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アマノ文筆クラブ|愛の水面下|掌編小説

俺は四十歳になった。

数字にするとたったそれだけのことなのに、鏡に映る自分は、どこか別人の様に感じることがある。
腹は少し出て、目の奥の光も、若い頃より鈍くなった気がする。

家庭はうまくいっていた。
妻とは穏やかに言葉を交わし、子供は「パパ」と呼んでくれる。
休日は一緒に出かけ、笑い合う。
穏やかな日々だった。

それなのに、俺はどこかで思うのだ。
俺はもう、「男」ではないのかもしれない、と。


そんな折だった。

中途採用で入ってきたのが彼女だった。

二十八歳。
仕事はできるし、愛想もいい。
受け答えは的確で、気配りも自然だ。
非の打ち所がない、という言葉がこれほど似合う人間を、俺はあまり知らなかった。

最初はただの部下だった。
教えれば吸収する。
任せればきちんと返す。
「教え甲斐がある」——
それだけだった。

あの夜までは。

会議が長引いた夜だった。
フロアには人が残っておらず、久しぶりに長びいた仕事の達成感と疲れを拭おうと、俺はコーヒーの自販機に立ち寄った。

戻る途中、彼女の席の灯りがついていることに気がついた。

覗き込むつもりはなかった。
だが、視界に入ってしまった。

彼女は、泣いていた。

必死に涙を拭いながらも、キーボードをただただ叩いていた。
肩を震わせることもなく、声を漏らすこともなく、ただ、静かに。

その姿が、妙に胸に刺さった。

翌日から、俺は彼女を目で追うようになった。

笑顔は変わらず完璧だった。
だが、気づいてしまったのだ。

あれは「作られた笑顔」だ、と。

仕事は増えていく一方だった。
誰かが頼み、また誰かが押し付ける。
彼女は全て「大丈夫です」と引き受ける。

おかしいと思った俺は上に掛け合った。

そこで初めて知った。

彼女は、うつ病だった。

前職は、それが原因で辞めざるを得なかったこと。
この会社には知り合いの伝手で入ってきたこと。
上層部はその事情を全て知っていること。

そして——

知っていながら、何もしていないこと。

怒りよりも先に、理解してしまった。
会社とはそういうものだ。

だが、だからといって納得はできなかった。

その日から俺は、彼女の仕事を調整するようになった。
表立ってはできない。
あくまで自然に、目立たないように。

彼女は何も気づいていなかった。
「ありがとうございます」と笑顔を返すだけだった。

その笑顔を見ているうちに、俺の中で何かが変わっていった。

守りたい。

いや——違う。

手に入れたい。

そう、思ってしまった。

その瞬間、自分が何を考えているのかを理解して、吐き気がした。

俺には妻がいる。
子供もいる。

それなのに。

だが、感情は時として理屈を簡単に追い越す。

彼女が笑えば嬉しくて、
彼女が疲れていれば苦しくて、
彼女がいないと、物足りなくなる。

それが「愛」なのかどうかは、俺にはわからなかった。
だが、確実にそれは「何か」だった。

そしてそれは——水面下で静かに広がっていった。


妻は、気づいた。

決定的な証拠など何もない。
だが、長年一緒にいる人間の勘ろいうものは、恐ろしいほど正確だ。

「最近、変わったよね」

そう言われた時、俺は何も言い返せなかった。

やがて、その矛先は彼女に向いた。

直接ではない。
だが、十分すぎるほどの圧だった。

社内での視線。
噂。
些細なミスを責める声。

彼女は、何も知らないまま追い詰められていった。


ある日、彼女は辞表を出した。

最後の日、彼女はいつもの笑顔で言った。
「お世話になりました」
それだけだった。

俺は何も言えなかった。
引き止める資格がないことくらい、わかっていたからだ。

それで、終わったはずだった。

俺の中の何もかも、一緒に沈んでいくはずだった。


だが、数カ月後。

駅のホームで彼女を見かけた。

以前より、少しだけ柔らかい顔をしていた。
無理のない笑顔だった。

俺は手を差し伸べ、話しかけようとした。

隣には、見知らぬ男がいた。

楽しそうに話している。

その光景を見て、突き刺さるように胸が痛んだ。

だが同時に、少しだけ安心もした。


俺は何も持っていなかったのではない。

すでに、全てを持っていたのだ。


今回も参加させていただきました!

テーマが決まっていると色々妄想が捗ってありがたいです!

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