根性論を忘れた教員は要らない
かつて、気合いや根性は人間の成長において欠かせないものとされてきた。
「気合いで乗り切れ」「根性を見せろ」
今となっては乱暴に聞こえるこれらの言葉は、学校現場でも日常的に使われていた。
しかし現在、教育の場から根性論はほぼ姿を消した。
努力を強いること、我慢を求めること、耐えさせることは、時代遅れで危険な指導だとされる。
確かに、理由も示さず精神論だけを押し付ける指導は、子どもを追い詰めるだけで何の意味もない。
だからこそ、根性論は否定されてきたのだろう。
だが、ここで一度立ち止まって考えたい。
根性や気合いは、本当に不要なものなのだろうか。
現代の教育は、方法論に満ちている。
どう教えるか、どう支援するか、どう配慮するか。
思考法も技術も、環境調整も、以前とは比べものにならないほど洗練された。
それ自体は間違いなく進歩である。
しかし、どれだけ頭を使い、技術を尽くしても、どうにもならない場面は存在する。
努力の方向も合っている。準備もしている。周囲の支援もある。
それでも、最後の一歩が踏み出せない壁が立ちはだかる瞬間がある。
そのとき、人を前に進ませるものは何だろうか。
冷静な分析か。最適化された方法か。
それらはすでに使い切った後だ。
最後に残るのは、「それでもやる」「ここで折れない」という意思だけである。
それを、昔の言葉で「根性」や「気合い」と呼んでいただけではないか。
問題だったのは、根性論そのものではない。
思考や工夫を放棄したまま、根性だけを要求してきたことだ。
本来、根性とは、考え抜き、工夫し尽くした末に、それでも残る“最後の力”である。
今の教育現場では、この「最後の力」を教えることを避けすぎてはいないだろうか。
努力は大切だが無理はさせない。
挑戦は勧めるが失敗は回避させる。
結果として、子どもたちは「やり切る経験」を持たないまま成長していく。
社会に出れば、途中で投げ出した理由など誰も聞いてくれない。
やったか、やり切ったか、それだけが問われる場面はいくらでもある。
そのときに支えになるのは、方法論ではなく、「踏ん張った経験」だ。
だからこそ、気合いや根性を語れる教員が、教育現場から消えてしまってよいはずがない。
ただし、それは怒鳴る教員でも、押し付ける教員でもない。
考えさせ、工夫させ、その上で「ここから先は自分を信じて踏ん張れ」と言える教員だ。
根性論を捨てるのではなく、使いどころを誤らないこと。
それこそが、今の教育に求められている成熟なのではないだろうか。
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