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日本では、母親が恋愛するのは恥なのか

 日本では、母親が恋愛するのは恥ずかしいことなのだろうか。

 わたしはシングルなので、恋人がいても法的にも倫理的にも特に問題ない。けれど保育園で、「今日は彼氏が迎えにきます」と言うのは、なぜかためらわれる。この母親は育児をそっちのけで恋愛にうつつを抜かしているのではないか、そんな不真面目な印象を持たれそうな気がする。「出産を終えたいい歳のオバサンが彼氏だなんて恥ずかしい」という、言葉にならない空気も感じてしまう。

 恋愛は若い人のもので、結婚への準備段階。大人になったら、人前で堂々とするものではない。保育園という公的な場に、私的な欲望を持ち込むなんてみっともない。そんなふうに、暗に言われているような気分になる。

 日本では「母親」という存在が、「子どもを育てる」「家庭を安定させる」という役割の色を強く帯びている。そしてそれは、「私欲を表に出さない」ことによって「子どもを最優先にする」存在である、という前提と結びついているのだろう。だから私欲の象徴のように見なされがちな恋愛は、母親という役割と相容れないものとして扱われる。

 けれど、恋愛しているかどうか、結婚しているかどうかと、子どもを最優先しているかどうかの間に、本当に因果関係はあるのだろうか。

 わたしは子どもを最優先にしている母親だが、恋人がいて、結婚はしていない。結婚しないのは、実父に確かな愛着のある子どもたちに、母親の都合で別の人物を「お父さん」と呼ばせたり、対外的に親子として振る舞うことを強要したくないからだ。それは、子どものアイデンティティへの配慮を最優先に考えたからこその選択である。わたしの中に矛盾はない。

 ただ、そのことを説明する端的な言葉が、この社会にはまだない。「結婚」というわかりやすい共通言語がないと、理解されにくい。

 かつてドイツでルームシェアをしていた相方のアンディが、クリスマスホリデーの帰省にわたしを連れて行ってくれたことがあった。彼女の実家は、母親とその恋人が暮らすアパートだった。

 「わたしのボーイフレンドよ」と微笑んで紹介する彼女の母親に、「いい歳した大人が恋愛をするなんて恥ずかしい」というためらいは一切なかった。その清々しさが、とても素敵だった。

 もしアンディが幼い頃から、母親とその恋人が一緒に暮らしていたのだとしたら、「今日は彼氏が迎えにきます」と、何の曇りもなく言っていたのではないだろうか。

 彼女の母親の姿を見て思った。
恋愛をしていることが清々しいのではない。清々しかったのは、それを説明しなくてよい世界だったことだ。
日本では、母親が恋愛をするとき、まず弁明が必要になる。

 だからわたしは、人の戸惑う視線を先回りして、「婚約者です」と言う。
「結婚する予定がある」ことは、この社会が用意した免罪符のようなものだ。
わたしは今日も、その免罪符を差し出す。
本当は、彼氏でも、恋人でも、それだけで十分なはずなのに。

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