「クラシックはブルジョワ趣味だ」と叫んだ男が、最もブルジョワだった話──田端信太郎氏のブルデュー誤用
第一章 奇妙な怒りについて
ブライアン・イーノの『Music for Airports』をかけていた。あのアルバムは、何かをしながら聴くことに最も適した音楽だと思っている。環境に溶け込みながら、しかし確かにそこにある。
Xのトレンドを眺めていたら、こんな見出しが目に入った。
「志位委員長と石破氏のクラシック対談に『ブルジョワ趣味』批判が広がる」
世も末だ、と思った。
クラシック音楽について語り合っただけで「ブルジョワ趣味」と批判される時代か──と。
しかしよく読んでみると、批判されているのは志位氏でも石破氏でもなかった。
「ブルジョワ趣味」と批判した側、つまり塾長でお馴染みの田端信太郎氏が、逆に批判を受けているのだった。
音楽の趣味は自由だけどw現代で「クラシック音楽」とかブルジョワ趣味の極みw
— 田端信太郎 @ 毎朝8時45分から株ライブ! (@tabbata) May 25, 2026
こっそり楽しむなら個人の自由だけど、日本共産党が労働者、持たざる者の見方を標榜するなら「クラシック音楽」の素晴らしさを語ることが、現場の末端労働者・困窮者からどう見られるか?ということに想像力な差すぎw https://t.co/anuU4Yn7xC
なるほど、と思った。
それでも怒りは矛先を変えただけで消えはしなかった。
田端氏が間違えたことへの怒り、それだけではなく──知的な世界において間違いは避けられない──その間違え方への怒り、とでも言えばいいのか。
いくらなんでもその間違い方はない。
今回の間違いは単純な事実誤認ではなく、もっと根の深いところから来ている。
第二章 40年前の武器
クラシック音楽が好きな人は、上流階級であるという定量的なエビデンスは各国において、以前から複数あります。
— 田端信太郎 @ 毎朝8時45分から株ライブ! (@tabbata) May 25, 2026
古典的・基礎エビデンス Bourdieuの『Distinction』(1979)…
ブルデューの「ディスタンクシオン」は1979年のフランスのデータに基づいている。「高級文化の消費が階級的地位を可視化し再生産する」という知見は、当時の文脈において鋭い洞察だった。
しかしその後、文化社会学は止まっていない。
1990年代以降、リチャード・ピーターソンらの「文化的オムニボア」理論が実証的に示したのは、現代の高学歴・高所得層の特徴は「クラシックしか聴かない」排他性ではなく、あらゆるジャンルを横断できる雑食性だ、ということだ。
つまりブルデューが描いた「スノッブ型」の文化消費モデルは、すでにアップデートされ、過去のものになっている。
田端氏が「最新の知見」として持ち出した武器は、すでに40年以上前の旧式品だった。
なぜこんな間違いをするのか。
「使いやすい概念」を手に取っただけの、思想のいわゆる「切り抜き」──私にはそう見える。
ブルデューという名前には権威があり、言葉は響きがいい。まあ、そういうことだと思う。
第三章 イーノの娘たちが知っていること
私はCDを1万5000枚ほど持っている。
かつてはレコードも大量に所有していたが、処分して15年が経つ。これだけ集めるには相応の時間と執念が必要だった。ロックコーナーの棚の端から端まで見て回り、輸入盤をチェックし、オークションに目を光らせる。1枚ずつ手に入れてきた音楽の蓄積は、その人間の音楽史そのものだ。
しかし今の若者は、月額千円程度で私のコレクションの何倍もの音楽に、スマートフォン一台でアクセスできる。
イーノは2009年のインタビューでこう語っていた。
(余談だが、ロキシー・ミュージックの「知的な側面」を体現していたのは、ブライアン・フェリーよりもむしろイーノだったと私はずっと思っているのだが──それはまた別の話として。)
「音楽においてもはや歴史というものは存在しない。あらゆるものが『現在』にある。これがデジタル化の結果のひとつだ。誰もが何でも『所有』できる──かつてのように、苦労して貯めたお金で手に入れ、大切に守るような小さなレコードコレクションではなく。
私の娘たちはそれぞれ5万枚くらいのアルバムを持っている。しかもドゥワップから始まるポピュラー音楽史のあらゆる時代の作品を持っていて、何が最新で何が昔のものなのか、よく分かっていない」
かつてクラシックが「ブルジョワの特権」に見えたのは、高価なレコードと演奏会チケットが一部の階層にしか届かなかったからだ。そこには経済的な障壁だけでなく、「どこに行けば何が聴けるか」という情報の障壁もあった。
スマートフォン一台でカラヤンの全録音にアクセスできる時代に、「クラシックを聴くことがブルジョワの記号だ」という主張は、現実ではなく1979年のパリの幻影を攻撃している。
1万5000枚という物量で音楽と向き合ってきた人間として、その「特権性」の感覚は理解できなくもない。しかし、月額千円で何十万枚ものコレクションを所有できる時代に、田端氏の図式がいかに現実から遊離しているかも痛感する。
第四章 誰が労働者を侮辱しているのか
田端氏は「末端の現場労働者からどう見られるか想像せよ」と言った。しかしこのロジックの奥には、「労働者はクラシックを楽しむ政治家に反発するはずだ」という前提が埋め込まれている。
これは敬意ではなく、蔑視の裏返し、いわゆる「偏見」だ。
日本は世界的に見ても吹奏楽人口が突出して多い国だ。中学・高校で吹奏楽部に所属したことがある人間の数は、おそらく数百万単位に上る。地方の公立学校でトロンボーンやクラリネットを吹き、コンクールに向けて汗を流した若者の多くは、決してブルジョワ階級の出身ではない。彼らはクラシックや管弦楽曲に10代から親しんでいる。「クラシックは縁遠いもの」という田端氏の前提は、その現実をそもそも視野に入れていない。
共産党を攻撃するために「労働者目線」という言葉を借用しながら、「労働者は文化を解さない」という偏見を基盤にしているとすれば、それは欺瞞だ。志位氏を批判しているつもりで、労働者を道具として使い、そして見下している。そしてなにより労働者に対しての構造的な差別となってしまっている。
モーツァルトは極貧で死んだ。
バッハは今日的に言えば教会雇用の職人作曲家だった、にもかかわらず、だ。
第五章 ある喜劇について
田端氏がブルデューを引用して「クラシックはブルジョワの記号だ」と言える人間は、そもそもブルデューを読んでいる人間だ。千ページ超の社会学書を読み、「文化資本」という概念を使いこなせるというのは──ブルデューの言葉を借りれば──典型的な文化資本の顕示だ。「文化資本の顕示は欺瞞だ」と主張するために、みずからの文化資本を全開にしている。
まあ、念のため。このことは田端氏の主張を論理的に無効にするわけではない。そういう話ではなく、アイロニーの話をしている。
田端氏のXを「鋭い」と感じながら読むフォロワーの大半は、おそらく都市部のビジネスパーソンだろう、及び40~50代の知的ネット民だろう。「労働者目線」を語る言葉が届く先がおおむね同じ文化的階層の人々というのは、なかなか洒落た皮肉だと思う。Xのトレンドに「ブルジョワ趣味批判が広がる」と出て、批判されていたのが批判した側だった──あの瞬間の構図が、すべてを物語っている。
第六章 田端信太郎という発言様式
田端氏の今回の発言を、私は孤立した失言として見ていない。
彼はこれまでも、女性に対して「無能」と投稿して書類送検される事態を招いたり(後に不起訴)、人間のあらゆる行為を「ブランド人」としての価値に還元する発言を繰り返してきた。著書『ブランド人になれ!』が体現するように、彼の世界観においては多くの場合、人間の行為は「市場における自己の価値付け」という文脈で読まれる。
志位氏がクラシックについて語ったことを、田端氏は「有権者へのシグナリング」として読んだのだろう。だから「そのシグナリングは的外れだ」という批判になった。しかし音楽について語ることが「シグナリング」にしか見えないとすれば、それは批判される側ではなく、批判する側の認知の問題だ。
私は30年以上、音楽や映像のコンテンツを扱う仕事をしてきた。企画を立て、アーティストと交渉し、作品を世に出す仕事の中で繰り返し確認してきたことがある。音楽が人を動かす瞬間は、市場価値の計算の外側で起きる。そこに田端氏の図式は、あまり役に立たない。
それにしても2000年代に台頭したネット論客たちの劣化が激しい。
具体的な名前を挙げるのは控えるが、彼らに共通する傾向として、筋違いの感情論で脊髄反射的ポストして炎上するケースが多い。
ネットリテラシーが低いのだろうか(笑)?
終章 音楽の話ができる、まだ対話ができる
渋谷でDJをやるようになったのは2010年前後のことで、それ以前はクラシック・ロックをひたすら聴いてきた人間だった。最初はフロアで何をかければいいのか、本当に分からなかった。自分が愛してきた音楽とダンスミュージックの間には、かなりの距離がある。
しかしフロアに立ち続けるうちに、一つのことを確信した。
様々な背景を持つ人々が同じ音楽に反応する瞬間に、階級も職業も年収も関係しない。その場に集まった人々の属性を、私は知らない。知る必要もなかった。音楽が持つ「階級を無効化する力」は、理念ではなく現実だ。
志位氏と石破氏が音楽の話で盛り上がった。政治的立場が対極にある二人が、音楽という回路を通じて一瞬だけ別の次元で接触した。それは、ただ人間的なことだ。
田端氏がそれをどう読もうと、その事実は変わらない。
音楽の話ができる人間は、まだ対話ができる。
私はそう信じている。信じすぎないように気を付けながら。
他人の庭にあまり踏み込まないように。
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