教員としてどうなの?という疑問は要らない【改稿】

いじめ、引きこもり、詰め込み教育、学力低下、家庭環境に起因する教育格差、教員不足による教育の質の低下。
現代日本の教育の問題は山積みである。

明治に作られた仕組みや指導法を、今も引きずっている古い体制に問題がある、とよく言われる。
つまり問題は、「古い考え方を捨て、新しい考え方を取り入れることができない」ことだ。
特に難しいのは、“捨てる”方だ。

その証拠に、教員の行動や発言、指導に少しでも違和感があると、すぐに出てくる言葉がある。
「教員としてどうなの?」だ。

この感覚は、教員だけのものではない。
大人にも子どもにも、社会全体にも染みついている。
国民は誰もが、自分なりの「教師像」を持っている。
しかもその多くは、過去に出会った教員や、自分が育った教育環境によって作られた“個人的な記憶”にすぎない。

そして教育に関する変化やイノベーションは、この無数の「教師像」によって摩耗し、潰され、消えていく。
「教育は変わらなきゃいけない」と言いながら、評価だけは過去の教師像という型にはめる。
この矛盾が、常に日本の教育を縛っている。

教員は世間の教師像に怯えながら働く。
一方で世間は、教員不足や教育の限界を語りながら、昔の理想像で教員を裁く。
つまり、「変われ」と言いながら「変わるな」と言っているのだ。

ならば、まず捨てるべきは何か。
制度の前に、各自が握りしめているこの「教師像」ではないだろうか。

教師は誠実であるべきだ。
教師は真面目で勤勉であるべきだ。
教師は知識や技能が豊富であるべきだ。
教師は正しく話し、人権を重んじるべきだ。
教師は規則に厳格であるべきだ。
教師は子どもの手本であり、導く存在であるべきだ。

こうした“べき論”は、全部いったん捨てていい。
なぜなら、その「正しさ」こそが、現場を硬直させ、教員を消耗させ、子どもを息苦しくさせているからだ。

とにかく自分の信念に基づいて発言すれば良いのだ。

「教員としてどうなの?」という問いは、基本的に無視して良い。
教師像という呪いに従うことより、目の前の子どもに必要なことを選び取るほうが大事だからだ。

そうやって現場に“新しい感覚”が増えていけば、古い教師像は自然に更新される。
教師像のアップデートは、教育のアップデートに直結する。
私はそう信じている。

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