【掌編小説】舌に残る余韻より【2202文字】
仕事帰りの夜の街には、少しだけ冬の匂いが混じり始めていた。
冷えた指先をポケットに押し込みながら、私は小さな赤提灯が灯るラーメン屋の前で足を止めた。
「……今日はここでいいか」
アラフォー独身の私だ。
お一人様でニンニクの匂いを漂わせていても、誰も文句を言わない。
特別な日でもない。
ただ何となく、残業を頑張った自分に、温かいご褒美をあげたかったのだ。
暖簾をくぐると、テーブル席は空いていたものの、カウンターは仕事帰りのサラリーマンでほぼ埋まっていた。
人気店だ。
味が確かなことを、私は知っている。
私は入口寄りの席に腰を下ろした。
すると次の瞬間、コートの袖からひんやりとした空気と一緒に、もう一人客が入ってきた。
「いらっしゃい!カウンターしかないけど、いい?」
大将の明るい言葉に、その男性は軽く会釈をしながら
「一人だから」
と答えた。
横目でそっと視線を向ける。
黒のチェスターコートに、落ち着いた紺のマフラー。
整った横顔。
私より少し年上だろうか。
彼は迷うことなく私の隣の席に腰を下ろした。
――隣か。
不意に緊張したが、メニューを開くフリをして気持ちを落ち着かせた。
注文は、私はこってり味の豚骨、彼はあっさり味の豚骨だった。
程なくして、湯気と共に二杯のラーメンが運ばれてくる。
「はい、こってりと、あっさりね!」
大将は二つの丼を、私達のちょうど真ん中辺りに置いた。
どちらがどちら?
瞬時に困惑したその瞬間、隣の彼と目が合った。
「あの……どちらがこってりで、どちらがあっさりなんでしょう?」
私が小声で呟くと、彼は少し笑った。
「見た目だけじゃ、ちょっとわかりませんよね」
「ですよね……」
沈黙。
だけど、くすりと笑いたくなるような、決して嫌じゃない沈黙。
彼が箸を少し伸ばした。
「香りでいきましょうか?」
冗談めかして、丼にそっと顔を近づける。
「こっちは少し濃いニンニクの風味がしますね……」
「あ、じゃあ、これが私のこってりですね」
「多分。間違っていたら交換しましょう」
そう言って微笑んだ彼の表情に、一瞬、胸が鳴った。
――何処か不思議だ。
一言二言話しただけなのに、ほっと肩の力が抜ける。
二人で同時に
「いただきます」
と呟き、それぞれスープを啜る。
「あ、合ってますね」
「ですね」
自然に微笑みが溢れた。
塩気と湯気と笑みが混ざり合い、心の内側をじんわり温めていく。
食べ終える頃には、店内はすっかり満席になっていた。
客同士の話し声と、厨房で麺を茹でる音が心地よいBGMになっている。
「寒くなりましたね」
不意に隣の彼が話しかけてきた。
「ええ、今日なんて昼間でも手がかじかんで。コーヒーを三杯も飲んでしまいました」
「三杯は結構ですね」
「飲まないと動けなくて……」
「その気持ち、わかります」
他愛ない会話。
でも、妙に心地良い。
「いつもこの店に?」
「いえ、たまに。そちらは?」
「俺もです」
――たまたま。
同じ言葉が重なった瞬間、さっき感じた胸の高鳴りが、またポッと音を立てた気がした。
伝票を受け取り、二人ほぼ同時に席を立った。
レジ横で並ぶ形となり、気まずいような、けれど悪くないような空気が流れた。
店を出ると、夜風が頬に触れ、吐く息の白さに少し身を屈めた。
「……あの」
先に口を開いたのは彼の方だった。
「もし迷惑でなければ、少し歩きませんか」
驚きと、何処かくすぐったいような感情が胸を撫でていく。
「……いいですよ」
店の前の通りを、並んで歩き出す。
灯りがポツポツと続き、静かになった商店街。
距離は近すぎず、遠すぎず。
並んだ影が夜道に寄り添う。
「さっきのラーメン、ちょっとした事件でしたね」
彼が笑う。
「事件ってほどでも……でも、香りを嗅がなかったら間違っていたかも」
「確かに。あれは妙案だったな」
二人で声を上げて笑った。
笑いながら思う。
この人となら、こんな些細な出来事でも、きっと楽しくなるのだろう、と。
「普段はこの辺りでお仕事を?」
「はい。駅前の出版社で働いています」
「出版社?」
「雑誌の編集を。忙しいけど、好きな仕事です」
「素敵ですね」
照れくさそうに、彼は小さく笑った。
「俺はIT系です。地味にパソコンに向かう日々ですけど……まぁ、そこそこ楽しくやってます」
そこそこ。
その言い方が何だか優しく、私はふっと和んだ。
コンビニの灯りの前で、一度立ち止まった。
帰り道が別れる地点だった。
ここで別れるのだろう。そう思った。けれど。
「また会えたら、嬉しいです」
彼が静かに言った。
「……私もです」
気付けば、自然と返していた。
ポケットから携帯を取り出す彼。
「よかったら、連絡先……交換しませんか?」
夜風が少しだけ頬を撫でた。
その風は冷たいはずなのに、胸の奥はポカポカしていた。
「はい」
交換した連絡先を見つめる。
名前の横に添えられた小さな絵文字が、妙に可愛らしく思えて微笑んだ。
「じゃあ、また」
そう言い合って、私達は互いの背中を向け、歩き出した。
ふと立ち止まる。
振り返る。
すると、数歩先で彼も振り返っていた。
思わず笑い合った。
その笑顔を胸の奥に大切に仕舞うように、私はまた歩き出した。
偶然なんて、案外悪くない。
冷えた空気の中に、確かに小さな温もりが生まれていた。
ラーメン屋で隣り合って、丼の持ち主がわからなかっただけの彼。
でも、あの湯気の向こうで、すれ違うはずだった心が、少しだけ重なった。
恋が始まる瞬間は、いつも気が付かないほど静かで、美しい。
それを、今夜の私は確かに受け取った。
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