。
制度の根幹であるその時代の正当性を否定するというのはそれほど大掛かりな事なのです。
大きな企業を経営していた人間の語り口や経験が独特で興味深いです。
しかしその成功体験による自己肯定感からなのか、思い込みや視野が一方的になっていることが多いと感じることがあります。
その飛躍が魅力的に映る場合もあるかもしれませんが、影響力が限定的になりやすい原因でもあります。
