あのとき何も残らなかった『夜と霧』を、もう一度読む
『夜と霧』をはじめて読んだのは、10年以上前のことだった。
当時のわたしは、その生々しい描写にただ圧倒されるばかりで、
正直なところ、ほとんど何も残らなかった。
本を閉じたあとの感触も、
どんな言葉に出会ったのかも、
いまは思い出せない。
少し前、YouTubeライブ「ことばのまんなか」で相方のきょっぴがこの本の話題を出したことがあった。
けれど、そのときはそのまま流れていった。
そしてつい先日、ご縁ができた方がオススメ本として紹介してくれた。
その瞬間、「いまだ」と感じた。
同じ本なのに、今なら読める気がした。
気づけば、一日で読み終えていた
ページをめくる手が止まらなかった。
次の展開が気になり、
気がつけば一日で読了していた。
全体像をつかめたとは思っていない。
それでも、ある一文が強く残った。
もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、
わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
「問い」という言葉に、アンテナが反応した。
びびっと、引っかかる感覚。
そしてすぐに思った。
「自分にとって、生きることってなんだろう?」
けれど、答えはパッとは出てこなかった。
少し焦る気持ちもあった。
でも、無理に言葉を探すのは違う気がした。
だからその日は、
“問いだけ”を自分の中に置いておくことにした。
読後すぐに起きた、小さな出来事
本を読み終えたあと、
次男くんのランドセルを通販で買うかどうか、という話になった。
安くて、良さそうなものがあった。
「今決めたほうがいいんじゃない?」
そんな空気で、わたしは決断を急がせようとしていた。
そのとき、妻に止められた。
「価格につられて焦って買うものではないよ」
その一言で、はっとした。
今思えば、かなり浮足立っていた気がする。
問いを、自分に向ける
そのとき、ふと思い出した。
“わたしたち自身が問いの前に立つ”。
次男くんに向ける前に、
自分に問いかけてみた。
「わたしは、どうしたい?」
すると見えてきたのは、
安さにつられている自分と、
早く決めて安心したいと思っている自分だった。
立派な答えではない。
けれど、正直な気持ちだった。
問いを向けたあと、
何かを無理に納得させた感じはなかった。
ただ、焦りから広がっていた波紋が、
時間とともに静まっていった。
そのとき、みぞおちのあたりが、ふっとゆるんだ。
ああ、自分はさっきまで、
ここをぎゅっと固くしていたんだ、と気づいた。
あらためて次男くんに聞くと、
「今は買わない」と笑顔で言った。
正解をつくったわけでもない。
誰かを説得したわけでもない。
ただ、波が引いていった。
いま、残っているもの
10年前には、何も残らなかった本。
けれど今回は、
大きな答えではなく、
ひとつの感覚が残った。
問いの前に立つこと。
問いを外に向けるのではなく、
いったん自分に戻すこと。
それは、何かを劇的に変えることではない。
自分の内側に広がった波紋を、
そのまま見つめること。
焦りや不安は、なくなるわけではない。
けれど、問いの向きが変わると、
波はどこまでも広がり続けるのではなく、
やがて自分の中で循環し、静まっていく。
あの日、みぞおちがゆるんだ感覚。
あれが、いまのわたしにとっての
「問いの前に立つ」ということなのだと思う。
生きることの意味は、まだわからない。
でも、問いの向きを整えることなら、
今日もできる。
そしてその小さな積み重ねが、
きっとわたしの生を、かたちづくっていくのだろう。
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