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「旧統一教会=自民党」は誤解──感情に流されず本質を見るためのnote

179人の議員は、今も平然と国会にいる

2024年11月、自民党が「宗教団体との関係透明化指針」なるものを改定したとき、正直なところ失笑した。
2022年の調査で統一教会との接点が判明した179人──自民党議員の約半数だ──のうち、完全に関係を断ち切ったと証明できたのは何人いたか。片手で数えられるほどである。

残りは? 知らぬ存ぜぬを決め込むか、「認識が甘かった」「知らなかった」という、およそ政治家とは思えない言い訳で逃げ切った。

安倍銃撃から3年半が過ぎた。
メディアはもう統一教会を取り上げない。ワイドショーのコメンテーターも次のネタに移った。しかし問題は何一つ解決していない。それどころか、私たちは問題の所在そのものを見誤っている。

「統一教会が日本の政治を動かしている」
「自民党は統一教会の傀儡だ」

──果たして本当にそうだろうか?

違うと思う。

真実はもっと構造的で、もっと醜悪なのだ。

そして、統一教会問題で我々が声を上げるべきポイントはそこではない、むしろ過大評価は敵の思う「壺」だと理解すべきだ。


憲法違反と政治支配は、別の話である

まず法的な論点から。

憲法第20条は、宗教団体が「政治上の権力を行使してはならない」と定めている。第89条は宗教団体への公金支出を禁じている。統一教会と自民党議員の関係は、この政教分離原則に明白に抵触する。

179人が接点を持っていた。組織的な選挙協力、祝電、イベント出席。これは憲法違反だ──ここまでは誰も異論がないだろう。

だが、ここで多くの人が混同している。

憲法違反の事実があることと、統一教会が政治を支配していることは、まったく別の話だ。

癒着はあったが、それは支配とは違う。むしろ逆だ。
ここを単純に誤解してはならない。

政治家たちが統一教会を「使い捨ての道具」として利用してきたのである。

この構造を見誤ると
──そして実際、大半の人が見誤っているのだが──
私たちは永遠に第二、第三の統一教会問題を生み出し続けることになる。


選挙に金がかからない──これが「麻薬」だった

なぜ議員たちは統一教会と手を組んだのか。理由は驚くほど単純だ。

手を組めば選挙に金がかからないからだ。

日本の公職選挙法は、先進国の中でも異様なほど厳格で、選挙運動には膨大なコストがかかる。ポスター貼り、電話かけ、戸別訪問──中選挙区なら人件費だけで500万から1000万が吹き飛ぶ。総務省の統計では、衆議院議員一人あたりの平均選挙費用は約2000万円だ。

企業献金は制限され、政党助成金だけでは足りない。議員たちは常に「金のかからない選挙」を探している。

そこに統一教会が現れた。信者たちは無償で働く。
「宗教的使命」という名目で。議員側は人件費ゼロで選挙を戦える。ある関係者の証言では、統一教会の支援があれば選挙費用が従来の半分以下で済んだという。

これは麻薬だ。一度味わったら抜け出せない。

しかも双方にとってWin-Winである。
議員は当選し、教団は政治的影響力と社会的信用を得る。
誰も損をしない──有権者と民主主義を除いては。


被害額1237億円が放置された理由

統一教会の霊感商法被害は、1980年代から社会問題だった。全国霊感商法対策弁護士連絡会によれば、被害相談は累計3万4000件以上、被害総額は1237億円を超える。

にもかかわらず、宗教法人格の剥奪も、厳格な規制も、長年見送られた。なぜか?

政治家の介入があったからだ。

消費者保護法の適用除外、税制優遇の継続──教団は政治的コネクションを駆使して、本来受けるべき法的制裁を逃れてきた。これは単なる「癒着」ではない。公権力の私物化であり、場合によっては刑法上の収賄罪や背任罪に該当しうる。

しかし誰も捕まらない。なぜなら「宗教の自由」という盾があるからだ。そして政治家たちは、その盾の陰で利益を貪ってきた。

179人の議員は、反社会的団体と知りながら協力し、見返りに便宜を図った。彼らは統一教会の「被害者」ではない。確信犯的な共犯者である。


誤解①──統一教会は政策の「設計士」ではない

ここで重要な事実を指摘しておく。

統一教会は日本の政策を動かしていない。

憲法改正、歴史認識、家族観、教育政策──自民党右派の政策の多くは、日本会議の影響下にある。日本会議には約280の地方議員、3万8000人の個人会員、多数の国会議員が参加している。その政策提言力は、統一教会とは比較にならない。

日本会議の背後には神社本庁がある。そして「美しい日本の憲法をつくる国民の会」「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」などのフロント組織を通じて、教科書検定、安保法制、憲法改正論議のすべてに関与してきた。

統一教会の勝共理論や家族観は、たしかに日本会議の主張と重なる。しかしそれは偶然の一致であって、統一教会が政策立案に関与しているわけではない。彼らは既存の保守政策に便乗しているだけで、独自に政策を動かす力はない。

統一教会が選挙の「便利屋」なら、日本会議は政策の「設計士」だ。むしろこちらの方が、民主主義への脅威としては遥かに深刻である。

なぜなら、日本会議は「思想」を提供しているからだ。
彼らは単なる票田ではない。
保守政治家たちの世界観そのものを形成している。

安倍政権下での「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」というスローガンは、すべて日本会議の思想的バックボーンから生まれている。統一教会が提供したのは労働力だが、日本会議が提供したのは「正当性のナラティブ」だ。
前者は選挙に勝つための手段だが、後者は勝った後に何をするかを決定する。

統一教会は労働力を提供した。
しかし日本会議は思想を提供した。
どちらがより危険か、言うまでもない。


誤解②──自民党は統一教会の傀儡ではない

「自民党は統一教会に支配されている」という陰謀論も根強い。しかし、これは実態を完全に見誤っている。

真実は逆だ。

政治家たちが統一教会を便利な道具として利用してきたのである。選挙では労働力として活用し、保守政策では「宗教票」として動員する。
しかし、教団が政治家に何か要求しても、応えるかどうかは政治家次第だ。統一教会は政治家に対して強制力を持たない。

この関係は、暴力団と政治家の癒着構造に似ている。政治家は暴力団を選挙の「便利屋」として使うが、暴力団が政治を支配しているわけではない。同様に、統一教会は自民党にとって使い捨て可能な外部リソースでしかなかった。

だからこそ、安倍銃撃後、自民党は驚くほど迅速に統一教会との「関係解消」を宣言できた。本当に支配されていたなら、こうはいかない。179人もの議員が関係を持ちながら、党方針の転換が一夜にして可能だったのは、統一教会が「支配者」ではなく「道具」だった何よりの証拠である。


創価学会という「可視化された政教一致」

「では創価学会と公明党の関係はどうなのか」と思った人は鋭い。

この問題も、本質的には同じ構造だ。
しかし決定的な違いが三つある。

第一に、創価学会は霊感商法のような組織的犯罪を行っていない。統一教会の被害額1237億円という実害と比較すれば、この違いは大きい。

第二に──そしてこれが最も重要なのだが──創価学会は自らの政治参加を隠していない。公明党という看板を掲げ、堂々と政策を主張している。この「可視性」が、統一教会の秘匿性とは決定的に異なる。

統一教会が自民党議員に「秘密の支援」を提供したのに対し、創価学会は公明党として「公然と政治に参加」している。前者は憲法が禁じた「宗教団体による政治上の権力行使」の典型だが、後者は(問題含みではあるものの)、少なくとも民主主義のルールの範囲内で活動している。

第三に、創価学会は組織内の意思決定プロセスが比較的透明だ。公明党の政策は、創価学会の教義や方針と明確に連動しており、有権者はそれを承知の上で投票する。一方、統一教会と自民党議員の関係は、有権者に隠蔽されたまま進行した。

だからといって創価学会と公明党の関係が「問題ない」わけではない。

政教分離という憲法原則からすれば、宗教団体が実質的に政党を支配する構造は、やはり問題含みだ。しかし優先順位をつけるなら、まず反社会的行為を行う団体との癒着を断ち切ることが先決である。

創価学会の問題は「可視化された政教一致」だ。一方、統一教会の問題は「秘匿された犯罪組織との癒着」だ。

この区別は重要だ。


民主主義のコストを誰が負担するのか

統一教会問題の本質は、民主主義を機能させるコストを誰が負担するのかという根本的な問いに行き着く。

日本の選挙制度は、候補者個人に膨大なコストを課す。企業献金が制限され、政党助成金だけでは足りない。結果、議員たちは「金のかからない選挙」を求めて、宗教団体や業界団体に依存する。

統一教会問題は、この構造的欠陥の一症状に過ぎない。

私たちが本当に向き合うべきは、日本の選挙制度、政治資金制度、政教分離の実効性──これらの構造的問題だ。
統一教会という「悪の組織」を糾弾すれば解決する話ではない。第二、第三の統一教会が現れるだけである。


おわりに──構造を変えなければ、何も変わらない

感情的な魔女狩りでは何も変わらない。これが私の結論だ。

統一教会は政治を支配していない。
自民党は統一教会の傀儡ではない。
むしろ政治家たちが統一教会を道具として使い、反社会的団体に便宜を図ってきた──これが真実である。

感情的になっても許されるのは、
自民党右派が韓国の宗教団体の支援を受けているという「欺瞞」、
そして過激な支持者たちの云われなき嫌韓感情との「矛盾」

に対する怒りだけだ。

179人の議員は、今もほとんどが国会にいる。彼らは何の責任も取っていない。私たちが忘れれば、彼らはまた次の「道具」を見つけるだけだ。

問題は人ではなく、構造だ。
選挙制度・政治資金制度を見直し、政教分離を実効性のあるものにすることだ。
それが、民主主義を守る唯一の道である。

感情論を捨て、構造に目を向けよ──それが本稿の主張だ。


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