MUSIC AWARDS JAPANのステージに立つ高市早苗──サム・スミスとの落差
壇上で「パフォーマンス」した首相
MUSIC AWARDS JAPAN(MAJ)2026の前夜祭、6月12日のGala Partyに、高市早苗首相が登壇したとのこと。結論から言えば、私はこの登壇に強い違和感を覚える。どっちらけだ。素敵で可愛らしいオープニング映像も台無しだ。
ネットで散見される「日本を代表する巨大企業TOYOTAのプロモーションか?」という批判にはこの際目を瞑る。
ちなみにこれは、あの春ねむりのポストだ。
その声は嫌みを超えて怒りに達している。
主に北米のファンに食わせていただいている音楽家なんですけれども
— 春ねむり HARU NEMURI (She/Her) (@haru_nemuri) June 12, 2026
トランプのクソ関税システムに振り回されてグッズやCDがアメリカに発送できずに困ってます。
そして海外ツアーするにも円が安すぎてツアー前にかかる経費を計算するだけで血を吐きそうです。血を吐いてもやるけど。… https://t.co/FeKUrLUKb8
首相官邸が公開しているスピーチ記録によれば、高市首相は、前年このイベントを立ち上げた際に当時の文化庁長官だった都倉氏がリーダーシップをとったこと、そして自身も「ちゃんとテレビで見るように」とのメールを受け取ったことを振り返り、CEIPAの依田会長、村松理事長(SME会長)をはじめ関係者への敬意を表し、すでに一週間にわたってMUSIC AWARDS JAPAN WEEKとして複数会場でライブイベントが盛り上がりを見せていると語った。
そして音楽を含むコンテンツ分野が高市内閣の成長戦略17分野の中核であると位置づけている。
首相は翌日からG7サミットのためイギリス・イタリア・フランスを巡る予定であり、受賞結果については「機中で報告をもらえると思います」と述べている。つまり、首相にとってこのスピーチは、外遊前夜に組み込まれた「ついで」の挨拶だ。
要は、高市の国民向けパフォーマンスに、日本の音楽のセレモニーが利用されたのだ。気持ち悪い。
それでも、この日のステージそのものは見応えがあった。羊文学、藤井風、米津玄師、サカナクションのライブは、いずれも素晴らしい演出で確かなものだった。
だからこそ、その確かな音楽の前に置かれた「首相のついでの挨拶」という構図が、余計に浮き立って見えてしまう。
韓国に劣る、という現実
MAJはもともと官民連携の賞だから首相の登壇は自然、とも考えられる。MAJは音楽業界の主要5団体──日本レコード協会、日本音楽事業者協会、日本音楽制作者連盟、日本音楽出版社協会、コンサートプロモーターズ協会──が垣根を越えて設立したCEIPAによる音楽アワードであり、2025年5月に初回が開催された。
主催はCEIPA、協力には経済産業省・文化庁・JETROが並び、後援には東京都・江東区・国際交流基金が入っている。
だが、この「立て付け」だから仕方がないというのは、私には逆に情けない話に聞こえる。
韓国と比較するとわかる。
2021年の国家予算に占める文化支出の割合は主要国の中で韓国が1.23%と最も高く、国民1人当たりの支出額もフランスに次いで多い。
さらに韓国政府は2024年に過去最大規模となる1兆ウォン規模の予算をKコンテンツ輸出支援に投じ、海外拠点を10カ所から2027年までに50カ所に増やす方針を示した。
そして2010年に文化体育観光部とKOCCAが共同主催したK-POPショーケースライブが東京で大きな反響を呼んだように、韓国政府は海外でのショーケースを主催し、輸出拠点を整備し、予算をつける。
だが、少なくとも私が知る限り、韓国の大統領や閣僚がK-POPの授賞式に登壇して政策を語る場面は、日本ほど前面に出てくる形では見当たらない。
一方日本は、規模でも韓国に大きく劣り、しかもその上で「首相登壇は立て付けとして自然」と擁護されてしまう。
予算規模で劣り、政治との距離感でも劣っている。二重の劣後だ。
グラミー賞──壇上で権力批判が当たり前
もう一つ、比較しておくべき舞台がある。米国のグラミー賞だ。
2026年2月の第68回グラミー賞では、受賞者たちからトランプ政権への批判が相次いだ。最優秀アルバム賞を受賞したプエルトリコ出身のバッド・バニーは、スペイン語と英語を織り交ぜたスピーチで、夢を追うために故郷を離れざるを得なかった人々に賞を捧げると述べた。
これは、移民取り締まりを強める米政権への、明確な異議表明だった。
さらに踏み込んだのが、年間最優秀楽曲賞を受賞したビリー・アイリッシュだ。アイリッシュはステージ上で、奪われた土地に不法滞在している人など誰もいないと述べ、何をすべきか難しい状況の中でも会場には希望を感じると語った。移民・税関捜査局を批判する「ICE OUT」のバッジを着けた受賞者たちの姿も会場には見られた。
この発言の代償は小さくなかった。トランプ大統領は自身のSNSで、グラミー賞を「最悪であり、事実上、視聴に耐えない」と酷評し、司会者を名誉毀損で訴える可能性を示唆した。
ここに、MAJとグラミー賞の決定的な違いがある。
グラミー賞では、壇上に立つのはあくまでミュージシャン自身であり、その壇上から、時の権力者を名指しで批判する。批判には代償が伴う──大統領からの名誉毀損訴訟の脅しという、現実のリスクだ。それでもアーティストは言葉を選ばなかった。
MAJでは、その壇上に権力者自身が立った。
批判する側と批判される側が、同じステージに同時に存在することは、構造として最初から想定されていない。アーティストが何を歌うかではなく、誰がステージに立つかという一点において、すでに二つの賞は別の世界線を生きている。
音楽がメッセージであるほど、権力と距離を置け
私の基本的なスタンスはここに尽きる。
音楽が政治的なメッセージを発する自由を持つためには、音楽の祭典という場そのものが、権力者個人のステージになってはならない。
現代の日本の主要アーティストの多くは、若者の孤独や承認欲求を歌うことが多い。羊文学のように社会への苛立ちや反戦・反差別を原動力にする表現者はいるし、米津玄師のように女性の権利や社会的不平等をテーマにした作品と深く結びついた楽曲を書くアーティストもいる。
だが、バッド・バニーやビリー・アイリッシュのように、受賞スピーチの壇上で時の権力者を名指しで批判する──そのタイプの表現は、まだ日本の主流の場では生まれていない。
バッド・バニーやビリー・アイリッシュが権力を名指しで批判できたのは、そのステージが誰のものでもなかったからだ。アーティストだけが立つ場所だったから、言葉は自由だった。MAJでは、批判されるべき権力が先に壇上に立ち「音楽は国家の成長戦略だ」と言い残して去っていった。後に残されたアーティストたちが、いったい何を叫べばよかったのか。
もともと政治的メッセージを発する文化が薄い土壌に、首相個人が登壇するという光景が積み重なっていけば、次に誰かが政権批判的な楽曲を発表しようとするとき、その判断には「この業界は政府と仲がいい」という空気が影を落とす。
表現の自由は、こうした空気の蓄積によって、ゆっくりと狭まっていく。
業界を支えてきた苦労人が、この賞を支えているという事実
ここから少し、私個人の話をしたい。
実はMAJには、私が大変お世話になった方々や、尊敬するかつての上司が、団体の一員としてご苦労されている。だからこそ、この賞の成り立ちに対して批判的なことを書くのは、正直、苦しい。
彼らは長年、日本の音楽産業のために汗をかいてきた人たちだ。海外売上でK-POPに2倍から2.5倍の差をつけられているという現実の中で、何とかして日本の音楽を世界に売り出そうと、CEIPAのような枠組みを作り、経済産業省や文化庁との協力を取りまとめてきた。その努力自体には、敬意しかない。
しかし、その努力の結晶であるはずのMAJが、首相の「ついで」の登壇によって、ネット上で「税金たかり」「クールジャパンならぬレームジャパン」と揶揄される。K-POPに勝てない、グラミー賞のような文化的権威を自前で作れない──だから政府の後ろ盾を借りて「国策の賞」という箔をつける。その箔付けこそが、音楽ファンから見た「しらけ」の原因になる。
恩人たちが守り、育ててきた現場で、羊文学のような若いバンドや、藤井風、米津玄師、サカナクションといったアーティストたちが、あれだけのステージを見せてくれたことは、紛れもない事実だ。
だからこそ、その現場が「国策の賞」という箔付けに頼らざるを得ない構造そのものが、なおさら悔しい。恩人たちが積み上げてきた努力が、構造そのものの設計のせいで、逆に音楽ファンとの距離を広げてしまうかもしれない。
私がこの賞に感じるのは、日本の音楽業界の強烈なルサンチマンだ。
サム・スミスの「My Guy」と、両親が知らなかった時間
そして、もうひとつ書いておくべき事実がある。
スペシャルゲストのサム・スミス──ノンバイナリーであることを公言し、ゲイであることもオープンにしているアーティストが、「My Guy」を披露した。自分の愛を、何も隠さずに歌う曲だ。
つまり、そういうことなのだ。
片方では首相が成長戦略を語り、海外売上の数字を並べた。もう片方では、性的指向や性自認を包み隠さず生きてきたアーティストが、誰を愛しているかを堂々と歌にした。
彼が自分の生き方を、どの国の文化戦略にも政権の成長戦略にも預けてこなかった。その自由は、MAJという「国策の場」に招かれてもなお、彼自身のものだった。そこだけが、この夜唯一、首相の言葉が届かない場所だったのかもしれない。
私の両親は、父の顔を知らずに育った。戦争がその顔を奪い、疎開先では母とも引き離された。幼い兄弟姉妹だけで、知らない土地で、ただ生き延びた。二人が時折ぽつりと語る断片を、私は子どもの頃から重いものとして受け取ってきた。
父を知らず、母とも離れて育った二人が、それでも生き延びて、家庭を持ち、私を育ててくれた──その先にようやく、音楽を聴く時間が、語り合う時間が、生まれた。音楽が鳴る場所は、誰かがその「沈黙の時間」を引き受けてくれた、その先にしかない。
だからこそ、その平和を守るための仕組みそのものに、政治家個人の存在が深く入り込んでくるとき、私はどうしても身構えてしまう。
それは音楽が持つもう一つの役割──違和感を音にして欠落感を埋め、時代に異を唱える役割──を、確実に削いでいく危機感を漠然と覚える。
両親が知ることのなかった父と母の時間を、私は音楽を通じて、せめて自由な形で取り戻したいと思っている。
それを脅かすものに対しては、たとえ恩人たちが関わっていたとしても、私はやはり、はっきりと異を唱えたい。
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