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【掌編小説】恋をした

毎朝、決まった時間に電車に乗る。
駅のホームの二番線、七時四十八分発、端のドア付近。
俺の一日は、そこから始まる。

通勤が好きな奴なんてそういないだろうけど、俺には一つだけ、電車に乗る楽しみがあった。

いつも、同じ場所に立っている女性がいる。

耳近くで切り揃えられた、ショートボブの髪。
落ち着いたベージュのコート。
イヤホンを付けていて、スマホはあまり見ない。
鞄から一冊の文庫本を取り出し、静かに頁を捲る。
表紙が見えた日があり、俺も同じ本を買ってみた。
思いがけず良くて、二度読んだ。

それだけの関係。
名前も、声も知らない。
でも、毎朝その人の姿を見る度に、ちゃんと朝が来たのだと認識する。

きっかけなんて些細なものかもしれない。
偶然が幾度も重なると、人はそこに意味を感じ始めるのかもしれない。

きっかけが「好みのタイプだったから」なんて、自分でも笑えてくる。
言葉にすると、軽すぎて。
でも、本当は、彼女の纏う空気が好きだった。
静かで、落ち着いていて、でもたまに頁の端を折る時の仕草が無防備で。

話しかけたことはない。
視線がふと合うことがあっても、すぐに逸らしてしまう。
きっと彼女は、俺のことなんて何一つ覚えていない。

それでも、俺にとっては、彼女はもう「風景」じゃなかった。
日々を静かに支える、鼓動みたいな存在だった。


それが、ある朝、いなくなった。


いつもの電車、いつもの場所。
俺はいつも通りに電車に乗った。
だが、彼女の姿だけがなかった。

たまたま寝坊したのか、それとも一本後の電車に乗ることにしたのか。
それらしい理由なんていくつでも考えられた。

でも、次の日も彼女は現れなかった。

次の日も、その次の日も。

季節は少しずつ春へと向かっていって、ダウンコートをやめた人たちがちらほらと見えるようになった。

なのに、俺の中だけが、冬のままで止まっていた。

何かを失った訳じゃない。
名前も知らない。
ただ、毎日目にしていた人がいなくなっただけ。

それでも俺は、何度もホームに目を走らせる。
ドアが開く度、少しだけ心が動く。
その度、落胆する。

これが恋じゃなかったら、何だというのだろう。


二週間程経ったある朝。
会社の会議に遅れそうで、いつもより一本早い電車に乗った。
焦っていたせいで、いつもの三両目じゃなく、滑り込みで目の前の一両目に駆け込んだ。

乗ってすぐ、心臓が跳ねた。

ベージュのコート、変わらない文庫本。
あの、静かな横顔。
席に座って、本を読んでいた。

きっと彼女は、元からこの時間の電車に乗っていただけなのかもしれない。

俺が彼女を見ていたように、誰かが彼女を見ていたかもしれない。
あるいは、誰にも気づかれず、ただ、本の中にいるだけなのかもしれない。

声をかけようか、と思った。
でも、言葉が出なかった。

名前も、仕事も知らない。
何も、知らない。

一度関係を持ったら、もう”静かな存在”ではいられない。
名前がない方が、美しいこともあるのかもしれない。

次の駅で、彼女は降りた。
その一歩毎に心がざわめく。

振り返らないかと思ったが、彼女はただ静かに文庫本を閉じ、小さく口元に微笑みを湛えて電車を降りていった。

俺の心だけが、その微笑みに取り残された。


次の日、また俺はいつもの電車に戻った。
彼女の姿はなかった。
でももう、それでよかった。


きっと、またどこかの電車で、彼女はそっと本を開いているだろう。
名前も知らない恋は、知らないままで心に残る。

あの朝の風景が、ずっと俺の中で、静かに頁を捲っている。

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