【番外編】八月の指輪——忘れないまま、恋をした、その先で
恋には、帰ってきてから始まる時間がある。
旅先の夜。
肌に残る風。
何も言わなくても近づいていけた、あの甘い沈黙。
バリから帰ってきても、えむとよぎはまだ少し、向こうにいた。
左手の薬指にある、小さな光。
会えない日にも、ふと目に入るたび思い出してしまうもの。
八月の午後。
いつもの台所、いつもの仕事、いつもの家族との時間。
そのすぐ隣に、旅の夜の余韻がまだ残っている。
これは、本編『忘れないまま、恋をした——最後の恋を、さいこうの恋へ』の番外編です。
バリから帰ったあとの、えむとよぎ。
おそろいの指輪と、八月の日常と、次の旅へ向かう少し浮かれた時間の話です。
序章 帰ってきた夏
バリから帰ってきて、二人の手にはおそろいの指輪があった。
結婚指輪ではない。
けれど、ただのアクセサリーでもない。
誰かに説明するためのものではなく、二人だけが意味を知っているもの。
会えない日にも、同じ時間を少しだけ身につけていられるもの。
八月の朝、よぎは台所に立っていた。
窓の外では、もう蝉が鳴いている。
エアコンをつけるには少し早い気がして、扇風機だけを回していた。
卵焼きを切る。
唐揚げを詰める。
ブロッコリーを隙間に入れる。
水筒のふたを閉める。
いつもの朝。
なのに、左手の指輪が光るたび、指先だけが少し浮かれている。
五十二歳にもなって、こんなふうになるとは思っていなかった。
けれど、悪くなかった。
いや、かなり良かった。
第一章 八月の午後
二人がよく会うのは、日の高い時間だった。
夜ではない。
まだ街が普通に動いている午後。
八月初旬の街は、白く光っていた。
アスファルトには朝からの暑さが残り、信号待ちの人たちは日陰を選んで立っている。
コンビニには学生がいて、道路には営業車が走っていて、どこかのベランダには洗濯物が乾きすぎるくらいに揺れている。
そんな日常のすぐ隣で、二人は少しだけ非日常へ入っていく。
ホテルの部屋に入ると、えむはいつものようにバッグを置いた。
上着を椅子にかける。
スマートフォンをテーブルに伏せる。
髪を耳にかける。
そのひとつひとつを、よぎはつい見てしまう。
「何見てるの」
えむが言う。
「見てる」
「答えになってない」
「見たいから」
えむは呆れたように笑った。
けれど、その笑い方は少し甘い。
四十一歳のえむには、華がある。
若さだけで目を引く華ではない。
無理に飾らなくても、そこにいるだけで空気が少し明るくなるような、静かな華だった。
けれど、よぎの前では、その華がふっと柔らかくほどける。
しっかり者の顔がゆるむ。
目元が甘くなる。
言葉の端に、少しだけ甘えが混ざる。
よぎは、その変化に弱かった。
そして最近のえむは、自分がそういう顔をしていることに、少しずつ気づき始めていた。
気づいて、照れて、けれどもう完全には隠さない。
その中途半端な素直さが、よぎにはたまらなかった。
首筋に落ちる細い影。
靴を脱いだあとの、少しだけ無防備な足元。
照れているようで、もう逃げる気はない横顔。
よぎは、その横顔が好きだった。
服を脱ぐ前の方が、むしろ色っぽいことがある。
視線を逸らす前の一秒。
唇を結ぶ癖。
何か言いたそうにして、結局言わずに笑う間。
そういうものが、部屋の空気を少しずつ変えていく。
「お茶飲む?」
えむが聞いた。
「飲む」
「ほんとに?」
「いや、ほんとは今すぐ抱きしめたい」
えむの目が、ほんの少しだけ揺れた。
何度も会っている。
何度も触れられている。
それでも、こういう言葉にはまだ慣れない。
慣れたふりをして、えむは笑った。
「じゃあ最初からそう言えばいいのに」
言ったあとで、自分でも少しだけ照れた顔をする。
その言い方がまた、よぎを困らせる。
可愛い、と言うには若すぎない。
色っぽい、と言うには照れが残っている。
綺麗、と言うには近すぎる。
だからよぎは、ただ手を伸ばした。
えむも、逃げなかった。
逃げなかった自分に、えむは少しだけ驚く。
けれど、その驚きさえ、もう嫌ではなかった。
窓際のカーテンから、午後の光が細く入っていた。
部屋の冷房は少し強くて、えむの腕に小さな鳥肌が立っていた。
外はあんなに暑いのに、部屋の中だけが静かに冷えている。
よぎがそれに気づいて、手のひらでそっと包む。
「寒い?」
「少し」
「温める?」
「そういう言い方する?」
「ほかに言い方ある?」
えむは笑って、よぎの胸に額を寄せた。
その瞬間、よぎの中で何かがすっと静かになり、別の何かがゆっくり起き上がる。
えむの香りがした。
香水の名前では説明できない。
洗剤やシャンプーだけでもない。
近づいたときにだけわかる、えむの体温を含んだ匂い。
八月の外気と、冷房の部屋と、えむの肌。
その境目にある匂い。
それを感じるたびに、よぎの身体は正直になる。
朝は息子の弁当を作る。
夜はハイボールを飲む。
梅水晶があれば機嫌がいい。
旅の予定を立てるときは、子どもみたいに地図を眺める。
十分に大人になったつもりだった。
なのに、えむに会うと、全部あやしくなる。
エレベーターの中で距離が近くなる。
髪が揺れる。
首元から、いつもの香りがする。
それだけで、身体がえむを思い出す。
「なに笑ってるの」
以前、えむに聞かれたことがある。
「いや、俺もまだまだ元気だなと思って」
「何それ」
えむは笑ったあと、すぐに意味を察して、少し頬を赤くした。
「ばか」
それしか言えないみたいに、えむは小さく言った。
その“ばか”が、またよくなかった。
怒っている声ではなかった。
照れて、困って、それでも少し甘えている声だった。
よぎは、そういうえむに弱い。
えむも、知っていた。
自分がその声を、よぎにだけ聞かせていることを。
急がなくても、ぬくもりは逃げない。
むしろ、待つほど濃くなる。
えむの背中に回した手に、少し力を込める。
えむが、それに応えるように近づく。
まだ何も始まっていないのに、もう始まっていた。
第二章 えむの変化
最初の頃、えむは自分の反応に驚いてばかりいた。
こんなふうになるんだ。
こんなに敏感だったんだ。
こんな感覚、知らなかった。
四十を過ぎて、自分の中にまだ知らない部屋が残っていたことに、えむは少し戸惑った。
母としての自分。
仕事をする自分。
家のことを回す自分。
疲れていても、ちゃんとしている自分。
そのどれも、えむだった。
けれど、よぎの前にいると、そのどれとも少し違う自分が出てくる。
少しわがままで。
少し甘えたくて。
少しだけ、綺麗だと思われたい自分。
そんな自分がまだいたことに、えむは驚いた。
そういう顔をするたびに、よぎは少し誇らしく、少し慎重になった。
けれど最近のえむは、少し違う。
驚くだけではなくなった。
自分の変化を、どこか面白がっている。
怖がりながらも、少しずつ受け入れ始めている。
「私、最近おかしいよね」
ある午後、えむがベッドの端に座ったまま言った。
髪は少し乱れていて、頬にはまだ火照りが残っていた。
白いシーツの上で、指輪が小さく光っている。
「おかしくはない」
よぎが答える。
「じゃあ何?」
「進化」
えむは吹き出した。
「ポケモンみたいに言わないで」
「いや、でも本当に」
「なにが?」
「前より、自分のことわかってる感じがする」
えむは少し黙った。
それは暗い沈黙ではなかった。
自分の中にある新しい感覚を、指先で確かめるような間だった。
「うん。わかるかも」
そう言って、えむは少し照れくさそうに笑った。
その笑い方が、よぎにはとても良く見えた。
待ち合わせで目が合ったとき、前より少し長く見つめ返す。
手をつなぐと、指に力を返す。
部屋に入ってから、よぎより先に近づくことがある。
小さなことばかりだった。
でも、その小さなことが、よぎにはたまらなかった。
「今日、なんか余裕あるね」
よぎが言うと、えむは目を細めた。
「そう?」
「うん」
「余裕あるように見える?」
「見える」
「じゃあ、成功」
「何の?」
「大人の女ごっこ」
よぎは笑った。
「ごっこじゃないでしょ」
えむは返事をしなかった。
代わりに、少しだけ近づいてきた。
その沈黙の方が、言葉よりずっと強かった。
娘の髪を結ぶ手。
仕事のメールを返す横顔。
スーパーで野菜を選ぶ目。
その同じ人が、恋人の前でだけ少し柔らかくなる。
その落差に、よぎは弱かった。
とても弱かった。
その日、えむは仕事中に何度か指輪を見た。
書類をめくるとき。
パソコンのキーボードに手を置いたとき。
昼休みにペットボトルのふたを開けたとき。
左手にある小さな光が、ふいにバリの水音を連れてくる。
あの夜の風。
冷えたグラス。
よぎの手。
何も言わなくても近づいていけた時間。
えむは画面を見たまま、少しだけ口元をゆるめた。
すぐに仕事のメールが届いて、現実に戻る。
でも、戻ったあとも、指先には少しだけ余韻が残っていた。
四十一歳になって、こんな秘密を持つなんて思わなかった。
でも、その秘密はえむを若くするのではなく、少し深くした。
日常の中に、誰にも見えない明かりがひとつ増えたような気がした。
夕方、娘の髪を結びながら、えむは鏡の中の自分を見た。
「ママ、今日なんか機嫌いい?」
娘が言った。
「そう?」
「うん」
「暑いからかな」
「暑いと機嫌よくなるの?」
えむは笑った。
「ならないね」
娘の髪を結ぶ手に、指輪が光る。
えむはそれ以上、何も言わなかった。
言わなくてもいいことが、少しずつ増えていく。
それもまた、悪くなかった。
第三章 バリの夜
バリは、二人にとって特別だった。
空港を出た瞬間、湿った空気が肌にまとわりついた。
車窓からは濃い緑と、バイクの群れと、道端に置かれた小さな祈りの花が見えた。
えむは窓の外を見たまま、何度も小さく声を漏らした。
「すごいね」
「うん」
「日本じゃないね」
「そりゃバリだからね」
「そういうことじゃなくて」
「わかってる」
よぎが笑うと、えむも笑った。
ヴィラに着いたとき、えむはしばらく玄関で立ち止まった。
プールの水面に空が映っていた。
部屋の中と外の境目が曖昧で、風がそのまま寝室まで届くようだった。
「すごい」
今度の「すごい」は、さっきより少し低かった。
よぎはその声を聞いて、旅に来てよかったと思った。
日本では、二人ともそれぞれの生活を持っている。
親であり、働く人であり、予定を抱えた人だった。
会う時間を作るにも調整がいる。
明日の朝を考えずに眠ることは、案外むずかしい。
でもバリでは、少しだけ違った。
時計を見る回数が減った。
スマートフォンを触る時間が減った。
えむの笑う声が、少し柔らかくなった。
夜のヴィラで、二人はプールサイドの椅子に並んで座った。
グラスの中で氷が鳴る。
遠くで葉が揺れる。
水面に灯りが滲む。
風が吹くたびに、えむの髪が頬にかかった。
よぎがそれを指でよけると、えむは何も言わずに目を細めた。
その沈黙が、もう十分だった。
「何?」
えむが聞く。
「いや」
「また見てる」
「見たいんだよ」
「それ、ずるい」
「何が?」
「言われると、怒れない」
よぎは笑った。
えむも笑った。
けれど、そのあと二人の間に落ちた沈黙は、さっきまでのものとは少し違っていた。
軽口のあとに残る、甘い間。
よぎはえむの手を取った。
指輪が触れた。
えむは一瞬だけそれを見て、それからよぎを見た。
その目に、夜の水面が映っていた。
寝室の明かりは、少しだけ落としていた。
外から水の気配がした。
カーテンの向こうで、夜がゆっくり揺れていた。
えむは、いつもより素直だった。
よぎの手が背中に回ると、体の力がゆっくり抜けた。
唇が触れるたびに、ためらいよりも先にぬくもりが返ってきた。
肩に触れる。
髪に触れる。
頬に触れる。
そのたびに、えむのまぶたが少し落ちる。
部屋の空気は静かだった。
けれど、二人の間だけが少しずつ濃くなっていく。
えむの指先に力が入る。
よぎのシャツを掴む。
少し笑う。
その笑いが、すぐに息に変わる。
よぎは急がなかった。
急がなくても、えむが近づいてくるのがわかった。
言葉ではなく、身体の向きで。
視線ではなく、呼吸で。
ためらいではなく、預け方で。
その夜、えむは思った。
帰ったら元に戻るのだろうか。
母に戻り、仕事をする人に戻り、いつものえむに戻るのだろうか。
でも、よぎの腕の中で力を抜いたとき、もう少し違うこともわかっていた。
戻れない、というより。
戻っても、知ってしまった自分は消えない。
夜は長かった。
でも、終わってしまえば一瞬だった。
朝になっても、部屋にはまだ昨夜の空気が残っていた。
窓の外は明るく、プールの水面が青く光っていた。
えむはベッドの中で、しばらく動かなかった。
よぎが髪に触れると、目を閉じたまま小さく笑った。
「帰ったら、戻っちゃうのかな」
その声には、不安というより、名残惜しさがあった。
よぎはすぐには答えなかった。
少し考えてから、えむの髪を撫でた。
「戻らないよ」
えむが目を開けた。
「だって、もう知っちゃったから」
えむは何も言わなかった。
ただ、シーツの中でよぎの手を探した。
見つけると、指を絡めた。
それだけで、答えは十分だった。
第四章 帰国後の午後
帰国してから、二人はまたいつもの生活に戻った。
スーツケース。
洗濯物。
仕事の連絡。
子どもたちの予定。
スーパーの買い物。
朝の弁当。
八月の日本は、バリとは違う暑さだった。
湿度は似ているのに、空気の重さが違う。
駅のホームには暑さがこもり、夕方になってもアスファルトは冷えない。
けれど、ふとした瞬間にバリが混ざった。
えむは仕事の合間に、あのヴィラの水音を思い出すことがあった。
よぎはハイボールの氷が鳴る音で、プールサイドの夜を思い出した。
帰国して八日後、二人はまた昼のホテルで会った。
いつもの街。
いつもの時間。
いつもの部屋。
けれど、その日の空気は少し違っていた。
えむが部屋に入って、バッグを置く。
よぎがドアを閉める。
二人の目が合う。
それだけで、バリの夜が戻ってきた。
「なんか、変な感じ」
えむが言った。
「なにが?」
「ここ、日本なのに」
よぎは笑った。
「そりゃ日本だろ」
「そうじゃなくて」
えむは少し照れたように笑った。
「まだ、向こうにいるみたい」
その言葉に、よぎの胸の奥がざわめいた。
旅は終わった。
でも、終わっていなかった。
バリでほどけたものは、スーツケースに入れて置いてきたわけではなかった。
えむの中に残っていた。
よぎの中にも残っていた。
キスをするまでの間が、いつもより長かった。
急がない。
でも、遠くもない。
触れる前から、もう始まっている。
香り。
体温。
手の圧。
呼吸の近さ。
よぎは、えむを抱きしめた。
えむはすぐに腕を回した。
その返し方が、以前より自然だった。
身体が覚えている。
よぎはそう思った。
もちろん、恥じらいはある。
でも、その恥じらいは扉を閉めるものではなかった。
むしろ、開きかけた扉にかかる薄い布のようだった。
見えそうで、見えない。
言いそうで、言わない。
でも、ちゃんと伝わっている。
その曖昧さが、たまらなく艶っぽかった。
午後の光が、カーテン越しに白いシーツへ落ちていた。
テーブルの上には、飲みかけの水があった。
部屋の空気は少し冷えているのに、二人の間だけが違う温度を持っていた。
えむが息を吐く。
よぎがそれを受け止める。
よぎが近づく。
えむが応える。
どちらか一方が与えるのではなく、互いの反応が互いを深くしていく。
えむの頬に髪がかかる。
よぎがそれをよける。
えむが目を開ける。
その目が、もう逃げていない。
よぎは、その目に弱かった。
えむも、その目を向けている自分に気づいていた。
以前なら、そこで少し恥ずかしくなって目をそらした。
今も恥ずかしい。
でも、そらさないでいたいと思う自分がいる。
そのことに気づいた瞬間、えむの胸の奥で、小さな明かりが灯った。
部屋の外では、きっと誰かが廊下を歩いている。
街では車が走っている。
どこかの店では、昼の会計が行われている。
でも、この部屋だけは別だった。
昼の光の中で、二人は夜よりも濃い時間にいた。
終わったあと、えむはしばらく静かだった。
よぎの腕の中で、目を閉じていた。
髪が頬にかかり、呼吸はまだ少し深かった。
よぎは何も聞かなかった。
ただ、水を渡した。
髪を撫でた。
背中に手を置いた。
えむはグラスを受け取り、少し飲んでから、ぽつりと言った。
「私、やっぱり変わったよね」
よぎは、少しだけ考えた。
「うん」
えむが笑う。
「そこは否定しないんだ」
「いい変化だから」
「なにそれ」
「えむが、えむのことを楽しんでる感じがする」
えむは黙った。
それから、小さく言った。
「それ、わかるかも」
よぎは、えむの髪を撫でた。
「いいじゃん」
「いいのかな」
「いいよ」
えむはしばらくして、よぎの胸に額を寄せた。
「じゃあ、いいことにする」
その言い方が、少し可愛くて、少し色っぽかった。
そしてよぎは思った。
次の旅では、えむはもう少し、自分の変化を許すのかもしれない。
その予感が、胸の奥に静かに残った。
第五章 次の旅
深く触れ合ったあと、二人はよくくだらない話をした。
「お腹すいた」
えむが言う。
「さっきまで色っぽかったのに」
「人間だもの」
「みつを?」
「えむを」
よぎが笑うと、えむは枕を投げた。
髪を直しながら、夕飯の話をする。
スマートフォンを見て、子どもの予定を確認する。
それでも、さっきまでの余韻はちゃんと身体に残っている。
「今日、夕飯なに?」
よぎが聞いた。
「まだ決めてない」
「娘ちゃんは?」
「たぶんオムライスって言う」
「いいね」
「よぎは?」
「息子ら、肉って言うと思う」
「雑」
「男の子はだいたい肉」
「よぎもでしょ」
「否定できない」
えむは笑った。
その笑顔を見ていると、よぎは不思議な気持ちになった。
さっきまで自分の腕の中で、あんな顔をしていた人が、今は夕飯のことを考えている。
その切り替わりが、たまらなく愛おしい。
言葉にすると少し硬くなるから、よぎは何も言わなかった。
代わりに、えむの手を取った。
えむは「また?」という顔をしたが、振りほどかなかった。
「次の旅館、見た?」
よぎが聞いた。
「見た」
「どう?」
「最高」
「でしょ」
「日本海見えるんだよね?」
「うん。部屋から見える」
「サウナもあるんだよね?」
「ある」
「チェックアウトは?」
「十二時」
えむは目を輝かせた。
「十二時までいられるって、最高じゃない?」
「朝ゆっくりできる」
「朝ごはん食べて、もう一回寝られる」
「それ最高」
「サウナもあるし」
「整ってから?」
えむが少しだけよぎを見た。
その目に、いたずらっぽい光があった。
よぎは笑った。
「水分補給はちゃんとします」
「えらい」
「クールダウンもします」
「大人だからね」
その“大人だからね”の言い方に、よぎはやられた。
えむは、こういうところがずるい。
何気ない言葉の端に、少しだけ甘いものを残していく。
それを拾ってしまう自分も、たいがい浮かれている。
「何着ていこうかな」
えむが言った。
「何でも似合うよ」
「雑」
「本気」
「余計雑に聞こえる」
「じゃあ、見たい」
「何を?」
「旅館でのえむ」
えむは一瞬黙って、それから少し顔を伏せた。
「そういう言い方する」
「だめ?」
「だめじゃない」
「じゃあいいじゃん」
「よくない。照れる」
「照れてるえむも見たい」
えむは小さく笑った。
このやり取りを、何度しているだろう。
それでも、飽きなかった。
むしろ同じ言葉を繰り返すたび、二人だけの合図になっていく。
次の旅のことを考えるだけで、部屋の空気が少し変わる。
熱い湯。
サウナの余韻。
冷えた水。
窓の外に広がる日本海。
夕日。
部屋に戻って、少し黙る時間。
その先にあるものを、二人とも言葉にはしなかった。
言葉にしなくてもわかるからだ。
八月の午後は、まだ外に出るには暑すぎた。
それでも、次に向かう海のことを考えると、少しだけ風が吹いたような気がした。
その夜、えむは娘を寝かせたあと、ひとりでスマートフォンを開いた。
旅館のページをまた見てしまう。
日本海を望む部屋。
サウナ付き。
チェックアウト十二時。
写真の中の窓辺に、自分とよぎが並んでいるところを想像する。
朝食のあと、もう一度布団に戻ること。
サウナのあとに冷たい水を飲むこと。
窓の外の夕日に照らされる海を見ながら、しばらく何も話さないこと。
そして、その沈黙の先にあるものを、少しだけ想像してしまう。
えむはスマートフォンを伏せた。
けれど、すぐにまた手に取った。
もう一度、部屋の写真を見る。
想像しただけで、胸の奥が少し明るくなる。
その明るさを、えむはもう恥ずかしいとは思わなかった。
少し照れくさい。
でも、嫌ではない。
むしろ、楽しみだった。
えむは画面をスクロールして、もう一度部屋の写真を見た。
それから、よぎに送った。
旅館のページ、また見ちゃった。
送ってから、少しだけ笑った。
エピローグ 氷の音
夜、よぎはハイボールを作った。
氷がグラスの中で鳴る。
キッチンの灯りを受けて、指輪が小さく光る。
窓の外では、まだ虫が鳴いていた。
昼の暑さが、夜になってもどこかに残っている。
スマートフォンが鳴った。
えむからだった。
旅館のページ、また見ちゃった。
よぎは笑った。
俺も見てた。
すぐに返事が来る。
浮かれてるね。
よぎは少し考えてから、打った。
浮かれてます。
既読がつく。
しばらくして、えむから短い返事が来た。
私も。
それだけで、十分だった。
よぎはグラスを持ち上げた。
指輪が氷の光を拾う。
次に会ったら、まず手をつなぐだろう。
指輪が触れて、少し笑うだろう。
そして、何も言わずに歩き出すだろう。
バリの夜を知っている手。
昼のホテルの光を知っている手。
八月のぬくもりを、まだ少し残している手。
その手で、また手をつなぐ。
そして次は、海の見える部屋へ行く。
サウナがあって、チェックアウトが十二時で、朝食のあとにもう一度眠れる部屋。
えむが「最高」と言った部屋。
二人がまだ知らない沈黙を、たぶん少しだけ知ってしまう部屋。
よぎはハイボールを一口飲んだ。
氷が、からん、と鳴った。
その音の中に、えむの「私も」がまだ残っていた。
