【掌編小説】自己という現象
自分の実質が時折、何でできているのかさっぱり分からなくなる時がある。というより、自己というのも一つの現象なのだろうと思う、いや思うというより、それがしっくりくると言った方が、正確だろう。ただ一つはっきりしているのは、こんな駄文を書きつけている間にも、時間は他の人間にも僕にも同じように平等に流れ、それでも全くの無価値にこうやって駄文を連ねて時間を消費している自分の文字が、自分を他と区別できる象徴として、一番確からしいことだということだ。
アインシュタインが生まれなかったとしても、別の理系の天才が、全く同じ相対性理論の結論にたどり着くことはあるが、ベートーベンが生まれなかったら、別の音楽の天才がいたとして、同じ楽曲を作りえることはなかっただろう、といったような言葉をどこかで聞いたことがあり、それは本当は大した事実ではないけれども、僕にとってはほんのわずかな救いみたいなところがある。
それは要するに、今書いている自分の文章というのは、他の誰によっても辿り着くことのできない、一種の境地であって、それゆえに自由に物を書くという行為は人間が神に自分自身を捧げる形態として最も適しているといったようなことだ。尤も、これはあくまでも例えであって、本当の僕は神など信じている訳ではない。
病棟の中、一人の少女の患者に僕は仏教の教義について説明し、その概念が輪廻転生や愛別離苦といった言葉に翻訳されて日本の文化にも近現代に至るまで影響を与え続けているということについてあれこれと語った。そんな宗教的な話題に花を咲かせているときに、意味もなく洗面台の横にあるちり紙を使わないままにゴミ箱へと捨てた患者の男性のことを今でも僕は覚えている。言葉はいつも何かを取り落とす。もっと正確に言うならば、その男性の行為は決して本当に意味もなくなされている訳ではなかった。それは僕の行動に対する、無言の抗議だったのだ。しかしそれは意味のないものだった。なぜならその抗議の矛先にある僕の信念というのは、その男性の誤解が生んだ幻想に過ぎず、本当の僕はと言えば、世の人の一般的な無宗教性よりも、一層徹底した無神論に帰着せざるをえない状況になっていたのだから。
僕にとって、青春とは裂け目のことである。そう、まさにその頃、僕は信仰から不信への過渡期にあった。その最も究極的な時期において、僕は病に倒れ、神を捨てた。そしてとうに捨て去った信仰心を思い出しながら昔懐かしく回顧する気持ちで信徒と話をしていた丁度その時、その男性はこれ見よがしに紙を捨てたのだ。僕はその時、笑っても良かった。泣いても良かった。何をしてもよかった。なぜなら僕はやっとそういった軛から離れて、絶望する自由を味わうことが出来たのだから。
大学時代に下宿先で一人孤独にインターネットの裏街道でくだらないパロディ記事を量産していたのは、そういった自由だった。希望というものは、いつだって重たい。大学まで行ければやっと周囲の希望を振り捨て好きなように堕落できると考えていた僕は、ある程度それを実現し、さらには病院に担ぎ込まれた。しかしそこまでくるとそれは少々見当外れの出来事だった。
僕と語り合った病棟の少女は、僕より病気が思わしくないにもかかわらず、僕より大分早く退院した。
「さようなら さようなら さようなら さようなら
捨て子みたいなあなたに愛された 私を忘れて元気になって」
そんな水色の手紙が少女から病棟にいる僕に届いた。僕は涙が止まらなかった。その涙の理由を僕は今でも探し続けている。
いいなと思ったら応援しよう!
頂いたチップで、より良い小説を書くために本を買います!