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「神座を降りた男」岡林信康・1975〜1980年の転換期を、還暦の目で見直す

1977年。私は中学に入学した。
地元から少し離れた私立中学、もちろん地元の人間など一人もおらず、当時シャイだった少年はラジオをきっかけに音楽にのめり込んでいった。

入学式の帰り道、駅前のレコード屋のショーウィンドウに飾ってあったのは「ラブソングス」、ただし岡林信康ではなくビートルズの、だ。
岡林のジャケットが飾ってあったかどうか、正直覚えていない。

でも確かなのは、あの頃の私たちは何かが始まり、そして終わりかけていることを、言葉にならないまま嗅ぎ取っていたということだ。
授業中に机の下でコソコソ回していたのは反戦ビラではなく、YMOのカセットテープだった。時代は静かに、しかし確実に衣替えをしていた。

その同じ年に、「フォークの神様」は神座を降りた。


「日本のボブ・ディラン」という重荷

岡林信康には「日本のボブ・ディラン」という異名があった。「山谷ブルース」「手紙」「チューリップのアップリケ」──社会の底辺に生きる者たちの言葉をギター一本で叩きつけた姿が、公民権運動のディランと重なって見えた。だが、その本家が既に神話の解体を始めていたことは、当時の日本ではあまり知られていなかった。

1965年のニューポートでエレキを鳴らしてブーイングを浴び、バイク事故後はザ・バンドと山荘に引きこもり、1970年代末には離婚と回心という痛みの中でゴスペルを叫んでいたディラン。岡林が農村で土を耕し、演歌を歌い、家族を歌っていたのとほぼ同じ時期のことだ。「フォークの神様」たちが太平洋を挟んで同時に、神座の重さに耐えかねて地上に降りていた。

これは偶然の一致なのか。それとも、あの時代が世界中の表現者に等しく課した何かだったのか。還暦になった今も、答えは出ていない。


1975年:演歌という「禁忌」への飛び込み(『うつし絵』)

岡林の転換は1975年の『うつし絵』から始まる。

日本コロムビア移籍第一弾のこのアルバムは、全編が演歌・歌謡曲という衝撃作だった。

きっかけは些細なことだった。テレビで西川峰子の「あなたにあげる」を耳にし、その旋律が頭から離れなくなった岡林は、ひばりや三橋美智也のレコードを買い漁り始める。そして書き上げた「月の夜汽車」が美空ひばりの耳に届き、コロムビア移籍へと繋がっていく。

思想や言葉で音楽を語っていたフォークの若造に、ひばりは体で示した。音楽とは理屈ではなく芸だ、と。自分の専門ジャンルの「タコ壺」から出て、隣の職人芸に頭を垂れる──そういう謙虚さは、ある年齢を過ぎないと辿り着けない場所にある。四十代、五十代を経て今の私にはわかる。二十代の岡林がそこに踏み込んだのだから、よほど何かが限界に達していたのだろう。


1977年:演歌の対極へ──『ラブソングス』という原点回帰

『うつし絵』の2年後、岡林は真逆の方向に舵を切った。それが『ラブソングス』(1977年4月)だ。

「もう一度、弾き語りから自分の歌を組み立て直したい」。演歌への没入を経て出てきた言葉が、そのままアルバムのコンセプトになった。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドや鈴木慶一とムーンライダースが参加したこの作品を、辛口で知られた音楽評論家・中村とうようは『ニューミュージック・マガジン』誌上で100点満点と評した。演歌という回り道を経てようやく本当の弾き語りに辿り着いた──その必然性が、聴く者に伝わったのだろう。

「Mr.Oのバラッド」は、「フォークの旗手・岡林信康」という虚像を第三者の目で解剖した私小説的な曲だ。「あれは誰だったのか」という問いは、彼を神輿に乗せた群衆への批評であり、自己救済の呪文でもある。

「みのり」は愛娘への歌で、当時の過激なフォークファンには「日和り」と映った。政治という大きな物語から家族という小さな物語へ移ること──あの時代、それを「逃げ」と呼ぶ空気が確かにあった。でも一人の父親が娘の名前を歌に刻むことの、いったい何が逃げなのか。



1978〜1979年:都市とパロディ、その裏側(『セレナーデ』『街はステキなカーニバル』)

中学2〜3年生の私がYMOに熱中していた頃、岡林は農村から「街」へと視線を戻した。

1978年の『セレナーデ』で聴かせた「ミッドナイト・トレイン」は、洗練されたストリングスとバンドサウンドが溶け合う極上のアーバン・ブルースだ。かつての泥臭さは跡形もなく、都会の夜の孤独だけが漂う。この曲を「フォークの岡林」と結びつけられる人間は、当時どれほどいただろうか。


翌1979年、ビクターへの移籍第一弾として出た『街はステキなカーニバル』はさらに複雑な手触りを持つ。アルバム全体にニューミュージック的な軽やかさを纏いながら、収録曲「山辺に向いて」では5年間の山村生活をひっそりと総括する。賑やかなカーニバルの裏で一人、かつての自分に別れを告げている──そんな孤独が滲む。


この時期の彼が選んだユーモアとパロディは、単なるキャラクター転換ではない。変容の痛みを笑いで包むための、計算された防御服だった。それでも「山辺に向いて」だけは防御服を脱いでいる。ああいう曲が一枚に一曲あるだけで、アルバム全体の誠実さが担保される。岡林はずるい、という意味で言っている。


1980年:『ストーム』──肉体で時代に抗う

1980年。私は高校受験を控え、ウォークマンが街に出回り始めた年だ。

加藤和彦プロデュース、ムーンライダースをバックに従えた『ストーム』は、YMOに代表されるテクノポップ全盛のど真ん中で、徹底的にアナログで肉体的な音を鳴らした。ジャケットでボクシンググローブを構えた岡林の眼差しは、そのまま「機械に非ず、人間だ」という宣言に見える。

「Gの祈り」はドラマ「服部半蔵 影の軍団」の主題歌としてヒットし、一般層が久々に岡林の名を口にした。哀愁と力強さが同居したそのメロディは、かつての怒れる若者の歌とは別の強度を持っていた。過酷な現実を生き抜くための応援歌、とでも言えばいいか。

表題曲「ストーム」のアコースティックな剛直さはまさにディラン的で、生身の喉とギターで時代に立ち向かうその姿が、後の「エンヤトット」──日本のリズムとロックの融合──への伏線となっていく。



還暦の私が、この5年間に見るもの

岡林信康の1975〜1980年は、日本の表現者が「イデオロギーの季節」の終焉をどう生き延びたかを、最も鮮烈に体現した5年間だった。

彼はファンが期待する「かつての自分」を裏切り続けた。演歌をやり、弾き語りに戻り、パロディを纏い、ボクシンググローブを嵌めた。節操がないと言えばそれまでだ。でも次の歌を探して転がり続ける人間の、あの必死さだけは嘘じゃない。ディランもそうだった。

昭和の大きな物語が終わろうとしていた頃、私たちはまだそれを知らずに、カセットテープを巻き戻しながら新しい音楽の匂いを嗅いでいた。神座を降りた岡林が土を耕し、演歌を歌い、街を歩き、グローブを嵌めてマイクの前に立つまでの5年間は、あの季節を生きた者すべての「人間への帰還」と重なっている。

たぶん、そういうことだと思う。

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