人間、そしてその心の定義
クリエイティブAI講座:心の理論をGPT-4oで試してみた (youtube.com)
先ず、塚本先生のLex Fridmanを超えた、その場でのMC、その後の編集の能力と働きに、感動しました!サロンにお邪魔させていただいた時も、本当に感謝感謝でしたが、今回も驚嘆しました。AGIならぬNGI自然汎用知性とでもいえるような、高度な総合力知性を感じます。収録前にテーマの情報もしっかりご自分も把握され、既によく纏められた保田先生のプレゼンを視聴者の立場になって問いかけてみたり、瞬時に切り替えて解説する立場になってみたり、要所要所を権威である松田先生のご意見を伺って高度な問題の発展に繋げてみたり、情報処理速度のとてつもない速さを感じました。
さて、早い時間のコメントの返信に保田先生が「GPT-4oはちゃんとありうる可能性を考えてくれる」と表現されていらしゃいますが、与えられたコーパス(自然言語の情報プール)が拡張され、「ありうる可能性」=選択候補を、電子情報化されたプールのほぼ全域に探るようになったということでしょうか? 少し前にサロンで松田先生が、京都人の言い回しが直接の言葉の意味理解では分らない例を挙げられました。保田先生が使われた「素晴らしい、雨だ!」と言うのも同じで、シャーロック・ホームズ等では出てくる表現と思いましたが、私などは、日照り続きで雨を待っていたのか、くらいにしか思いませんでした・・・。
「心の理論」と言うのも、多くの統計学的アプローチと同じでしょうか?人間の知能発達年齢の正規分布を測定して、心の働きの現象のスケールを作る。
ただ、ここでも論議されていたように、自閉症とされるような場合の心はどうなのか、と言った問題が、直ちに起きます。前にもコメントしましたがF.ゴールトンから展開した優生思想は、まさしくその問題に陥ったものでした。
こうした観点で考えていくと、「心の理論」と呼ぶより、ただ「認知情報処理のスケール」くらいのタイトルが適切な気がします。そうであればAIの学習が情報プール拡張により、どんどん進展していく状況を測定できるということになると思います。
追伸
処理速度の低い特化型NI(自然知能)である私が、中世哲学という特化型情報プールを泳いで紐づけして編集作業した内容の一つですが、ここでその「心」を扱われた「人間」についての観方、人間観の一つのトピックを示します。
フロイト辺りから「コンプレックス」という概念が、心理の概念として、認知経験の結果、トラウマのような作用を措定し、「劣等感」等の表層現象に訳語が当てられるようになっていると思います。
しかし中世哲学では、complexは複合存在を表現し、主に「人間」を指しました。トマスの存在論では、存在者ensは存在esseと本質essentiaとの合成であり、本質にも形相formaと質料materiaとの合成があるとされます。
人間の場合、魂という形相と身体と言う質料をその本質に有する普遍的在り方を有し、それに純粋現実態エネルゲイア(=「神と人々が呼んでいる」無から創造するもの)から存在を与えられて現実態の状態になる、即ち現実の具体的個人となる、と説明されます。(保田先生が個人の限定原理を私に問われましたが、実は、ここにトマスにおける回答の一つがあります。つまり、与えらえる存在esse、エネルギーです。昔、中世哲学会の発表の時も問われて、そう答えました。)
ここから分かるように、人間の様な存在者は、本質と存在、形相と質料という二重の複合性を有し、従って、コンプレックスと呼ばれるわけです。 この複合性が存在論上の階層を上昇すると、先ず、形相と質料の複合は無くなり、質料としての身体を持たない形相である知性のみを、その本質に有し、そこに存在エネルギーを与えられる(現実的個となる)存在者が位置付けられます。それが天使であるとされるわけです。質料的個体性を有しませんので、「一個が一種(普遍)」の無限数の存在者となるわけです。ただ、本質と存在の複合は、有しています。
しかし、さらに上位にこの存在論の論理を追うと、本質と存在との複合を持たない、言い換えれば、その本質と存在が区別されない、「本質が存在そのもの」という存在者を措定しなければならなくなります。これが無くば、宇宙、世界も一切、存在できません。そうした論理必然で位置付けられ、存在証明がなされる純粋現実態エネルギーこそ、何の複合もないのですから、Simplex単純存在であるとされるわけです。
こうしたトマスの存在論から「人間」を眺めて、AI研究の発展の時代において、人間の定義、その「心」の定義を再確認する必要性を、感じています。
・・・・考察中の問題
上でも個体原理を問われて、「与えられた存在」と応じた件を記した。しかしトマスの存在論に従えば、人間的存在者はその存在との合成に入る本質が認められるのであり、それを特定してこそ、人間的存在者の個体原理を示したことになる。
するとここで出てくるのが、(私のトマス研究テーマの中心となった)「個のイデア」である。
詳細は、note 『神の知と人間の知』「第3部 神学的世界観の根本原理―トマスのイデア論―」=(「トマス・アクィナスの神学におけるイデア論の位置付け」『南山神学・別冊』第7号(南山大学大学院神学研究室、1989年))に論じたのであるが、「個のイデア」がイデアとしては根源的なイデアであり、プラトンが論じた様な永遠普遍的なイデア、あるいは質料のイデアさえ、この「個のイデア」の内に内属すると、トマスは論じた。
こうした推論は、上記の論文でも触れたが、スコトゥスの「このもの性」やライプニッツの「モナド」の思考モデルの流れに向かうものとも思われる。トマスの場合は、人間的存在者の個体原理として見ることが出来る論議は「個のイデア」において留め、「このもの性」「モナド」と言う思考法に類似する次元を、「天使論」において考察したのではないかと考えられる。
「一個が一種(普遍)」である無限数の個体の天使が、論理必然として「存在するとしなければならない」。身体を持たない天使に感覚器官は当然なく、その認識は宇宙の全情報を注入知として、その存在と共に与えらえ受取る。但し、その存在エネルギーの現実態の状態にする力の無限の段階、即ち天使的個性に応じて、認識の言わば解像度が無限に位置付けられている。
これこそが、トマスの天使論の思考法の核心であろう。
すると、翻って人間の在り方を見た時、『福音書』の「復活の時には天使の様になるのだ」と言われることを、上の「天使論」に結び付けられるだろうか?
この問題が大きな残される問題である。やはり「人間は理性的動物である」とされる「動物」としての在り方に価値観、倫理観の基礎を置くのだろうか?それは捨象されるのだろうか?
AIアライメント問題と関連して、考察を続けるとしよう・・・。
