消費社会・東京で「主体的に選べる自由」がもたらす幸せについて考えた
午後6時。少しずつ日が延びてきたと感じる今日この頃だが、さすがにもうあたりは暗い。
長男、次男、わたしは三人並んで手を繋ぎ、駅前の商店街を抜けた先にある自宅へと向かっていた。
帰り道は、いつも少し嬉しい。
「おいしそうな匂いがする」
次男が言った。これは大手牛丼チェーン店だな、とわたしは思った。わたしにとってそれは、「おいしそうな匂い」という感覚より、「知っているあの匂い」という情報に近かった。
学生時代は、よくアルバイトをした。
大人になり三人家族の大黒柱となった今は、外食費を極力抑えるために、わたしは昔も今も、格安チェーン店のお世話になっている。
その多くが、資本家が労働者を安価に使い、交換可能な存在として扱う構造の上に成り立っていることを、知らないわけではない。
むしろ知っているからこそ、そこでお金を使うことに、どこか後ろめたさを感じている。
これは、わたしの理想的なお金の使い方ではない、と心のどこかで思っている。
「おいしそう」と純粋な感想だけを持てる息子が、眩しい。
それでもわたしは、その店に入る。現実の生活の中では、理想的な消費者ではいられない。倫理を語るより先に、日々を回す判断が求められる。クーポンが電子決済と併用でき、貯まったポイントは上手に使えば価値が倍増する。そういう仕組みを、わたしは熟知している。それはこの街で暮らすための、ごく実務的な知識で、合理的な選択だ。
店内では、座席に設置された小さな画面が鮮やかな色彩の文字と写真を映し出し、リズミカルな電子音と共に次から次へと購買を促している。
「おいしい」と味わう経験を、時間を、溢れる情報の波に丸ごと飲み込まれてしまっているような感覚に陥る。
東京に長く住むわたしにとってそれはもう日常の光景で、慣れきった作業だ。
ふと考えた。
もし、日々の食事が「済ませる」ものではなく「楽しむ」もので、値札を見比べる習慣を忘れるくらいに、生活に余白があったとしたら。
わたしは商店街に並ぶたくさんの店の中から、もっと別の店を選んでみたい。
それは、ずっとこの街にあるお肉屋さんのお惣菜かもしれないし、見知らぬ国の人が作る知らない外国の料理かもしれない。
それを作る人のストーリーが垣間見えて、小さく感動できるような体験に、お金を使えたら幸せだと思う。
けれど、きっとどんなにお金持ちになっても、この社会で一人の生活者として生きる以上、理想的な選択だけを積み重ねることはできない。
経済力は、選択肢の数を増やす。
けれど、「選択肢がある」ことと、「主体的に選んでいる」ことは、同じではない。わたしが求めるのは、後者だ。
選択肢は多いに越したことはないのだろう。けれど経済的豊かさと引き換えに、評価やブランドといった「選ばされる基準」が増えることで、自分の感覚よりも外部の基準が優先される場面も、存在するかもしれない。そうなると少し悲しい。
それならいっそ、構造を理解した上で、格安チェーン店でもポイントシステムでも、低賃金である代わりに「いつでも誰かに代わってもらえる」働き方でも、上手に利用するスタンスが得策なのではないか、と考える自分もいる。
それは、無力さの自覚のようだと思う。
選べる範囲の限界を知った人間が、それでも自分らしく生きるために取る、苦肉の、でもある種の主体性だとも思う。
消費社会の波に歯向かう思考をやめ、乗りこなすことを、わたしは「自分の意思で選んでいる」。そこにはささやかだけど確かな、自己決定の実感がある。
「あなたにとって幸せとは何か?」と聞かれたら、わたしは「選べる自由があること」と答える。
それは財力の多寡に関わらず、自分の人生の運転席に座ってハンドルを握っている手応えがあるということだ。
方向や進み方のひとつひとつが、自分の選択だと実感できること。それが主体性を持って社会に関わることができる「自立の証」で、自由で、わたしにとっての幸せだ。
たとえ選んだ道が「使いこなす」側に回るという生存戦略であっても、だ。
東京には、モノも、人も、情報も、価値観も、十分過ぎるほどある。その中からこれを、この生き方を、母さんは選んだんだよ。
わたしは日々、こんなメッセージを我が子たちに手渡しながら生きている。
いつか彼らがそれぞれの運転席に座り、進む先を自分で選びながら、自由に生きていけるように。
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