CDで聴き直したライ・クーダー『Jazz』──高音質で聴ける、文化保全と収奪の境界線
試聴用ディスク
オーディオ愛好家たちの間には、「試聴用ディスク」として語り継がれる定番アルバムがいくつかある。
ドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』(1982年)。完璧に分離されたトラック、きらめくようなシンセサイザー、ゲイリー・カッツのプロダクション。80年代デジタル録音の到達点として、今も試聴室で流れ続けている。
ピンク・フロイドの『The Dark Side of the Moon』(1973年)、Steely Danの『Aja』(1977年)、Fleetwood Macの『Rumours』(1977年)、Eaglesの『Hotel California』(1976年)。
70年代ロックの名盤たちも、その録音の良さゆえに試聴の定番だ。
ライ・クーダーでは『Jazz』(1978年)、『Bop till you drop』(1979年)あたりかな。
さて、今日は『Jazz』である。

このアルバムは、前述のどの作品とも毛色が違う。デジタル技術の粋を集めたわけでもなければ、当時最先端のスタジオ・ロックを記録したわけでもない。アナログ録音の時代に、1920年代の音をどこまで精密に再現できるかを追求した作品だ。
vinyl時代、このアルバムを真剣に聴いたことはなかった。
ライ・クーダーといえばやっぱり『Paradise and Lunch』(1974年)や『Chicken Skin Music』(1976年)のほうが印象に残っていたし、『Jazz』は趣味的な余技に見えた。
ところが、CD収集へと移行し、オーディオ関連の情報を追うようになって、このアルバムの「伝説」を知った。そして実際にCDで聴いてみて、驚いた。
「音質の良さ」が意味するもの
A面1曲目『Big Bad Bill is Sweet William Now』のイントロ、わずか数秒で、このアルバムの異常性が分かる。
トランペットの音像が、恐ろしく明瞭に定位している。だが、最新鋭のジャズ録音のような「ピカピカの音」ではない。1920年代のスタジオで録音されたかのような、空気の密度、楽器と楽器の距離感、部屋の残響。そのすべてが「再現」されている。
いや、「再現」では足りない。
これは1920年代の音を、1978年の最高技術で標本化したものだ。
オーディオチェック用として名高い理由がここにある。このアルバムは、スピーカーやアンプの性能を試すのに最適なのではない。過去の音をどれだけ精密に模倣できるか、ある種の再現(偽造?)技術の到達点を示している。
プロデューサーのジョセフ・バードと、エンジニアのリー・ハーシュバーグが手掛けたのは、単なる高音質録音ではなく、時間を遡行する音響実験である。
「ジャズではない」という挑発
アルバムタイトルは『Jazz』だが、中身はジャズではない。
収録曲を見れば一目瞭然だ。ラグタイム、ミンストレル・ソング、初期ニューオーリンズ、ゴスペル。つまり、ジャズが「ジャズ」として確立する以前の、アメリカ音楽の地層を掘り起こしている。
ビックス・バイダーベックの時代(1920年代)の曲もあるが、それすらジャズの黎明期であって、スウィングでもビバップでもない。
ライ・クーダーがこのアルバムに『Jazz』というタイトルをつけたのは、明らかに挑発だ。
1978年当時、ジャズは既にフュージョンやフリージャズの時代に入っており、前年にはチック・コリアが『My Spanish Heart』を発表しているそんな時代に、わざわざ50年以上前の「ジャズ以前」に回帰する意味は何か。
ライ・クーダーは、ジャズそのものに興味があったのではなく、アメリカが失いつつある音楽的記憶に興味があったのだ。
白人による黒人音楽のアーカイブ、という問題
ここで、避けて通れない問題がある。
このアルバムで演奏されている曲の多くは、もともと黒人音楽のルーツに深く根ざしている。ラグタイムもゴスペルも、その起源を辿れば奴隷制時代のアフリカ系アメリカ人のコミュニティに行き着く。
だが、それを「保全」し、「再構築」し、「高音質で録音」して世に送り出しているのは、白人ミュージシャンであるライ・クーダーであり、大手レーベル(Warner Bros.)であり、洗練されたスタジオ技術である。
文化の継承と収奪は、紙一重だ。
ライ・クーダー自身は、キャリアを通じて一貫して忘れられた音楽家や周縁化された音楽への敬意を示してきた。彼のアプローチには、明らかに文化的帝国主義とは異なる誠実さがある。
だが同時に、彼の作品が白人リスナーに消費され、オーディオファイルの試聴盤として流通している現実もまた、無視できない。
このアルバムの美しさは、ある意味で博物館に陳列された標本の美しさに近い。生きた文化としての黒人音楽ではなく、過去の遺物として完璧に保存された音楽。その光と影が、『Jazz』には同居している。
映画監督のような音作り
このアルバムを聴いていると、音楽より映画を観ている感覚になる。
たとえばB面の『Shine』や『We Shall Be Happy』のゴスペル・インストゥルメンタルの流れ。ここには、歌詞もなければ、派手なソロもない。だが、場所の気配が音から立ち上がってくる。
古びた教会の木製の長椅子。埃っぽい空気。窓から差し込む午後の光。誰もいない礼拝堂で、楽器だけが祈りを捧げている。
そんな映像が、音だけで脳内に立ち上がる。
これは、ライ・クーダーが意図的に作り上げた「音の映画」だ。彼は後に、実際に映画音楽の分野で大成功を収める(『パリ、テキサス』『クロスロード』など)が、その萌芽は既にこのアルバムに現れている。
マイクの位置、楽器の配置、残響の設計。すべてが映像を想起させるように計算されている。
ブエナ・ビスタへの伏線
1997年、ライ・クーダーは『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』で世界的な成功を収めた。
キューバの老音楽家たちを集め、忘れられかけていた音楽を録音し、彼らに再び光を当てたこのプロジェクトは、音楽史に残る偉業になった。
だが、そのアプローチの原型は、実は20年前の『Jazz』にすべて詰まっていた。
失われつつある地域音楽への耽溺、現地(あるいは過去)の演奏家への敬意、歴史資料としての録音美学、再現ではなく再構築としての音楽制作。
『Jazz』は、ライ・クーダーが生涯追求し続けるテーマ、消えゆく音楽の保全者としての役割の出発点である。
偽物なのに、やけに本物
このアルバムは、ジャズ史の本流には何も寄与していない。
1920年代の音楽を1978年に再現しただけで、新しいジャズの潮流を生んだわけでもない。だから、ジャズ評論の文脈では「周縁」に置かれがちだ。
だが、不思議なことに、このアルバムは本物より本物っぽく聴こえる。
当時の録音技術では不可能だった音の分離、空間の再現、楽器の質感。それらがすべて揃っているからこそ、逆に1920年代の音楽はこうだったに違いないと錯覚させる。
これは、本物そっくりの偽物ではない。むしろ、本物が持っていたかもしれない理想形を提示している。
ある意味で、このアルバムは「記憶の音」なのだ。誰も実際には聴いたことのない、しかし「こうあってほしかった」と願う過去の音楽。それを、最高の技術で具現化したもの。
vinyl処分とCD収集、そして『Jazz』
vinyl時代、私はこのアルバムの価値に気づいていなかった。
だが、CD収集へと移行し、音質の観点から音楽を聴き直すようになって初めて、このアルバムの異常性に気づいた。
それは、メディアの変化が聴き方を変えた、そんな単純な話ではない。
CDは標本化されたメディアであり、『Jazz』は標本化された音楽である。その共鳴が本質を浮かび上がらせたのだと思う。
vinylは、どこまでいっても生きた音の痕跡を残す。針の擦れ、盤の反り、経年劣化。それらすべてが、音楽を現在進行形にする。
だがCDは違う。CDは、音を完璧に固定し、劣化させず、何度再生しても同じ音を返してくる。それは、まさに博物館の標本のようなメディアだ。
ライ・クーダーの『Jazz』は、CDで聴かれることを、いや、CDのような完璧な保存を前提とした音楽を、先取りしていたのかもしれない。
文化保全と収奪の境界線で
このアルバムを聴くたび、私は複雑な感情に襲われる。
美しい。完璧だ。音響的にも、音楽的にも、文句のつけようがない。
だが同時に、この完璧さこそが、何か大事なものを失わせているような気もする。
生きた黒人音楽のコミュニティではなく、白人ミュージシャンによる再構築。埃っぽいジュークジョイントではなく、洗練されたスタジオ。消えゆく文化への敬意と、それを商品として流通させる資本主義。
その境界線で、ライ・クーダーは綱渡りをしている。
そして、私たちリスナーもまた、その綱渡りに加担している。
CDで『Jazz』を聴くことは、その矛盾を、美しさと後ろめたさを、同時に引き受けることなのだ。
