「学校に行く」というゴールは要らない

学校に行くことは目的か、手段か。
答えは明白だ。手段である。
目的は、子どもを教育し、社会に参画できる人間として育てることだ。

にもかかわらず、いつからか「学校に行く」ことそのものがゴールになってしまった。
偏差値の高い中学校に行くために小学校に通い、
偏差値の高い高校に行くために中学校に通い、
偏差値の高い大学に行くために高校に通う。
大学に入れば、次は良い企業に就職するため。
就職したら、年収の高い職業に就くため。

気づけば、常に「スタート地点に立つこと」だけが目標になっている。
ゴールに到達した瞬間、次のゴールに向けて走り出す。
その繰り返しの中で、ゴールとスタートが完全に混同されてしまった。

偏差値の高い学校に行くことも、
良い企業に入り、高い給料をもらうことも、
本来はすべて手段であり、目的ではない。
だが大人たちは、そのすげ替えに気づこうともしない。
あるいは、気づいていても見て見ぬふりをしている。

結果として、「どのように社会に参画するのか」という本来の問いは、
教育の現場からも、家庭からも、完全に抜け落ちてしまった。
なぜ教育があるのか。
なぜ教育を受けさせるのか。
なぜ子どもは学ぶのか。
それを説明できる大人が、驚くほど少なくなっている。

この構造が、最も露骨に現れるのが不登校の問題だ。
不登校になると、途端に「学校に行くこと」が目的にすり替わる。
どうやって登校させるか。
どうやって教室に戻すか。
だが、学校に行かせたところで、不登校が解決するわけではない。

なぜなら、学校に行くこと自体には、何の教育的価値もないからだ。
価値があるのは、学校という場で何を学び、
どんな人間関係を経験し、
どのように社会と関わる力を身につけるか、という点だけである。

学校はゴールではない。
通過点にすぎない。
その通過点をどう使うのかを考えず、
「とりあえず行け」「行けば何とかなる」と言い続けてきた結果、
教育は中身を失い、形だけが残った。

「学校に行く」というゴールは要らない。
必要なのは、「学校で何を得て、どう社会につながるのか」という視点だ。

学校に行けるかどうかではなく、社会に戻ってこられるかどうか。
そこに教育の本当の責任がある。
どこにいても、どう学び、どう生きるかを考え続けられる状態をつくること。
それこそが、これからの学校と教員に求められている役割なのだ。

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みん教|学校の「当たり前」を問い直す チップは要りませんので、共感してもらえたのであれば、是非色々な方に広めていただければ幸いです。