[老兵消え去らず](02) 前史01[1310文字]
前回は1945年(昭和20年)10月9日に幣原内閣が発足するまで、でした。
今後、日本国憲法成立までの出来事を書いていく予定ですが、その前に幣原内閣発足より前に起きた出来事を、憲法成立の前史として、数回にわたって記述していこうと思います (◉_◉) 。
『いいではないか。日本国民に支持されない天皇制では仕方あるまい』
ー 昭和天皇
1945年(昭和20年)8月14日。
日本政府は正式にポツダム宣言を受諾した。
日本は『ポツダム宣言での条件下』において降伏したのだった。
ポツダム宣言の内容に『天皇の国家統治の大権は維持されるのか』と疑問に思った日本側は、連合国側に確認を行った。
それに対し連合国側は、
『天皇の権限は、連合国最高司令官の制限下におかれる』
『日本の究極的政治形態は、日本国民が自由に表明した意思に従い決定される』
といった曖昧な回答を返したため、ポツダム宣言の最終的な受諾は天皇の二度目の聖断によって、ようやくこぎつけることができたのだった。
連合国側の曖昧な回答に不安をもつ者たちに対し、天皇こう言って抑制したという。
『いいではないか。日本国民に支持されない天皇制では仕方あるまい』
(『日米戦争と戦後日本』五百旗頭 真:著より)
1945年(昭和20年)9月2日。
この日、横浜沖に停泊するアメリカ海軍の戦艦『ミズーリ―号』において、日本全権代表は連合国軍が用意した降伏文書に署名した。
この文書は、
日本の軍隊・人民による敵対行為を直ちに終止すること、
ポツダム宣言の条項を忠実に履行すること、
国家統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれること
などを内容とするものであった。
こうして、わが国は、ポツダム宣言と降伏文書の拘束を受けて、その内容を実施する国際法上の義務を負うことになる[以下略]
尚、ポツダム宣言には憲法(大日本帝国憲法)改正に関する明確な記述は存在しない。
しかし、憲法を改正する必要性は全く無いと言えるだろうか。
[略]ポツダム宣言の受諾および降伏によって、日本国が対外的な主権を喪失し、その領土が縮減され、明治憲法の軍関係規定(11条・12条)が事実上失効するなど、日本における実質的意味の憲法に著しい変化が生じたことは間違いない。
したがって、政治体制の根本的な改革が必要であることは誰の目にも明らかで、憲法改正もその意味で当然問題となってくる。
3日ほど時間を戻す。
1945年(昭和20年)8月30日。
この日、厚木飛行場に到着した愛機「バターン号」から、連合国軍最高司令官・マッカーサー元帥が降り立った。
マニラから給油のため沖縄へ。給油後に読谷飛行場から厚木に向かう中、「バターン号」機内でマッカーサーは、側近たちに対日政策の構想を語ったという。
[但し、これはマッカーサー独自の構想。アメリカの『初期対日政策』は、この時期まだ正式承認前]
その主な内容は、
『陸海軍の解体
婦人の地位の向上
婦人参政権の付与
政治犯の釈放
秘密警察の廃止
労働組合の奨励
農民の解放
教育の自由化
自由かつ責任ある新聞の育成』
などであった。
(『日本国憲法制定の系譜3』原秀成:著を引用)
側近たちはメモにペンを走らせた。
(続く)
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