心理的安全性を誤解する教員は要らない
「心理的安全性」という言葉を聞くたびに、どうしても違和感が拭えない。
教室で、子どもが先生に返事をしていない光景を見かけた。
タメ口で話しかけ、文句まで言っている。
それでも先生は笑顔で聞いている。
その場面を指して「ほら、この先生は心理的安全性が保たれているね」と説明されることがある。
本当にそうだろうか。
私には、それは単に「子どもが大人をなめているだけ」に見える。
実は、心理的安全性という概念の本来の意味は、それとはまったく違う。
心理的安全性とは、「曖昧さ」や「厳しさの排除」ではなく、「勇気を出して対人的リスクを取り、率直に意見が言える環境」を指している。
ここで重要なのは「勇気を出す」という部分だ。
何もしゃべらずに静かにしていることが安全なのではなく、むしろ自分の意見を言うことの方が安全だという状態、つまり「意見を言わないでいる怖さ」よりも「意見を言う怖さ」の方が小さい環境。
そこに到達するには、批判的なフィードバックもきちんと受け入れられる関係が不可欠である。
「優しければ安全」ではなく「明確で、信頼できれば安全」ということなのだ。
それなのに、教育現場での理解は大きくズレている。
多くの場面で、心理的安全性という言葉は「厳しい指導を避けるべき」という理由に使われている。
失敗時の原因を明確に伝えることが、子どもの自尊心を傷つけるのではないかと考え、批判的なフィードバックを控える。
結果として、子どもは「何を直すべきか」が分からないまま先に進む。
基準が曖昧なままだから、何を期待されているのか、どこまでなら許されるのか、その子どもにはいつまでも不透明なのだ。
親の側にも同じ傾向がある。
「褒めることが大事」という信念から、失敗時の説明を避けるケースは少なくない。
心理的安全性という言葉が、曖昧な関わりを正当化する理由になっている。
だが実は、この曖昧さこそが子どもに不信を招く。
明確な基準がないと、その場その場の判断が変わるように見える。
先生が何を求めているか分からないから、子どもは試行錯誤を始める。
タメ口で話しかけてみたり、返事をしてみなかったり。
その試行錯誤の過程で初めて「ああ、この先生にはこれが通じるんだ」という暗黙ルールを学習する。
それは信頼ではなく、単なる学習である。
子どもには二つの怖さがある。
一つは「意見を言う怖さ」。
もう一つは「意見を言わないで後から批判される怖さ」。
私が子どもたちに問いかけるのは、こうだ。
「この二つの怖さがあるとき、あなたはどちらが怖いと思う。どちらを選ぶ?」
半分冗談、半分本気の究極的にシンプルな投げかけ。
でも子どもたちは、その問いの前で考え始める。
そして気づく。「意見を言う怖さ」の方が、まだマシなのだ。
なぜなら、意見を言えば、その場ですぐに反応が返ってくるから。
その反応が明確なら、次はどうすればいいかが分かる。
そのプロセスを支える大人の側の関わりは、どんなものか。
それは「明確な基準を示し、率直なフィードバックを返す」こと。
そこに信頼がある。
本当の心理的安全性とは、厳しさと信頼の両立のことだ。
曖昧な優しさではなく、明確な基準の中での寄り添い。
そこでこそ、子どもは勇気を持って意見を言えるようになる。
そして、その経験こそが「表現する力」「考える力」「自分で判断する力」へと、子どもを導いていく。
心理的安全性を大事にすることは、実は「子どもから力を奪う」ことではなく、「子どもに力をつけさせること」そのものなのだ。
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