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【創作大賞2026】忘れないまま、恋をした——最後の恋を、さいこうの恋へ

指輪も、白いドレスも、写真もなかった女と、
亡き妻の写真の前に、今週も二束のダリアを置く男。

失ったものを取り返すのではなく、
失ったものごと抱えたまま、もう一度幸せを選ぶ物語。

※実在する出来事や記憶をもとに再構成したフィクションです。


あらすじ

四十一歳のシングルマザー・えむには、自分の左手を見ない癖がある。

前の結婚で、本当は欲しかったものを欲しいと言えなかったからだ。

五十二歳のシングルファザー・よぎは、亡き妻の写真の前に毎週花を替え、妻と見るはずだったタージマハルを心に残している。

マッチングアプリで出会った二人は、娘の寝息、息子たちの弁当、さくらんぼの繁忙期、子供達の宿題のある生活の中で惹かれ合う。

若くない恋には、過去があり、子どもたちの戸惑いがある。

それでも二人は、失ったものを消さず、自分たちの速さで幸せを選ぼうとする。

何もない左手と、叶わなかった旅。
これから選べる未来へ変えていく大人の再恋愛小説。


プロローグ

左手を見る癖

えむには、左手を見る癖があった。

正確に言えば、自分の左手を見ないようにする癖だった。

薬指には、何もない。

そんなことは、もうとっくに知っている。

それなのに、ふとした瞬間、視線がそこへ落ちそうになる。

スーパーのレジで財布を出す時。

娘の髪を結ぶ時。

洗濯物を干す時。

スマートフォンを持つ時。

左手は、いつもそこにあった。

何もないまま。

えむは、その空白を見ないようにして生きてきた。

見たところで、何かが変わるわけではない。

指輪が現れるわけでもない。

白いドレスを着た過去が増えるわけでもない。

写真立ての中に、幸せそうに笑う自分が突然生まれるわけでもない。

なかったものは、なかったままだ。

そう思っていた。

思おうとしていた。

四十一歳。

離婚して、娘と暮らしている。

朝は、娘を起こすところから始まる。

布団にもぐる小さな体を何度も呼び、朝ごはんを出し、髪を結び、忘れ物がないか確認する。

仕事へ行き、帰ってきて、夕飯を作り、宿題を見て、お風呂に入らせる。

寝る前に少しだけ絵本を読み、電気を消す。

娘の寝息が静かになる頃、えむはようやく一人になる。

一人になると、部屋の音が急に大きくなる。

冷蔵庫の低い音。

時計の針の音。

外を走る車の音。

そして、自分の心の中で、聞こえないふりをしてきた声。

誰かと、今日のことを話したかった。

誰かに、おかえりと言いたかった。

誰かに、ただいまと言われたかった。

たったそれだけのことを望むのに、えむはいつも少し怯えた。

母親なのだから。

一度、結婚に失敗したのだから。

娘を守ることが最優先なのだから。

そんなふうに、自分の気持ちを一つずつ奥へ押し込んできた。

押し込んだものは、消えなかった。

ただ、静かになっただけだった。

えむは時々、左手を見そうになる。

そのたびに、視線を逸らす。

薬指に何もないことを確認するのが嫌だった。

何もなかった過去を、もう一度突きつけられる気がした。

指輪もなかった。

白いドレスもなかった。

写真もなかった。

それでも、その全部が、本当に欲しくなかったわけではない。

欲しかった。

そう言うだけのことが、ずっとできなかった。


第一章

空っぽの部屋に、通知が灯る

傷つくことに、慣れすぎていた。

心ない言葉を向けられても。

大切にされなくても。

自分の気持ちを後回しにしても。

どこかで「仕方ない」と思う癖がついていた。

六年間の結婚生活。

二年間の離婚調停。

終わってみれば、たった一行で説明できる。

けれど、その一行の中には、眠れない夜も、涙をこらえた朝も、娘の前で笑った夕方も、全部詰まっていた。

離婚が成立した時、えむはほっとした。

これでやっと、娘と二人で暮らしていける。

誰かの機嫌に怯えなくていい。

玄関の鍵を開ける時、家の中の空気を読む必要がない。

娘が笑っていても、誰かの顔色を気にして声を小さくする必要がない。

それだけで、十分なはずだった。

十分なはずなのに、夜は静かだった。

娘が眠ったあと、リビングに一人で座る。

テレビをつけても、内容はほとんど入ってこない。

洗濯物を畳み、明日の持ち物を確認し、給食袋をランドセルの横に置く。

やることは山ほどある。

それなのに、ふと手が止まる瞬間があった。

この先、私は誰かに「今日疲れた」と言うことがあるのだろうか。

そう考えた自分に、えむは少し驚いた。

恋人がほしかったのかと聞かれたら、その時のえむは、たぶん首を横に振ったと思う。

恋人なんて大げさだった。

家族になるとか、将来を考えるとか、そういうことは怖すぎた。

ただ、スマートフォンの向こうに、私の一日を少しだけ受け止めてくれる人がいたらいい。

それくらいの、小さな願いだった。

離婚成立から一か月後、えむはマッチングアプリに登録した。

春の日差しが、少しずつ柔らかくなり始めた頃だった。

プロフィールには、旅が好き、と書いた。

二十代の頃、えむはフランスへワーキングホリデーに行った。

一年間。

読めないメニュー。

通じない言葉。

硬いパン。

寒い朝。

スーパーのレジで小銭をまごついて、後ろの人にため息をつかれたこともある。

それでも、日曜日の朝にマルシェを歩くと、どうにか生きていける気がした。

フランスから、モロッコへ行った。

イタリアへ行った。

憧れのフィレンツェにも行った。

予定通りにいかないことなんて、いくらでもあった。

でも旅先では、どうにもならないものは、どうにもならない。

電車が遅れたら待つしかない。

店が閉まっていたら、別の店を探すしかない。

道に迷ったら、誰かに聞くか、歩き続けるしかない。

諦めることは、負けることではない。

余計な荷物を下ろして、次の道を探すことだ。

その感覚は、離婚してからのえむを、どこかで支えていた。

離婚成立のあと、えむは娘とタイへ行った。

新しい人生のスタート、なんて立派なものではない。

ただ、遠くへ行きたかった。

誰も自分を知らない場所へ。

元妻でもなく、離婚調停の当事者でもなく、かわいそうな人でもない場所へ。

小学二年生の娘は、自分のスーツケースを一生懸命引きながら、空港を歩いていた。

その小さな背中を見ながら、えむは何かを決めた気がした。

この子と生きていく。

それだけは、もう迷わない。

バンコクのドンムアン空港を出た瞬間、湿った熱気が肌にまとわりついた。

クラクションの音。

人の声。

屋台の匂い。

全部が、日本の日常から遠かった。

パタヤの海は、絵葉書みたいに澄んだ青ではなかった。

少し濁っていて、観光客の声があちこちから聞こえた。

でも、娘は楽しそうだった。

砂浜でサンダルを脱ぎ、波打ち際で足を濡らして笑っていた。

その笑い声を聞いた時、えむはようやく少しだけ息を吐いた。

連れてきてよかった。

夜、ホテルの部屋で娘が眠ったあと、えむはベランダに出た。

遠くから音楽が聞こえた。

どこかの店の明かりが、夜の中で滲んでいた。

楽しい一日だった。

それなのに、少し寂しかった。

娘と二人でいることは幸せだった。

けれど、その幸せを「楽しかったね」と同じ温度で分け合える大人がいないことに、ふと気づいてしまった。

スマートフォンで撮った写真を見返す。

娘の笑顔。

海。

食べかけのマンゴー。

ホテルの朝食。

誰かに送りたいと思った。

でも、送る相手がいなかった。

その時の寂しさを、えむはすぐに心の奥へしまった。

寂しいなんて思ってはいけない。

娘がいるのに。

そうやってまた、自分の気持ちに蓋をした。

アプリに登録してから数日で、もう疲れ始めていた。

送られてくるメッセージは、だいたい決まっていた。

ゴールデンウィークはどこか旅行に行くんですか?

えむは毎回、同じように答えた。

近場で過ごそうと思っています。
でも、三月にタイに行ってきました。

返ってくる反応は、いつも似ていた。

へぇ、僕、海外行ったことないです。

その言葉を見るたび、えむは少し気を遣った。

相手に合わせなきゃ。

話題を変えなきゃ。

海外の話を続けたら、自慢みたいに聞こえるかもしれない。

そう思っているうちに、会話は薄くなり、やがて終わってしまう。

旅が好き。

プロフィールには、たった四文字でそう書いた。

でも、その四文字の中には、知らない国で道に迷ったことも、娘の小さな背中を見ながら決めたことも、誰にも言えなかった寂しさも入っていた。

そこまで読んでほしいわけではなかった。

ただ、少しだけ、同じ温度で返してほしかった。

その日、えむは娘と歯医者にいた。

待合室は、消毒液の匂いがした。

診察室の奥で機械音が鳴るたび、娘が少し肩をすくめる。

えむはその横で、何を見るでもなくスマートフォンを眺めていた。

通知が来た。

マッチングしました。

相手の名前は、よぎ。

また同じ質問が来るんだろうな。

そう思いながら、メッセージを開いた。

ゴールデンウィークはどこか行かれますか?
僕は佐渡島に行きます。

ほら、やっぱり。

えむはいつものように返信した。

私は近場で過ごします。
先月、バンコクとパタヤに行きました。

なぜかその時は「タイ」と書かなかった。

バンコクとパタヤ。

都市名で答えた。

今思えば、それが最初の小さな分岐点だったのかもしれない。

すぐに返信が来た。

いいですね。
僕たちもバンコクから入って、年末年始はパタヤでヒャッハーしてました!

思わず笑った。

山形の片隅で、田んぼと山に囲まれたこの町で、バンコクからパタヤへ流れる旅の話が通じる人がいる。

それだけのことが、なぜか嬉しかった。

しかも、ヒャッハー。

旅先のことを、綺麗な思い出として飾らない人なんだと思った。

娘が診察室から戻ってきた時、えむはまだ少し笑っていた。

「ママ、なに笑ってるの?」

「なんでもない」

そう答えながら、自分でも少し驚いていた。

なんでもないことなのに。

心の中に、小さな灯りがともった気がした。


第二章

ダリアの名前を覚えた男

マッチングアプリを始めた時、よぎは何かを期待していたわけではなかった。

正確に言うと、期待することを、自分に許していなかった。

五十二歳。

シングルファザー。

息子が二人。

長男は高校二年生。

次男は中学三年生。

毎朝、弁当を作る。

長男には唐揚げを多めに。

次男にはブロッコリーを少なめに。

次男は、ブロッコリーを敵だと思っている。

長男は文句を言わないふりをして、好きなものから先に食べる。

朝の台所は、ちょっとした戦場だった。

洗濯機が回っている。

炊飯器が鳴る。

冷蔵庫を開ける。

水筒を出す。

箸を入れ忘れないようにする。

父親になった。

母親の分まで、とは思わないようにしていた。

そんなことはできない。

妻の代わりには、誰もなれない。

もちろん、よぎにもなれない。

妻が亡くなってから、時間は一度止まった。

でも、生活は止まらなかった。

息子たちは腹を減らす。

学校はある。

仕事もある。

弁当もいる。

止まったまま、走り続けるしかなかった。

妻がいなくなってから、家の中の音が変わった。

同じ洗濯機の音。

同じ炊飯器の音。

同じ玄関の開く音。

それなのに、どこかが違って聞こえた。

以前は、家のどこかに妻の気配があった。

キッチンで何かをしている音。

洗面所でドライヤーを使う音。

リビングで笑う声。

その気配がなくなった家は、広すぎた。

よぎには、妻が亡くなってから続けている習慣がある。

毎週末、花屋へ行く。

妻の写真の前に供える生花を、二束買う。

一束ではなく、二束。

最初は、理由なんてなかった。

一束では、棚の上が寂しすぎた。

二束だと、少しだけ部屋の空気が明るくなる気がした。

それだけだった。

花に詳しかったわけではない。

若い頃のよぎにとって、花は「花」だった。

バラはわかる。

ひまわりもわかる。

チューリップも、まあわかる。

けれど、それ以外はほとんど名前を知らなかった。

花屋の店先で、初めて明るいダリアを見た時、よぎは少し足を止めた。

大きく開いた花びら。

少し派手で、でも下品ではない。

丸くて、明るくて、どこか気の強そうな花だった。

店員が言った。

「今の時期、ダリア綺麗ですよ」

よぎは、

「へえ」

と、曖昧に返した。

ダリア。

名前だけは知っていた花。

その日初めて、形と名前が結びついた。

蓮の花がすきだった妻に似合うと思った。

なぜそう思ったのかは、うまく説明できなかった。

妻は、特別派手な人ではなかった。

でも、笑うと部屋の明るさが変わる人だった。

黙っていても、そこにいるだけで、空気の輪郭がやわらかくなる人だった。

ダリアは、そんな妻の笑い方に少し似ていた。

それ以来、よぎは花屋で季節の花を見るようになった。

春はラナンキュラス。

梅雨には紫陽花。

夏にはひまわり。

秋にはケイトウ。

冬には白いストック。

名前を覚えるつもりなんてなかった。

でも、毎週末、花を選んでいるうちに、少しずつ覚えてしまった。

花の名前を覚えることは、悲しみの扱い方を覚えることに少し似ていた。

最初は、全部同じに見える。

ただ綺麗で、ただ寂しい。

でも、よく見ると、少しずつ違う。

咲き方も。

色も。

水を吸う速さも。

花びらの落ち方も。

悲しみも、そうだった。

毎日、同じように悲しいわけではない。

朝に来る悲しみ。

夜に来る悲しみ。

スーパーで急に来る悲しみ。

息子たちの何気ない言葉で胸に刺さる悲しみ。

妻の好きだったものを見た時に、静かに立ち上がる悲しみ。

種類がある。

形がある。

名前をつけられないままでも、そこにある。

よぎは、毎週末、妻の写真の前の花を替えた。

水を替える。

茎を少し切る。

古くなった葉を取る。

二束の花を、花瓶に挿し直す。

そうしている間だけは、妻とまだ同じ家にいるような気がした。

写真の中の妻は、いつものように笑っている。

責めもしない。

許しもしない。

ただ、そこにいる。

その距離が、よぎには必要だった。

若い頃、よぎはよく旅に出た。

バックパックを背負って、安宿に泊まり、バスを乗り継ぎ、腹を壊し、道に迷い、値段交渉で負け、時々勝った。

インドには八回行った。

タイにも何度か行った。

数えてみれば、二十二カ国になる。

世界は広かった。

そして、だいたいのことは予定通りにいかなかった。

バスは来ない。

宿は写真と違う。

予約は通っていない。

腹は壊す。

雨は降る。

それでも、朝は来る。

どうにもならないことは、どうにもならない。

でも、その中で笑うことはできる。

その感覚は、妻を亡くしてからの生活にも、どこかで残っていた。

亡くなった人は戻らない。

悲しみは消えない。

でも、米は炊ける。

弁当は作れる。

花は枯れる。

だから、また買いに行く。

インドへ八回も行っているのに、よぎはタージマハルへ行ったことがなかった。

行けなかったわけではない。

行かなかったのだ。

いつか妻が、

「インドに行ってみたい」

と言ったら、一緒に見に行こうと思っていた。

だから、取っておいた。

白い大理石の霊廟。

愛する妻のために建てられた、あまりにも有名な墓。

そこへ、自分の妻と行く。

若い頃のよぎは、それを少し照れくさい夢みたいに思っていた。

妻は、よぎほど旅好きではなかった。

インドなんて、最初はほとんど興味がないようだった。

それでも、ある夜のことだった。

珍しく妻がビールを嗜んだ。

頬が少し赤くなり、いつもより饒舌になっていた。

グラスを手に、上機嫌に笑って言った。

「わたしもそろそろ、インド行ってみよっかな」

よぎは、その言葉を今でも覚えている。

軽い言い方だった。

冗談半分だったのかもしれない。

けれど、よぎの胸には小さな灯りがともった。

その時は、いつか行けると思っていた。

タージマハルは逃げない。

インドはそこにある。

いつか、二人で行けばいい。

そう思っていた。

けれど、その「いつか」は来なかった。

妻が亡くなったあと、よぎは何度かインドの写真を見返した。

喧騒。
牛。
砂埃。
チャイの湯気。
寝台列車。
ガンジス川の朝。

その中に、タージマハルの写真は一枚もなかった。

取っておいた場所は、取っておいたまま、行けない場所になった。

行こうと思えば、今でも行ける。

航空券を取って、電車に乗って、ゲートをくぐればいい。

でも、よぎは行けなかった。

一人で見てしまったら、妻と見られなかったことが決まってしまう気がした。

だから、タージマハルはずっと、よぎの旅の地図の中で、白い空白のままだった。

夜になると、同じ台所が急に広くなる。

息子たちがそれぞれの部屋に入り、洗い物を終えて、冷蔵庫から炭酸水を出す。

ハイボールの氷が、グラスの中で小さく鳴る。

その時、ふと思うことがあった。

誰かに、今日あったことを話したい。

ただ、それだけだった。

誰かに慰めてほしいわけじゃない。

妻を忘れたいわけでもない。

新しい家族がほしいわけでもない。

ただ、くだらない話をして笑いたかった。

その程度の願いが、夜の台所では妙に切実だった。

マッチングアプリに登録するまでには、少し時間がかかった。

アプリはなかなかにカオスだった。

業者か。
投資勧誘か。
距離感のおかしい人か。

何度かやり取りをして、すぐに疲れた。

五十二歳。

息子二人。

妻とは死別。

プロフィールにそう書くと、重すぎる気がした。

かといって、書かないわけにもいかない。

この年齢で何かを隠して始める関係は、あとから必ず歪む。

そんなことは、わかっていた。

ある日の午後。

長男を歯医者に送り、駐車場の車内で待っていた。

エンジンを切った車の中は静かだった。

外では、初夏の風が街路樹を揺らしていた。

スマートフォンに通知が来た。

えむさんとマッチングしました!

あ〜はいはい。

そんな気持ちで、プロフィールを開いた。

写真より先に、

旅が好きです。

という一文が目に入った。

それだけで、少し指が止まった。

旅好きな人間は、たいてい好奇心が強い。

でも、それだけではない。

本当に旅が好きな人間は、たぶん、諦め方が少し似ている。

どうにもならないことを、どうにもならないまま抱えられる。

無理なものは無理だと知っている。

そのくせ、行けると思った瞬間だけ、急に馬鹿みたいな決断力を発揮する。

旅には、そういうところがある。

それだけの理由で、メッセージを送った。

ゴールデンウィークはどこか行かれますか?
僕は佐渡島に行きます。

返ってきた答えが、バンコクとパタヤだった。

よぎは画面を二度見した。

バンコクは、百歩譲ってわかる。

でも、パタヤまで一致するか。

期待しない。

期待すると、あとが面倒だ。

そう思っているのに、指はもう返信を打っていた。

いいですね。
僕たちもバンコクから入って、年末年始はパタヤでヒャッハーしてました!

送信してから、少し笑った。

五十二歳の男が、初対面の女性に「ヒャッハー」と送っている。

どうかしている。

でも、そのどうかしている感じを、彼女は笑ってくれる気がした。

そして、実際に彼女は笑ってくれた。

その夜、よぎは妻の写真の前で少しだけ足を止めた。

花瓶には、週末に買ったダリアが二束、明るく開いていた。

今の時期は、この花が妻にはお似合いだと思う。

よぎはそう思ってから、自分で少し笑った。

昔の自分なら、ダリアの形さえ知らなかったくせに。

花の名前を覚えた分だけ、悲しみとも長く暮らしてきたのだと思った。

まだ何も始まっていない。

ただ、メッセージを一通送っただけだ。

それなのに、自分の中のどこかが、ほんの少し前を向いた気がした。

そのことが、少し怖かった。


第三章

八時間ぶんの既視感

そこから、メッセージは自然と続いた。

朝には、

おはようございます。

夜には、

お疲れさまでした。

その合間に、旅の話をした。

えむの知らない国の話を、たくさん聞かせてくれた。

気づけば、画面を見ながら笑っている自分がいた。

毎日、同じことの繰り返しだった人生に、ぽっと灯りがともったようだった。

娘を成人まで育て上げること。

それだけを目標にしてきたえむにとって、よぎとのメッセージの時間は、久しぶりに「自分の人生」を生きている感覚だった。

よぎは優しかった。

でも、ただ優しいだけではなかった。

温かかった。

まだ会ったこともないのに、言葉の端々に気遣いがあった。

結婚生活の中で少しずつ失っていた自己肯定感を、よぎは何気ない言葉で取り戻してくれた。

それでも、えむは人を信じることが怖かった。

もしかしたら、騙されるかもしれない。
また、傷つくかもしれない。

そんな不安は、簡単には消えなかった。

ある日、よぎからメッセージが届いた。

今週末、土曜日も日曜日も暇です。
会いませんか?
もちろん、えむさんのタイミングで大丈夫です。

誘いながらも、ちゃんと逃げ道を残してくれる。

その優しさが、嬉しかった。

よぎのプロフィールには、

シングルファザー(死別)

と書かれていた。

聞きたい。

でも、聞いたら終わるかもしれない。

そんな怖さがあった。

それでもえむは、勇気を出した。

ご家庭の状況は、どんな感じですか?

しばらくして、返事がきた。

明日、誤解のないように、きちんとプレゼンしますね。

翌朝。
七時十分。

長いメッセージが届いていた。

そこには、プロフィールに嘘がないこと。

自分の状況。子どもたちのこと。

一つひとつ、丁寧に書かれていた。

文章には、人柄が出る。

思いやり。
誠実さ。
温かさ。

えむは画面を見つめながら、そう感じていた。

この人は、信頼できる人かもしれない。

言葉だけなら、誰でも言える。

でも、その言葉を行動で示せる人は少ない。

よぎは、少し違うのかもしれない。

なぜか、そう思えた。

えむも、自分のことを正直に話した。

シングルマザーであること。
二年前、娘を連れて、昼逃げ同然で家を出たこと。

お互いに、隠していた傷を見せ合った。

まだ、会ったこともないのに。

不思議なくらい、自然に。

そして二人は、初めて会う約束をした。

約束の日。

午前中は、娘の小学校の授業参観だった。

教室の後ろから娘の姿を見守りながらも、頭の片隅には夕方の予定があった。

鉛筆を持つ娘の指。

黒板を見る横顔。

少し大きくなった上履き。

私は母親だった。

帰宅して、夕飯の準備を済ませた。

娘の着替えを用意した。

明日の予定も確認した。

出かける前にやれることは、全部やった。

全部やらないと、出かけてはいけない気がした。

罪悪感を少しでも減らしたかった。

クローゼットを開く。

久しぶりに、白いパーカーを選んだ。

少しでも顔色が明るく見えるように。

少しでも若く見えるように。

そんな自分が、少し可笑しかった。

電車は一時間に一本。

どうせなら、早く行こう。

そう決めて、予定より早い電車に乗った。

車窓の外には田んぼが広がっていた。

水の張られた田は、夕方の空を薄く映していた。

ガタン、ゴトン。

同じリズムで、心臓も落ち着かなく揺れていた。

スマートフォンが震えた。

よぎからだった。

何時頃に駅に着きますか?

えむはすぐに返した。

十六時前には着いています。

すぐに返信が来た。

僕は早めに行って、近くで練習しています。

練習。

思わず笑った。

緊張しているのは、私だけじゃないんだ。

肩の力が、少し抜けた。

私も練習にお付き合いしていいですか?

駅に着くと、春の夕方の風が頬を撫でた。

約束の店の前に着いた時だった。

上下デニム。

ひげ。

メガネ。

首元にヘッドホン。

写真より、少し大きく見えた。

そして、思っていたより柔らかく笑った。

「あ、よぎさんですか?」

自分の声が少し上ずっていることに気づいた。

「はい」

よぎは、少し照れたように笑った。

二人で店に入った。

席に着き、グラスを持つ。

「かんぱーい。はじめまして」

グラスが軽く触れ合った。

その音が、居酒屋の喧騒の中で、妙にクリアに聞こえた。

初対面なのに、言葉に困らなかった。

旅の話。
食べ物の話。
インドの話。
パタヤの話。

えむは、二十代の頃にフランスへ一年行っていたことを話した。

ワーキングホリデー。

そこから、モロッコ、イタリア、スペインへ旅したこと。

よぎは、面白そうに聞いてくれた。

「えむさんが行った国、俺ほとんど行ってない」

「私も、よぎさんが行った国、全然知らないです」

「なのに、パタヤだけ重なるって変だよね」

「変ですね」

二人で笑った。

旅先が同じだから嬉しいのではない。

見てきた景色が違うのに、世界への向き合い方が似ている気がする。

初対面の会話で、そんなことまでわかるはずがない。

でも、わかる気がした。

零次会を終え、予約していた焼肉屋へ向かった。

個室に案内される。

網の上で肉が焼ける音が、心地よく響いた。

食事が進み、お酒も進んだ頃だった。

えむは何気なく聞いた。

「国内だと、どこが好きですか?」

よぎは少しだけ遠くを見るような顔をした。

「この前、沖縄に行ったんです」

「海、綺麗ですよね」

そう返した瞬間だった。

「妻の散骨で」

箸を持つ手が止まった。

聞いていいことだったのか。

いけないことだったのか。

すぐには判断できなかった。

何か言わなきゃと思った。

でも、何を言っても違う気がした。

だからえむは、ただ頷いた。

よぎは静かに話し始めた。

亡くなった奥さんのこと。

「私が死んだら、暗いお墓じゃなくて綺麗な海に撒いてほしい」

そう言っていたこと。

その願いを叶えるために、沖縄へ行ったこと。

悲劇として話しているのではなかった。

大切なものを、壊れないようにそっと取り出して見せてくれている。

そんな話し方だった。

「仲良し夫婦だったんだけどな」

そう言った時の表情が、忘れられない。

寂しさがあった。

でも、それだけではなかった。

感謝。
愛しさ。
まだそこにあるもの。

えむは、自分の離婚の話をした。

二年前、娘を連れて昼逃げ同然で家を出たこと。
調停が長引いたこと。
ずっと怖かったこと。

まだ会って数時間の人に、どうしてこんな話をしているのだろうと思った。

けれど、不思議と不自然ではなかった。

たぶん、旅の話をしたあとだったからだと思う。

国境を越えた話のあとに、人生の境目を越えた話をする。

そんな順番なら、少しだけ自然に思えた。

よぎは、口を挟まなかった。

かわいそうとも言わなかった。

よく頑張ったね、と簡単にも言わなかった。

ただ、聞いてくれた。

その沈黙に、えむは救われた。

よぎがタージマハルの話をしたのは、少し酒が進んでからだった。

「インド、八回行ってるんですけど」

「八回ってすごいですね」

「でも、タージマハルは行ってないんです」

「え、逆に?」

えむは驚いて笑った。

よぎも笑った。

でも、その笑いはすぐに静かになった。

「妻が、いつかインドに行ってみたいって言ったら、一緒に見ようと思って、取っておいたんです」

えむは箸を置いた。

よぎの声は、穏やかだった。

「一回だけ、珍しくお酒飲んで上機嫌な時があって。わたしもそろそろインド行ってみよっかな、って」

よぎは、少しだけ目を細めた。

「その時、ああ、じゃあタージマハルは一緒に見ようって思ったんです。でも、叶わなかった」

えむは、何も言えなかった。

タージマハル。
世界中の人が知っている観光地。

けれど、よぎにとっては、ただの観光地ではなかった。

行かなかった場所。

取っておいた場所。

もう誰とも同じ意味では行けなくなってしまった場所。

「一人で行こうと思えば、行けるんですけどね」

よぎは笑った。

「でも、一人で見たら、妻と見られなかったことが決まっちゃう気がして」

えむは、その言葉を胸の奥で受け止めた。

人には、行けなかった場所がある。

行かなかったのではなく、誰かと行くために残しておいた場所。

それが叶わなくなった時、その場所は地図の上では近くても、心の中ではひどく遠くなる。

白いドレス。
指輪。
写真。

行けなかった場所は、国の外にだけあるわけではない。

人生の中にもある。

よぎは、そのことを説明しようとはしなかった。

えむも、わかったふりをしなかった。

ただ、そこに沈黙があった。

その沈黙は、気まずくなかった。

食事を終える頃には、二人ともすっかりほろ酔いになっていた。

まだ帰りたくなかった。

終電の都合もあり、えむの地元近くまで移動して飲み直すことになった。

個室居酒屋に入り、よぎが注文したのは、梅水晶、エイヒレ、冷やしトマト。

テーブルに並んだ料理を見て、えむは笑った。

「なんで私の好きなものばっかりなんですか?」

「え?」

偶然だった。

ハイボールを飲むペースも、なぜか同じだった。

グラスの減り方が似ている。

笑うタイミングが似ている。

苦手なものの話になって、二人とも山形訛りが少し苦手だとわかった時には、さすがに笑った。

山形に暮らしているのに。

山形で出会っているのに。

「なんか、磁石みたいですね」

えむが言った。

「S極とN極?」

「遠くにあったのに、近づいたらズズズって引き寄せられる感じ」

よぎは笑った。

「じゃあ今、ネオジウムくらい強力かもしれないですね」

「強すぎる」

くだらない。

でも、そのくだらなさまで、妙にしっくりきた。

気がつけば、店員が声を掛けていた。

「お客様、閉店のお時間です」

時計を見る。

午前一時。

最初の乾杯から、八時間が過ぎていた。

帰り道のタクシーの中で、えむは窓の外を見ていた。

街灯が、窓の向こうをゆっくり流れていく。

楽しかった。

本当に楽しかった。

だからこそ、期待しないようにしていた。

きっと今日だけだろうな。

そう思うことで、自分を守った。

期待すると傷つく。

それが、結婚してから覚えた生き方だった。

スマートフォンが震えた。

よぎからのLINEだった。

初日ですけど、普段使わないところの深層心理的な感情の感性がめちゃ気持ちよかったです。

えむは画面を見つめた。

酔っていたせいもあって、その意味はよくわからなかった。

わかったような。
わからないような。

でも、不思議と嫌ではなかった。

きっと、うまく言葉にできないくらい楽しかった、ということなのだろう。

そう受け取ることにした。

返信はしなかった。

返したら、何かが始まってしまう気がした。

始まってほしいくせに。
始まったら怖い。

そんな矛盾を抱えたまま、えむはスマートフォンをバッグに戻した。

翌朝。

頭は少し重かった。

それでも、心は驚くほど軽かった。

久しぶりだった。

朝起きて、幸せな気持ちになったのは。

昨日のことを思い出しながら、えむはLINEを開いた。

飲みすぎてあまり記憶がなくて。
失礼なこと言ってなかったか、だけ心配です。

送信ボタンを押した。

けれど、既読はつかなかった。

一時間。

二時間。

何度もスマートフォンを見てしまう。

ああ、やってしまったかな。

飲みすぎたし。

変なことを言ったかな。
重かったかな。
楽しかったのは、私だけだったのかな。

そんなことばかり考えていた。

でも、現実は待ってくれない。

昼からは実家のお祭りがあった。

親戚が集まり、賑やかな声が飛び交う。

皿を並べる。
飲み物を出す。
娘の相手をする。
誰かに呼ばれる。
笑う。
また動く。

その後は、娘の習い事の集まりがあった。

気づけばまた、母親としての一日が始まっていた。

夕方、帰宅して横になった。

何気なくスマートフォンを開く。

よぎから返信が届いていた。

それだけで、胸が少し温かくなった。

内容を読む前に、もう嬉しかった。

不思議だった。

出産してからずっと、えむは母親として生きていた。

仕事をする人として生きていた。

誰かの元妻として。

離婚調停の当事者として。

娘を守る人として。

でも、よぎとLINEをしている時だけは違った。

母親でもない。

誰かの元妻でもない。

ただの、えむだった。

笑ったり。

驚いたり。

ワクワクしたり。

意味のわからないLINEを見て首をかしげたり。

返信が来ないだけで不安になったり。

忘れていた感情を、少しずつ思い出していた。

まだ知らなかった。

人生を変える出来事は、いつだって静かに始まることを。

その同じ朝、よぎもまた、リビングでスマートフォンを見ていた。

息子たちはまだ寝ている。

台所には、洗い終えた弁当箱が伏せてある。

リビングの棚には、妻の写真がある。

写真の前には、明るいダリアが二束。

昨夜、えむに妻の話をした。

散骨の話までした。

タージマハルの話まで、してしまった。

重かっただろうか。

引かれただろうか。

けれど、えむは逃げなかった。

無理に慰めもしなかった。

ただ、そこにいてくれた。

よぎは、えむから届いたLINEを何度も読んだ。

飲みすぎてあまり記憶がなくて。
失礼なこと言ってなかったか、だけ心配です。

失礼なことを言ったかもしれないと、先に心配する人。

自分が楽しめたかどうかより、相手に迷惑をかけたかもしれないことを考える人。

たぶん長い時間、自分を後回しにしてきた人だ。

よぎは返信を打ちかけて、やめた。

軽い言葉では足りない気がした。

けれど、重すぎる言葉も違う。

まだ一度会っただけだ。

それなのに、心が前に出過ぎている。

その自覚があった。

恋なのか。

寂しさなのか。

妻を亡くした穴に、たまたま現れた人を置こうとしているだけなのか。

よぎは、妻の写真を見た。

写真の中の妻は、いつものように笑っていた。

ダリアの花びらが、朝の光を受けて明るく見えた。

「楽しかった」

声に出してから、自分で驚いた。

誰に言い訳しているのだろう。

妻にか。

自分にか。

息子たちにか。

答えは出なかった。

ただ、昨夜のえむの頷き方を思い出した。

人の人生には、簡単に言葉を足してはいけない場所がある。

えむは、その場所を知っている人だった。


第四章

小瓶の底に光るもの

初めての夜が終わってから、えむとよぎは毎日LINEをするようになった。

まだ恋人ではない。

特別な関係でもない。

約束したわけでもない。

それでも、一日の終わりに自然と思い出す相手になっていた。

今日、何食べたんだろう。

息子さんたちのお弁当、作ったのかな。

娘の宿題、また時間かかったな。

仕事、疲れたな。

そんな取るに足らない日常の端に、相手の名前が引っかかる。

それは、恋と呼ぶにはまだ早かった。

けれど、ただの知り合いというには、少しだけ温度があった。

よぎはよく写真を送ってくれた。

夕飯に作ったタコス。

息子たちのお弁当。

休日の朝、庭先で洗われた犬。

時々、リビングの棚の端に花が写っていた。

えむはある日、それに気づいた。

お花、いつも飾ってるんですか?

少しして、返信が来た。

妻の写真の前に。
毎週末、二束買ってます。
今はダリアが明るくて似合うなと思って。

えむはその文面を、しばらく見つめた。

妻の写真。

毎週末。

二束。

ダリア。

そのどれもが、静かに胸に入ってきた。

過去の人ではないのだと思った。

よぎの妻は、思い出の中だけに閉じ込められている人ではない。

今も、花瓶の水を替えられ、花を選ばれ、生活の中で大切にされている人なのだ。

少しだけ、胸が痛んだ。

でも、不思議と嫌ではなかった。

この人は、ちゃんと愛してきた人なのだ。

そう思った。

やり取りの中で、変な偶然もいくつか見つかった。

えむは週末になると、ウーパールーパーの水槽を掃除した写真を送った。

すると、よぎから返ってきた。

昔、飼ってました。

えむは画面を見て、少し笑った。

普通、そんなところまで重なるだろうか。

偶然は、何度も重なると少し怖い。

でも、その怖さは嫌ではなかった。

一度目のデートから数日後、二度目の約束をした。

五月九日。

その日を、えむは少し楽しみにしていた。

けれど、約束の前日の夜から体が重かった。

翌朝、熱を測ると三十八度を超えていた。

病院で言われた。

「インフルエンザですね」

九年ぶりだった。

よりによって、このタイミングで。

布団の中で、えむはよぎに連絡した。

本当に申し訳ないです。
せっかく予定してくれてたのに。

何度も謝った。

謝りながら、昔の癖が戻ってくるのがわかった。

予定を変えてしまった。

迷惑をかけた。

がっかりされた。

嫌われたかもしれない。

熱でぼんやりした頭の中で、相手の機嫌を勝手に想像して、自分で自分を追い詰めていく。

返信はすぐに来た。

お酒は逃げないので、また楽しみにしてます。

たった一文だった。

責めない。

急かさない。

残念がりすぎもしない。

ただ、次を楽しみにしてくれる。

それだけのことが、えむには信じられなかった。

会えないことを、罰にしない人。

その一文が、熱で重たい体の奥に、静かに染みた。

よぎは、ゴールデンウィークに計画していた佐渡島へ、息子たちと三人で旅立った。

息子達は砂金で一山当てるって鼻息荒くしてます。
次男はスマホに金属探知機のアプリ入れて練習してる。

布団の中でそれを読んで、えむは笑った。

熱で体は重いのに、心だけ少し軽くなった。

数日後、熱が下がった頃にLINEが届いた。

佐渡島で砂金採りしてきました。
お土産あります。

お土産。

会ってまだ一度しかいない。

まだ何者でもない関係なのに、旅先で自分のことを思い出してくれた。

その事実が、えむの胸に小さく灯った。

後日、よぎから渡されたのは、小さな瓶だった。

底の方に、ほんの少しだけ金色の粒が沈んでいる。

金、と呼ぶにはあまりに小さい。

宝物、と呼ぶにはあまりに頼りない。

でも、えむはその瓶をなかなか置けなかった。

「こんなちょっとでごめん」

よぎが言った。

「いや、すごいです」

えむは本気で言った。

「一山当てられなかった」

「当ててたら、逆に怖いです」

二人で笑った。

旅先で誰かを思い出す、ということの特別さを、えむは知っている。

知らない街を歩いている時。

ふと、これを見せたいなと思う。

これを食べさせたいなと思う。

この空気を一緒に吸えたらいいのにと思う。

その瞬間、相手はもう、日常の外にまで連れて行かれている。

まだ恋人ではない。

でも、よぎは佐渡島で、ほんの一瞬でも、えむを思い出してくれた。

その事実の方が、砂金よりずっと眩しかった。

えむはその小瓶を、しばらくキッチンの棚に置いていた。

娘に見つかると、すぐに聞かれた。

「なにこれ?」

「佐渡島のお土産だよ」

「誰から?」

一瞬、答えに詰まった。

友達、と言えばいい。

まだそう言っても嘘ではない。

でも、友達という言葉に収めるには、その瓶は少しだけ特別になりすぎていた。

「知り合いの人から」

そう言うと、娘は、

「ふうん」

とだけ言って、すぐに別のことに興味を移した。

子どもは鋭いのに、時々とてもあっさりしている。

えむは、その小さな背中を見ながら、胸の奥が少し痛くなった。

いつか、この子にちゃんと話す日が来るのだろうか。

ママに好きな人ができた、と。

その時、この子はどんな顔をするのだろう。

喜ぶだろうか。

嫌がるだろうか。

寂しがるだろうか。

その夜、娘が寝たあと、えむは砂金の瓶を手に取った。

蛍光灯の下で、ほんの小さな金色が揺れた。

誰にも見えない場所。

でも、自分だけはいつでも取り出せる場所。

まるで、その時のよぎへの気持ちみたいだった。


第五章

赤い悪魔の季節

五月の終わりから、えむの実家のさくらんぼ収穫が繁忙期に入った。

山形の初夏は、さくらんぼの赤で忙しくなる。

かわいい果物だと思っている人は、一度その季節の農家の空気を吸ってみればいい。

早朝の果樹園には、まだ夜の湿気が残っている。

葉の陰に隠れた赤い実を一つずつ見つけるたび、人の手も、予定も、機嫌も、全部さくらんぼに支配されていく。

朝は早く、手は足りない。

天気には振り回される。

雨が降れば焦るし、陽が照りすぎても焦る。

熟しすぎた実は待ってくれない。

この季節の山形では、さくらんぼが人間の都合よりずっと偉い。

えむは申し訳なさそうにLINEを送った。

これから収穫終わるまで、めちゃくちゃピリピリムードが始まるので、出かけるとか言い出しにくい状況です。

よぎは、スマートフォンの画面を見ながら少し笑った。

会いたい。

けれど、その気持ちだけで相手の生活に土足で入るわけにはいかない。

えむには娘がいる。
仕事がある。
実家がある。

よぎにも息子たちがいる。
弁当がある。

若い頃の恋なら、会いたいから会う、で済んだかもしれない。

今は違う。

会いたいと思った瞬間に、まず誰かの予定表が頭に浮かぶ。

それが大人になるということなのかもしれない。

少し不自由で、少し面倒で、少しだけ優しい。

よぎは返信した。

レッドデビルだ笑
サクランボ落ち着くまではご近所月間にして攻略しちゃいましょう。

赤い悪魔。

自分で打っておいて笑った。

えむも笑ってくれた。

会えないなら、会える形を探せばいい。

自由な週末もない。

夜遅くには出にくい。

それなら、近所で少しだけ会う。

一時間だけ話す。

子どもが寝たあと、車を走らせる。

恋というより、生活の隙間を縫う作業だった。

でも、その隙間に灯るものが、よぎには眩しかった。

五月十六日。

インフルエンザが明けたばかりのえむと、ワインバルのイベントへ行った。

新幹線で三駅。

会場は、初夏の陽気の中で賑わっていた。

全国のワイナリーが並び、グラスを持った人たちが、少し浮かれた顔で歩いている。

えむはまだ少し鼻声だった。

事前に、こんな連絡が来ていた。

アメリカ人ばりに鼻かむので引かないでください。

よぎはこう返した。

えむさんのアメリカナイズされたインターナショナルスタイルを、ワインと共に楽しみますよ。

くだらない。

でも、そういうくだらなさを笑える相手がいることが、妙に嬉しかった。

翌日の日曜日。

えむに急に一人の時間ができた。

連絡をもらって、よぎはすぐに返信した。

お蕎麦ドライブでもいかがですか?

昨日の今日だ。

さすがに来ないかもしれない。

そう思いながら送ったのに、えむの返事は早かった。

行きたいです。

その短さが嬉しかった。

待ち合わせは、ファミレスの駐車場だった。

よぎの車の前を、黒いコンパクトSUVが走っていた。

その車が、同じ駐車場へ入っていく。

よぎも続いて曲がった。

黒いSUVが空いたスペースにすっと停まる。

運転席のドアが開いた。

降りてきたのは、えむだった。

よぎは思わず笑った。

「すごい車乗ってますね」

えむも、少し照れたように笑った。

「いや、よぎさんの車の方がすごいですし、カッコいいですね」

「うん、車はカッコいいです笑」

自分で言って、よぎは少し笑った。

えむは自分の車を振り返った。

黒いボディに、午後の光が薄く映っていた。

「私、ある時から、SUVに乗ってる彼氏の助手席に乗るのが夢だったんです」

その声は、冗談みたいに軽かった。

でも、少しだけ奥に何かがあった。

「でも、もう叶わないと思ったから。こっちに引っ越した時、自分で買っちゃって、自分で運転しようと思ったんです」

よぎは、すぐには返事をしなかった。

その言葉の中に、えむの生き方が見えた気がした。

誰かに連れて行ってもらうことを、諦めた人。

助手席に座る夢を、自分で運転席に座ることで叶えようとした人。

頼ることより、自分で動くことを選ばざるを得なかった人。

「かっこいいですね」

よぎが言うと、えむは少し目を丸くした。

「車が?」

「えむさんが」

言ってから、少し照れた。

えむは笑った。

「そういうこと急に言いますね」

「たまに言います」

その日、えむはよぎのSUVの助手席に乗った。

シートベルトを締め、窓の外を見て、少しだけ嬉しそうにしていた。

よぎはエンジンをかけながら思った。

この人は、自分で運転席に座ってここまで来た。

だからこそ、誰かの助手席に座ることにも、ちゃんと意味があるのだ。

二人は、よぎの行きつけの蕎麦屋へ向かった。

山の方へ車を走らせると、街の音が少しずつ遠のいていく。

田んぼの水面が光り、遠くの山にはまだ薄く雪の名残が見えた。

春と初夏の境目みたいな日だった。

店は、観光地の派手さとは無縁の、静かな蕎麦屋だった。

その時期だけの寒ざらし蕎麦と、春の山菜天ぷらを頼んだ。

冷たい水で締められた蕎麦を、えむは少しだけつゆにつけて口に運んだ。

「おいしい」

思わず言うと、よぎは嬉しそうに笑った。

「よかった」

二人は向かい合わせで、黙って蕎麦をすすった。

会話が途切れても、気まずくなかった。

えむは箸を置きながら思った。

誰かの行きつけの店に連れてきてもらうことは、その人の日常の一部に、少しだけ入れてもらうことなのかもしれない。

食後は、蔵王のお釜まで車を走らせた。

エメラルドグリーンの湖面が、雲の切れ間から差す光を受けて、静かに揺れているように見えた。

隣に立つえむは、何も言わずに景色を見ていた。

よぎも何も言わなかった。

言葉がない時間が、気まずくない。

それが嬉しかった。

旅先で一番好きな時間は、案外、説明できない沈黙だったりする。

絶景を前にして、

「すごいね」

と言う。

それで終わり。

あとは黙っている。

隣の人が同じように黙っていられるかどうか。

それは、思っているより大事なことだった。

えむとは、それができた。

帰り道、車の中でえむが、ウトウトしていた。

よぎは音楽の音量を少し下げた。

信号で止まった時、ふと彼女の横顔を見た。

疲れている。

でも、安心しているようにも見えた。

誰かが自分の車の助手席で眠ること。

それだけのことが、よぎには妙に大きかった。

以前なら、そこには妻がいた。

その記憶が胸を刺すかと思った。

でも、刺さらなかった。

ただ、静かにそこにあった。

えむが妻の記憶を消したわけではない。

妻の場所に、えむを座らせたわけでもない。

それでも、その日初めて、過去と今が同じ車の中にいても壊れないことを知った。

けれど、家に帰ると少し揺れた。

玄関は静かだった。

息子たちはそれぞれの部屋にいる。

リビングの棚には妻の写真がある。

よぎはその前で足を止めた。

「ただいま」

いつものように言った。

ダリアは少し開きすぎていた。

花びらの端が、ほんの少しだけ疲れている。

よぎは明日、また花屋へ行くのだと思った。

新しい花を買う。

二束。

それは、妻を過去に置き去りにしないための習慣だった。

そして同時に、自分が今日を生きていることを確かめるための習慣でもあった。

えむの横顔を思い出した。

車で眠っていた、少し無防備な顔。

その顔を見て、自分が幸せだと思ったことを思い出した。

胸の奥が、ちくりと痛んだ。

妻を忘れたわけではない。

忘れられるわけがない。

でも、誰かと笑いたいと思った。

誰かの今日を聞きたいと思った。

誰かに、自分の今日を話したいと思った。

それは裏切りなのだろうか。

答えは出なかった。


第六章

夜更けのサイゼリヤ

五月三十日。

集合は二十二時だった。

娘が寝たあと。

それが、えむとよぎに許された時間だった。

この頃、よぎは車中泊を覚えていた。

寝袋を車に積み、飲んだらそこで眠れるようにした。

五十二歳の男が、好きな女性に会うために車中泊を覚える。

冷静に考えると、なかなかだった。

けれど、夜の駐車場に停めた車の中で、えむを待つ時間を、よぎは少し気に入っていた。

フロントガラス越しに空を見る。

街灯の少ない場所では、星がいくつか見えた。

あと少しで会える。

その「あと少し」が、妙に幸せだった。

夜は、特別なものになった。

でも、特別な夜は、いつも普通の生活のあとにしか来なかった。

夕飯を作る。

娘にお風呂を促す。

歯磨きをさせる。

明日の持ち物を確認する。

洗濯物を干す。

ランドセルの横に給食袋を置く。

それから、絵本を読んで、電気を消す。

「ママ、まだ寝ないの?」

娘が布団の中で聞いた。

「洗い物してから寝るよ」

嘘ではなかった。

でも、全部ではなかった。

娘の寝息が安定するまで、えむは暗い部屋でじっと待った。

待っている間、胸の奥で二つの気持ちがぶつかっていた。

早く眠ってほしい。

でも、そう思う自分が嫌だった。

娘を邪魔にしているわけじゃない。

そんなことは絶対にない。

でも、よぎに会いたい。

それも本当だった。

二十時五十三分。

娘の寝かしつけに成功したえむは、よぎにLINEを送った。

寝かしつけ成功ー。
行けるよ!

すぐに返信が来た。

早い!
待ってる。

続けて写真が届いた。

サイゼリヤのテーブルの上には、すでにいくつもの皿が並んでいた。

食い散らかしてる笑

えむは笑った。

全然オッケー。
五分で着く。

五分。

たった五分なのに、心臓が急に忙しくなった。

家を出る前、玄関で一度振り返った。

娘の寝ている部屋は静かだった。

母親としての自分は、あの部屋にいる。

でも、今から外へ出る自分は、よぎに会いに行く女だった。

その二人が、同じ体の中にいる。

えむはそっと鍵を閉めた。

店に入ると、よぎは一番奥の席にいた。

エスカルゴ。

ドリア。

ワイン。

本当に食い散らかしていた。

「もう始まってますね」

「準備運動です」

その言い方に笑ってしまった。

サイゼリヤの照明は明るすぎて、恋愛には少し向いていない。

でも、二人にはちょうどよかった。

気取らなくていい。

無理しなくていい。

そのあと、二人は個室居酒屋へ移動した。

図書館で借りてきた旅行雑誌とスマートフォンを並べて、八月の旅行先を調べた。

ベトナム。

タイ。

バリ。

「バリもいいけどね」

えむが言うと、よぎの目が少し変わった。

「バリ、行ったことないんだよね」

「意外。いろんな国行ってるのに」

「一人で行く場所じゃない気がして」

その言葉を聞いた時、えむの胸の奥が少し動いた。

もしかしたら、この人は誰かと行くために、バリを残していたのかもしれない。

そんな都合のいいことを、本気で思ってしまった。

ホテルの候補を見ていた時、よぎが言った。

「バリのホテル、二部屋取りますか?」

えむは画面を見た。

答えが出せなかった。

二人はまだ恋人ではなかった。

関係性に、名前もない。

でも、もうただの知り合いではなかった。

すると、よぎが席を立った。

「ちょっとタバコ吸ってきます」

一人になった個室で、えむはグラスの氷を見つめていた。

行きたい。

この人と遠くへ行きたい。

でも、本当にいいのだろうか。

娘を置いて、自分だけ幸せになろうとしていないか。

仕事も不安定なのに。

また、誰かを信じていいのか。

グラスの中で、氷が小さく鳴った。

出発前の空港に似ている、と思った。

怖い。

でも、行きたい。

その気持ちだけが、他の全部より少し強い。

その頃、よぎは店の外で煙草に火をつけていた。

夜の空気はぬるかった。

居酒屋の看板の光が、アスファルトにぼんやり滲んでいる。

よぎは煙を吐きながら、少し後悔していた。

二部屋取りますか、なんて言い方をした。

気を遣ったつもりだった。

でも、本当は違う。

怖かったのは自分だ。

同じ部屋を選ぶことが怖かった。

そこまで進んでしまうことが怖かった。

えむを好きになっている。

もう、かなり。

認めてしまえば早いのに、認めた瞬間、亡くなった妻の顔が浮かぶ。

妻を忘れていない。

忘れるわけがない。

でも、えむに触れたいと思っている自分もいる。

その二つが、同じ胸の中にある。

よぎは煙草の火を見た。

赤く燃える先端が、少し震えていた。

誰かを好きになることは、こんなに怖かっただろうか。

若い頃は、もっと雑だった。

好きだと思えば好きだった。

会いたいと思えば会いに行った。

けれど今は、好きという言葉の後ろに、妻の写真がある。

息子たちの顔がある。

えむの娘の生活がある。

それを全部わかった上で、それでも好きだと言えるのか。

よぎは短く息を吐いた。

言えないなら、ここでやめた方がいい。

でも、やめたいとは思わなかった。

店に戻ると、えむはグラスの氷を見つめていた。

その顔を見た瞬間、よぎの中で何かが決まった。

「バリから帰ってきたら、きっと好きになってると思います」

言ったあと、違うと思った。

逃げた言い方だった。

未来の自分に責任を押しつけている。

今の気持ちを、旅行の後に先延ばししている。

よぎは少し黙って、言い直した。

「いや、違うな」

えむが顔を上げた。

「今でも、もう好きになってます」

個室の中が、急に静かになった。

廊下の足音だけが遠くに聞こえた。

えむはグラスを見た。

それから、よぎを見た。

心臓が、ゆっくりと一度だけ大きく鳴った。

えむは、自分が何を言うのか知らないまま、口を開いた。

「キスしよっか」

言ってから、驚いた。

そんな言葉を、自分が言うなんて思わなかった。

でも、言ってしまったあとで、違うとは思わなかった。

むしろ、やっと本当のことを言えた気がした。

よぎは一瞬、目を丸くした。

それから、困ったように笑った。

「えむさん、そういうところあるよね」

「どういうところですか」

「怖がってるのに、最後は急に飛ぶところ」

えむは少し笑った。

「飛ばないと、行けない時あるじゃないですか」

「あるね」

よぎが言った。

「俺も、そう思う」

店を出る頃には、夜の黒が少し薄くなっていた。

遠くの山の輪郭が、ゆっくり浮かび上がっている。

車の窓に、白み始めた空が映っていた。

何かが始まる時の朝は、こんな色をしているのかと、えむは思った。

その夜を境に、二人は恋人になった。

言葉だけではなかった。

触れたことで、ようやく信じられるものもあった。

その夜のことを細かく書く必要はない。

大切なのは、朝になっても、えむが後悔していなかったということだ。

むしろ、不思議なくらい静かだった。

身体が近づいたことで、心が置いていかれる恋もある。

でも、よぎとは違った。

触れられるたびに、自分の輪郭が少しずつ戻ってくるような気がした。

誰かのために我慢する身体ではなく。

誰かに値踏みされる身体でもなく。

ちゃんと自分のものとして、そこにある身体。

よぎの腕の中で、えむは初めて、自分が安心して力を抜いていることに気づいた。

よぎもまた、同じだった。

愛する人を失ってから、誰かに触れることは、ずっと遠い出来事だった。

罪悪感がなかったと言えば嘘になる。

でも、えむを抱きしめた時、そこにあったのは過去への裏切りではなかった。

今を生きている二人が、互いの温度を確かめ合う、静かな肯定だった。

翌朝、えむはLINEを送った。

昨日は夢のような時間だった。
これから、楽しいことや嬉しいこと、一緒に素敵な時間を過ごしていきたいな。
よろしくお願いします。

送信してから、顔が熱くなった。

その日の午後、またよぎにLINEを送った。

十六時頃、会えますか?

送ってから、自分で少し笑ってしまった。

十二時間前まで一緒にいたのに。

また会いたい。

なんなの、これ。

恋って、こんなに人を落ち着かなくさせるものだっただろうか。

それとも、ずっと忘れていただけなのだろうか。

その日の正午、よぎは週末の日課にしているサウナへ向かった。

熱い部屋で汗をかき、水風呂に入り、外気浴で目を閉じる。

いつもなら、それで余計なものが落ちる。

けれど、その日のサウナは違った。

汗は出た。

水風呂も冷たかった。

外気浴の風も気持ちよかった。

それなのに、心臓が落ち着かなかった。

どくん。

どくん。

胸の奥で、知らないビートが鳴っている。

昨夜の個室居酒屋。

えむの声。

「今でも、もう好きになってます」

「キスしよっか」

その言葉が、湯気みたいに何度も立ち上がってくる。

よぎは目を閉じたまま、少しだけ笑った。

整わない。

まったく整わない。

五十二歳にもなって、サウナで恋に邪魔されている。

どうかしている。

でも、そのどうかしている感じを、どこかで嬉しいと思っている自分がいた。

妻を亡くしてから、よぎの心臓は生活のために動いていた。

弁当を作るため。
仕事へ行くため。
息子たちを育てるため。
花屋へ行くため。
毎日を続けるため。

けれど今、心臓は別の理由で勝手に忙しくなっている。

誰かに会いたい。

声が聞きたい。

触れたことを思い出してしまう。

これが恋なのか。

久しぶりすぎて、扱い方を忘れていた。

その日、よぎは初めて、整わないサウナを経験した。

悪くないな、と思った。

十六時。

二人は待ち合わせをした。

向かったのは、縁結びに御利益があるという観音様を祀るお寺だった。

恋人になって、まだ一日も経っていない。

それなのに、二人でお参りに行くことが、ひどく自然に思えた。

お参りを終えたあと、二人でおみくじを引いた。

先によぎが開いた。

大吉だった。

恋愛の欄には、こう書いてあった。

愛を捧げよ倖せあり

えむは思わず笑った。

「神様、見てた?」

次に、えむがおみくじを開いた。

小吉だった。

恋愛の欄を見て、固まった。

そこには、こう書いてあった。

この人を逃すな

あまりにまっすぐで、少し怖いくらいだった。

神様に、全部見透かされた気がした。

えむはおみくじを見つめたまま、笑って言った。

「首輪つけとこっかな」

と言いながら、隣にいるよぎを、さりげなく大切に想った。


第七章

最後の恋だから

恋人になったのは、五月三十日の夜だった。

正確に言えば、日付は三十一日に近かった。

翌日、電話で話している時、えむがふと聞いた。

「これって、記念日いつになるんですかね」

よぎは少し考えてから言った。

「三十日にしようよ」

「三十日?」

「うん。三十一日だと、月によってはないでしょう」

「たしかに」

「記念日に花を贈れない月があるの、ちょっと嫌だなと思って」

えむは、その言葉をしばらく黙って聞いていた。

花。

よぎの家には、いつも花がある。

亡くなった妻の写真の前に。

毎週末、二束の花を買う。

水を替え、茎を切り、弱った花を抜く。

忘れたわけではない。

ただ、悲しみの形が、少しずつ日常に溶けていっただけだった。

だから、よぎが「花を贈れない月があるのは嫌だ」と言った時、えむは少しだけわかった気がした。

この人にとって花は、大切な人を大切に思い続けるための、小さな約束なのだ。

「じゃあ、三十日ですね」

えむが言った。

「うん」

よぎが答えた。

「五月三十日」

その日付が、二人の間に静かに置かれた。

恋人になったからといって、日常が劇的に変わるわけではなかった。

朝はいつも通り、娘を起こす。

布団にもぐる娘を何度も呼び、朝ごはんを出し、髪を結び、連絡帳を確認する。

洗濯機を回しながら、自分の支度をする。

鏡の前に立つと、少しだけ顔が違って見えた。

肌が急に綺麗になったわけでも、痩せたわけでもない。

でも、目の奥に何かが灯っていた。

恋をしている顔。

そう思った瞬間、恥ずかしくなって目を逸らした。

その変化に、本人より先に気づいたのは娘だった。

ある夜、えむがスマートフォンを見ながら笑っていると、娘が布団の中から顔だけ出して言った。

「ママ、スマホ見ながらニヤニヤしてて気持ち悪い」

えむは思わず画面を伏せた。

「気持ち悪いって言わないの」

「だってニヤニヤしてるもん」

その言い方があまりに冷静で、えむは笑ってしまった。

年甲斐もなく。

そう思う自分もいた。

でも、恋をするというのは、どうやら年齢に関係なく、少し気持ち悪い顔になることらしい。

恋をしているのは、えむだけではなかった。

よぎの日常も、少しずつ変わっていた。

仕事帰りにスーパーへ寄る。

息子たちの弁当のおかずや、牛乳や麦茶を買う。

いつもの買い物のはずなのに、最近は陳列棚の前で足が止まることが増えた。

見慣れないチーズ。
季節限定のチョコレート。
地元の小さな店が作った瓶詰め。

前なら通り過ぎていたものを見て、ふと思う。

これ、えむさん好きかな。

次に会う時に持っていったら、喜ぶだろうか。

そう考えている自分に気づいて、よぎは少し笑ってしまう。

恋というのは、スーパーの陳列棚の前で相手の顔を思い浮かべることでもあるらしい。

六月二日の朝。

えむはLINEで打った。

最後の恋だから。

打ってから、しばらく送れなかった。

最後。

その言葉には、終わりの匂いがある。

でも、えむにとっては祈りに近かった。

もう間違えたくない。

もう、自分をすり減らす恋はしたくない。

娘の前で泣く夜も、誰かの顔色を見て息をする生活も、もうたくさんだった。

これが最後であってほしい。

最後にしたいと思える人であってほしい。

そう思って、送信した。

少しして、返信が来た。

最後の恋って言うと悲壮感あるから、濁点取って、「う」つけちゃおうよ。
俺はえむさんと、さいこうの恋にするよ。

画面を見た。

一度読んだ。

もう一度読んだ。

意味がわかった瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

最後、じゃない。

終わりじゃない。

この人は、えむの言葉を否定しなかった。

ただ、少しだけ向きを変えてくれた。

泣きながら笑った。

最後の恋が、さいこうの恋になる。

たった一文字の操作で、背負っていた重さがふっと軽くなった。

よぎはそのLINEを送ったあと、しばらくスマートフォンを見つめていた。

自分で送っておいて、少し怖くなった。

言い切ってしまった。

言葉は、時々、自分の覚悟より先に外へ出る。

送ってから、あとで追いつくしかないことがある。

よぎはリビングの棚を見た。

妻の写真がある。

写真の前には、週末に買った二束のダリア。

花びらは明るく開いている。

「さいこうの恋にするよ、だってさ」

小さく呟いた。

自分で少し笑った。

五十二歳の男が、何を言っているのだろう。

でも、笑いながら胸の奥が痛んだ。

妻との恋は、なんだったのだろう。

最高ではなかったのか。

そんなふうに比べるものではないと、頭ではわかっていた。

でも、言葉は時々、人を不意打ちする。

あの時の最高があった。

そして今、別の最高を作ろうとしている。

ダリアの水を替えながら、よぎはようやくその二つを同じ棚に置ける気がした。

六月六日。

二人はマッチングアプリを退会した。

退会完了メールには、こう書いてあった。

幸せ退会おめでとうございます。

定型文だ。

たぶん、誰にでも送られている。

それでも、その時の二人には、ちゃんと祝福に見えた。

もう探さなくていい。

その事実が、二人を少しだけ現実にした。

恋人になってから、二人の夜は通話でつながるようになった。

えむは娘の寝かしつけが終わったあと。

よぎは家事を終え、台所を片づけ、グラスに氷を入れたあと。

どちらともなく、電話をかけた。

短くても一時間。

気づけば二時間。

日付をまたぐことも、しばしばあった。

話すことはいくらでもあった。

今日の仕事のこと。

娘の宿題のこと。

息子たちの弁当のこと。

さくらんぼの機嫌。

夕飯の残り。

旅行のこと。

どうでもいい冗談。

どうでもいい話ほど、二人には必要だった。

ある夜のことだった。

よぎはハイボールを飲みながら、スマートフォン越しにえむと話していた。

笑いすぎて、氷が溶けかけていた。

その時、二階から階段を降りてくる音がした。

次男だった。

「ねー、パパ。明日の書類に名前書いてほしいんだけど」

よぎは一瞬、スマートフォンを口元から離した。

今は無理だから、テーブルに置いておいて。

声に出さず、手でそう合図した。

息子の存在をえむに隠しているわけではない。

もちろん、隠すつもりなんてない。

それなのに、なぜか反射的にそうしてしまった。

恋人と話している父親の顔を、息子に見られるのが照れくさかったのかもしれない。

あるいは、父親の生活の中に恋が入ってきたことを、自分自身がまだうまく扱えていなかったのかもしれない。

次男は不満そうに眉を寄せたが、書類をテーブルに置いて二階へ戻っていった。

スマートフォンの向こうで、えむが笑った。

「息子君かな?」

察しがいい。

よぎは苦笑した。

「うん。なんか書類書いてって持ってきた」

「お互いあるよね、そういうの」

えむの声は、優しかった。

「ちょっとめんどくさいよね」

二人で笑った。

めんどくさい。

でも、それが生活だった。

恋をしていても、書類は書かなければならない。

娘は寝かしつけなければならない。
弁当箱は洗わなければならない。
明日の予定は確認しなければならない。

それでも、その隙間に電話をする。

その隙間で笑う。

二人は、そういう時間を少しずつ覚えていった。


第八章

彼女の、えむさん

その少し後、二人は昼から酒を飲んだ。

五月三十日の夜以来だった。

あの夜、二人は恋人になった。

だからその日飲む酒は、同じハイボールでも少し違っていた。

関係に名前がついてから、初めて一緒に飲む酒だった。

待ち合わせは、えむの家の近くの駅。

午後三時半。

まだ空は明るかった。

一つ隣の駅まで電車で向かい、改札を出ると、二人は自然に手をつないだ。

昼間の駅前で手をつなぐことが、こんなに照れくさいとは思わなかった。

行こうと決めていた昼飲みの店は、臨時休業だった。

扉の貼り紙を見て、二人はしばらく黙った。

「まじか」

「まじですね」

予定通りにいかないことには、二人とも慣れていた。

旅でも、人生でも、恋でも。

よぎは知り合いの飲食店主に電話をかけた。

「もしもし。今日、お店開けてる?」

電話の向こうで、友人は言った。

「今日は近くの居酒屋でイベント出店してます。来ますか?」

二人は顔を見合わせた。

行く理由としては、それだけで十分だった。

初めて訪れる居酒屋からは、ロカビリー調の音楽が大きく流れていた。

店内ではライブとDJ。

屋外では、友人のSがタープを張り、肉を焼いて売っていた。

二人はハイボールを頼んだ。

出てきたグラスを一口飲んで、よぎは笑った。

頼んでもいないのに、デフォルトで濃い。
最高じゃないか。

「こういうのって、山形じゃ味わえないんだろうなって思ってた」

えむはハイボールを片手に、少し目を輝かせていた。

「すごい楽しいね。どっか来たみたい」

その顔を見て、よぎは嬉しくなった。

旅は、遠くへ行くことだけではない。
知らない音楽が流れていて、知らない人たちが笑っていて、昼間から濃いハイボールを飲んで、隣に好きな人がいる。

それだけで、いつもの町は少し遠くなる。

よぎはSにえむを紹介した。

「彼女の、えむさん」

言ってから、胸の奥が少しだけ熱くなった。

彼女。

その言葉を、誰かに向けて口にする日がまた来るなんて、少し前のよぎには想像できなかった。

Sはえむを見て、すぐに笑った。

「よぎさん、めちゃくちゃ羨ましいです」

えむは照れたように笑った。
よぎは、少しだけ得意になった。

日が傾き始めた頃、予約していたスペイン料理のバルへ移動した。

もう、しっかり飲んでいた。
焼いた肉も食べていた。

だから、夕暮れのテラス席では、白ワインのボトルとピンチョスくらいがちょうどよかった。

空はゆっくり青から藍へ変わっていく。

通りの向こうで、店の明かりが一つずつ灯り始める。

えむはグラスを持ったまま、ふいに言った。

「私、山形に娘と引っ越してから、恋とかそういうの諦めてたんです」

よぎは黙って聞いた。

「でも、よぎさんに出会えて、本当によかったって思ってます」

えむは少し笑った。

酔っている。

でも、言葉はまっすぐだった。

「もう、今じゃ止められないくらい好きになってる。なんなの、ほんとに笑」

その笑い方が、あまりに無防備で、よぎは胸をつかまれた。

「俺も同じですよ」

よぎは言った。

「俺も、もう結婚も経験したし、重い過去もあるし、恋人とか、そういうのはもう無理だと思ってた。受け止めてくれて、理解してくれる女性なんて、もう現れないと思ってた」

えむは静かに聞いていた。

「でも、えむさんに会った」

よぎは少しだけ笑った。

「たぶん、好きの熱量で言ったら、俺の方が勝ってると思う」

えむはすぐに首を振った。

「私の方が圧勝」

「圧勝?」

「規模で言ったら宇宙」

よぎは吹き出した。

四十代と五十代の、分別のあるはずの大人が、まるで二十代のカップルみたいに好きの大きさを競っている。

ばかみたいだった。

でも、ばかみたいなことを本気で言える相手に出会えたことが、たまらなく幸せだった。

帰る頃、店に頼んでタクシーを呼んでもらった。

少し待っている間、二人は店の外で並んで立った。

夜風が気持ちよかった。

えむは、よぎの腕に少しだけ寄りかかった。

「楽しかったね」

「楽しかった」

「また飲もうね」

「何回でも」

タクシーのライトが、遠くから近づいてきた。

この人の隣で、私は少しずつ力を抜いている。

えむはそう思った。

それは、指輪と同じくらい大切な変化だった。


第九章

アイスコーヒーとレモンジュース

ある土曜日、えむは娘のバレエ教室の帰りに、二人でコンビニに寄った。

アイスを買って、駐車場の車の中で食べた。

娘は助手席で、期間限定のチョコアイスを慎重にかじっていた。

えむはカップのバニラを少しずつすくった。

「ママさ」

娘が前を向いたまま言った。

「最近、前より笑うね」

スプーンを持つ手が止まった。

「そうかな」

「うん」

娘は少し考えてから、続けた。

「前は、笑ってても、目が疲れてた」

小学二年生の言葉とは思えないくらい、静かな声だった。

えむは何も言えなかった。

この子は見ていたのだ。

平気なふりをしていた夜も。

大丈夫だよと笑いながら、台所で深く息を吐いていた朝も。

離婚が終わったあとも、まだ何かに怯えていたことも。

全部、見ていたのだ。

「ママが楽しそうだと、私もちょっと安心する」

娘はそれだけ言って、またアイスをかじった。

泣きそうになった。

でも、ここで泣いたら娘を困らせる気がして、えむは笑った。

「そっか」

「うん」

「じゃあ、ママ、ちゃんと楽しそうにしてようかな」

「へんな顔はやめてね」

「それは努力する」

娘が笑った。

えむも笑った。

その時、胸の奥で何かが少しだけ変わった。

娘のために、自分の幸せを全部しまい込むことが母親なのだと思っていた。

でも、もしかしたら違うのかもしれない。

自分がちゃんと笑っていることも、娘にとっては生活の一部なのかもしれない。

六月十四日。

えむは朝九時からクリニックに行くと言った。

そのクリニックは、よぎの家から歩いて五分ほどの距離にあった。

近い。

近すぎるくらい近い。

でも、会えるとは限らない。

その日は、えむの両親がさくらんぼに追われていた。

娘を家に置いていくわけにはいかず、えむは娘を連れてクリニックへ向かうことになった。

よぎは、自宅で朝の家事をしていた。

洗濯機を回す。
食器を片づける。
息子たちの水筒を洗う。
冷蔵庫の中を確認する。

それから、花瓶の水を替えた。

妻の写真の前のダリアは、まだ明るかった。

けれど、数本は首を少し傾けていた。

よぎは傷んだ花を抜き、茎を切り直した。

花屋へは、家事が終わったら行こうと思った。

毎週末、二束。

妻のための習慣。

でも、その朝は少しだけ違っていた。

スマートフォンが震えた。

終わりました。
ちょっとだけ寄りますね。

よぎは画面を見て、思わず立ち上がった。

アイスコーヒー仕込んで待ってます。

送信してから、少しだけ焦った。

家は片づいていただろうか。

テーブルの上に変なものは出ていないか。

息子たちの脱ぎっぱなしの靴下はないか。

五十二歳の男が、急に部屋を見回している。

自分で少し笑った。

しばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。

よぎは深呼吸して、ドアを開けた。

そこに、えむがいた。

そして、その後ろに、小さなえむがいた。

娘だった。

よぎは一瞬、言葉を失った。

えむのテリトリーには、何となく踏み込んではいけない気がしていた。

娘さんのことも、もちろん話には聞いていた。

大切な存在だということもわかっていた。

だからこそ、勝手に近づいてはいけないと思っていた。

その娘さんが、今、玄関の前に立っている。

えむに少し似た目で、こちらを見ていた。

「おはようございます」

娘が言った。

「おはよう。いい朝だね」

よぎは、少しだけ背筋を伸ばして答えた。

大人同士の初対面より、よほど緊張した。

リビングで、えむとよぎはアイスコーヒーを飲んだ。

娘にはレモンジュースを出した。

娘は最初、少しだけよそよそしかった。

でも、グラスを両手で持ち、ストローをくわえる頃には、部屋の中を遠慮なく見回していた。

子どもというのは、変に勘がいい。

大人が隠したつもりの空気を、どこかでちゃんと感じ取っている。

娘の視線が、リビングの棚で止まった。

妻の写真。

その前のダリア。

よぎは一瞬、息を止めた。

何か聞かれるかもしれないと思った。

でも、娘は何も聞かなかった。

ただ少しだけ見て、それからレモンジュースに視線を戻した。

その沈黙に、よぎは救われた。

そして、少しだけ怖くもなった。

子どもは、何も知らないようで、何かを知っている。

しばらく他愛もない話をした。

学校のこと。

好きな飲み物のこと。

山形の暑さのこと。

娘は受け答えがしっかりしていた。

時々、えむと同じような顔をした。

それを見るたび、よぎは胸の奥が少し温かくなった。

「ねぇ、帰りにさ」

えむが娘に言った。

「この前もらったバジルのお煎餅、買って帰ろうか?」

娘の目がぱっと動いた。

「えっ、あの美味しかったお煎餅、もらったの?」

よぎとえむは、同じ顔をして目を合わせた。

それは、二回目に会った時によぎが近くのお煎餅屋で手土産として渡したものだった。

えむの家の中に、自分が渡したものがあった。

そして、それを娘が食べていた。

その事実が、妙に生々しかった。

えむは一瞬だけ言葉に詰まった。

「う、うん。そう。もらったの」

娘はストローをくわえたまま、少しだけ目を細めた。

「ふーん」

なんとも言えない沈黙が落ちた。

よぎはアイスコーヒーを飲むふりをした。

えむもグラスを持った。

たぶん、二人とも同じことを思っていた。

子どもは、何も知らないようで、何かを知っている。

それでも、その沈黙は嫌なものではなかった。

少し照れくさくて、少し可笑しくて、少しだけ未来の匂いがした。

二時間ほど、三人で過ごした。

特別なことは何もしていない。

アイスコーヒーを飲んで。

レモンジュースを飲んで。

くだらない話をして。

時々、娘が部屋の中のものに反応して。

えむがそれをたしなめて。

よぎが笑う。

それだけだった。

でも、よぎにとっては大きな時間だった。

えむの恋人として会ったのではなく、えむの生活の端に、少しだけ立たせてもらった気がした。

帰り際、娘は玄関で靴を履きながら言った。

「おじゃましました」

「またね」

よぎは自然にそう言いかけて、少しだけ言葉を止めた。

また、なんて簡単に言っていいのだろうか。

でも娘は、あっさり言った。

「またね」

ドアが閉まったあと、よぎはしばらく玄関に立っていた。

アイスコーヒーのグラスが、リビングのテーブルに二つ。

レモンジュースのグラスが一つ。

そして、棚には妻の写真と、明るいダリア。

違う時間が、同じ部屋に並んでいた。

その日の夕方、えむからLINEが来た。

帰ってから娘に、次はいつよぎさんのとこ行くの?って聞かれました。

よぎはその文面を何度も読んだ。

嬉しかった。

でも、怖くもあった。

子どもの世界に入るということは、恋人同士だけの約束とは違う。

責任がある。

慎重でなければならない。

それでも、嬉しかった。

よぎはしばらく考えて、返信した。

いつでも。
でも、ゆっくりで。

それが、今の二人にはちょうどよかった。

その数日後。

よぎの家でも、小さな会話があった。

夕飯のあと、長男が冷蔵庫を開けながら、ふいに言った。

「最近、楽しそうだよね」

よぎは炭酸水を取り出しかけた手を止めた。

「そう?」

「うん。前よりしゃべるし」

長男はペットボトルの麦茶をコップに注ぎながら、こちらを見なかった。

「変?」

そう聞くと、長男は少し考えるようにしてから言った。

「別に。いいんじゃない」

「いいんじゃないって?」

「ママのこと忘れたわけじゃないなら、別にいいんじゃない」

それだけ言って、長男はコップを持って二階へ上がっていった。

よぎはしばらく、冷蔵庫の前に立っていた。

胸の奥を、何かが静かに通り過ぎた。

許された、とは違う。

子どもに許可をもらう話ではない。

でも、息子は見ていた。

父親が笑うことを。

迷うことを。

亡くなった妻の写真から、少しだけ目を逸らしてしまうことも。

それでも、いいんじゃない、と言った。

その言葉は、思ったより重かった。

そして、思ったより優しかった。


第十章

文明の音がしない場所

さくらんぼの季節は、えむの時間を細切れにした。

朝から両親は果樹園に出る。

収穫。
選別。
箱詰め。
発送。

家の中にも、外にも、赤い実の気配があった。

誰かが動いている。

誰かが焦っている。

誰かが疲れている。

それでも夕方頃になると、ふっとえむの時間が空くことがあった。

完全な自由ではない。

一日中好きに出かけられるわけでもない。

せいぜい二時間。

けれど、その二時間が、二人には宝石みたいだった。

その日、よぎはサウナから帰ってきたところだった。

髪をタオルで拭きながら、冷蔵庫から炭酸水を出す。

スマートフォンが震えた。

十六時頃から二時間くらい会えそうです。

たった二時間。

でも、えむの声が電波を通さずに聞こえる時間を、無駄にすることなんて考えられなかった。

よぎはすぐに返信した。

迎えに行きます。

待ち合わせ場所に着くと、えむはすでに立っていた。

少し疲れた顔をしている。

でも、よぎを見つけると、目だけがぱっと明るくなった。

その変化を見るだけで、胸がいっぱいになった。

「お待たせ」

「全然」

よぎは助手席のドアを開けた。

「どうぞ」

「お招きされました」

えむは少し笑って、助手席に乗り込んだ。

「どこ行こうか?」

「行ったことないけど、ダムあるみたいよ」

「ダム?」

「うん。車で二十分くらい」

「じゃあ、文明を離れに行きますか」

「大げさ」

二人で笑って、車を走らせた。

街を抜けると、景色はすぐに山へ変わった。

田んぼの緑が濃くなり、道は少しずつ細くなる。

窓を少し開けると、湿った土と草の匂いが入ってきた。

二十分ほど走ると、山の上のダムに着いた。

緑に囲まれた水面は、午後の光を鈍く返していた。

標高が少し高いせいか、風が涼しい。

駐車場には、他に車がなかった。

二人は、誰もいないベンチに並んで腰をかけた。

目の前には水。

その向こうに山。

鳥の声。

虫の音。

風が木の葉を揺らす音。

それ以外、何も聞こえなかった。

「静かだね」

えむが言った。

「文明の音がしない世界っていいよね」

よぎが言うと、えむはすぐに微笑んだ。

「わかる」

その一言だけで、十分だった。

あんなに通話では長く話せるのに。

一時間でも二時間でも、日付をまたいでも、話すことが尽きないのに。

隣にいられるという温もりだけで、言葉はいらなかった。

肩が触れそうで、触れない距離。

風に揺れる髪。

えむが水面を見る横顔。

よぎは何かを言おうとして、やめた。

言葉にすると、壊れる時間がある。

そのままにしておく方が、ずっと残るものがある。

しばらくして、えむのスマートフォンが震えた。

画面を見た瞬間、えむの表情が母親のものに戻った。

「娘さん?」

よぎが聞いた。

「うん。母から。宿題のことで、ちょっと揉めてるみたい」

えむは苦笑した。

画面には、母からの短いメッセージが並んでいた。

宿題をやらない。
音読カードが見つからない。
えむ、どこに置いたかわかる?

ダムの静けさに、生活が小さく割り込んできた。

えむはすぐに返信を打った。

ランドセルの内ポケットに入ってると思う。
音読は一ページだけで大丈夫って伝えて。

送信して、少し息を吐いた。

「ごめんね」

「謝ることじゃないよ」

よぎは言った。

えむはスマートフォンを伏せた。

「こういうの、どこにいても追いかけてくるね」

その声には、疲れと愛しさが同じくらい混じっていた。

よぎは、えむの横顔を見た。

この人は、ここにいても、家の中の音を背負っている。

娘の宿題。
母の焦り。
明日の準備。
さくらんぼの空気。

二時間だけ文明を離れたつもりでも、生活は完全には離れてくれない。

よぎ自身も同じだった。

息子たちの夕飯。
洗濯物。
妻の写真の前の花。
明日の弁当。

恋だけで人は遠くへ行けない。

それでも、こうして二人で少しだけ遠くを見る時間がある。

それは、逃避ではなかった。

生活へ戻るための、短い呼吸だった。

「戻らなきゃ、かな」

よぎが言うと、えむは水面を見たまま言った。

「あと五分だけ」

「うん」

二人はもう一度、水面を見た。

さっきよりも、風の音がはっきり聞こえた。

五分。

本当に短い時間だった。

それでも、えむはその五分を大事そうに抱えていた。

やがて、スマートフォンの時計を見たえむが、小さく肩を落とした。

「早い」

「早いね」

「二時間って、こんな短かったっけ」

「えむさんといると、だいぶ短い」

「ずるいこと言う」

「本当のことです」

えむは笑った。

その笑顔が、夕方の光の中で少し眩しかった。

帰り道、車の中で二人はあまり話さなかった。

沈黙は、もう寂しさではなかった。

同じ景色を見ていることの、静かな証明だった。

町に近づくにつれて、信号の音、車の音、店の看板が少しずつ戻ってくる。

文明の音が、ゆっくりと二人を迎えにくる。

えむは助手席でスマートフォンを確認した。

「音読カード、あったって」

「よかった」

「宿題も、一ページだけやったらしい」

「大勝利じゃないですか」

「大勝利」

二人で笑った。

ダムで聞いた風の音も。

ランドセルの内ポケットにあった音読カードも。

どちらも、えむの今日だった。

そのどちらかを捨てる必要はない。

二時間しかなかった。

けれどその二時間で、風の匂いも、水面の色も、生活へ戻っていく車の音も、よぎの中にちゃんと残った。

週末の夕飯の支度までの残りの時間を、少しだけ明るくするには、それで十分だった。


第十一章

指輪のない左手

バリ島行きの話が出たのは、浮かれていたからだけではなかった。

もちろん、浮かれてはいた。

恋人になったばかりの二人は、少しどうかしていた。

毎朝、

おはよう

と、

大好き

が行き交い、夜には通話が一時間、二時間と続く。

話題は尽きなかった。

娘のこと。
息子たちのこと。
仕事のこと。
今日食べたもののこと。
さくらんぼの忙しさ。
次に会える日。

そして、いつか一緒に行きたい場所。

よぎは言った。

「バリ、行ったことないんだよね」

えむは意外だった。

よぎは二十二カ国を旅している。

インドには八回も行っている。

それなのに、バリには行っていない。

「一人で行く場所じゃない気がして」

そう言った時、えむの胸の奥が少しだけ熱くなった。

誰かと行くために残されていた場所。

そう思った瞬間、えむはよぎのタージマハルの話を思い出した。

妻と見るために取っておいた場所。

取っておいたまま、叶わなくなってしまった場所。

地図の上にも、人生の中にも、そういう場所はあるのかもしれない。

えむは、自分の左手を思った。

けれど、大人の恋は、都合のいい解釈だけでは進めない。

えむには娘がいる。

よぎには息子たちがいる。

仕事もある。

お金もかかる。

家族に言わなければいけないこともある。

若い頃のように、来週行こう、で済む話ではない。

それでも、調べ始めると、旅は急に現実になる。

成田からデンパサール。

ホテル。

空港までの移動。

娘を預ける日程。

息子たちの予定。

仕事の調整。

一つずつ確認していくと、無理ではなかった。

やれない理由を潰していく。

その事実が、二人を少し大胆にした。

ある夜、よぎからスクリーンショットが送られてきた。

航空券の予約画面だった。

残り五席。
買っちゃう?

えむは画面を見つめた。

残り五席。

その文字が、妙に生々しかった。

人生には時々、選択肢が目の前で数字になる瞬間がある。

まだ間に合う。

でも、迷っているうちに消えるかもしれない。

娘の予定は確認した。

母にも頼めそうだった。

仕事は、正直に言えば揺れていた。

この先ずっと、今の働き方を続けるのか。

安定を手放す日が来るのか。

そんな不安は、いつも頭の隅にあった。

シングルマザーが未来にお金を使うことは、簡単なことではない。

楽しみのためにお金を使うたびに、小さな罪悪感が顔を出す。

娘のために残しておくべきではないか。

もっと堅実でいるべきではないか。

そういう声は、いつもえむの中にあった。

それでも、行けない理由を探している自分より、行ける可能性を見つめている自分の方が、少しだけ好きだった。

えむは返信した。

買っちゃお。

慎重に考えていたはずなのに、最後の一歩は驚くほど短かった。

予約完了画面が届いた時、えむは笑ってしまった。

たった数分で、八月に未来ができた。

その未来は、海の向こうにあった。

それから二人は、バリで何をするかを話し始めた。

海。
ホテル。
サンセット。
市場。
ローカルフード。

そして、おそろいの指輪。

その夜、えむはリビングでスマートフォンを見ていた。

画面には、バリのアクセサリーショップの写真が並んでいる。

シルバーの指輪。

小さな石のついた指輪。

波の模様が入った指輪。

どれも高価なものではなかった。

でも、どれも少しだけ眩しかった。

娘は宿題を終えて、床に寝転がりながら本を読んでいた。

えむは画面をスクロールしながら、無意識に口元が緩んでいたらしい。

「ママ」

娘が言った。

「なに?」

「それ、なに見てるの?」

えむは一瞬、スマートフォンを伏せそうになった。

でも、隠すほどのことでもない。

そう思い直して、画面を少しだけ見せた。

「指輪」

娘は起き上がった。

「ママ、指輪買うの?」

「まだ決めてないよ。見てるだけ」

「誰と?」

その聞き方が、少しまっすぐだった。

えむは答える前に、ほんの少しだけ間を置いた。

「よぎさんと」

娘はしばらく画面を見ていた。

それから、えむの左手を見た。

「ママ、結婚するの?」

胸の奥が、静かに跳ねた。

えむはすぐに答えられなかった。

「まだ、そういうのじゃないよ」

「じゃあ、なんで指輪買うの?」

責めている声ではなかった。

ただ、本当にわからないという声だった。

だからこそ、えむは困った。

「好きな人と、おそろいのものを持ちたいって思うことがあるんだよ」

言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。

娘は眉を寄せた。

「ふうん」

それだけ言って、また本に目を戻した。

終わった。

そう思った。

けれど、数分後、娘はもう一度言った。

「ママがよぎさんのこと好きになったらさ」

えむは顔を上げた。

「うん」

「私はどうなるの?」

その一言で、部屋の空気が変わった。

えむはスマートフォンを置いた。

「どうなるって?」

「ママがよぎさんのことばっかり好きになったら、私はどうなるの?」

娘は泣いていなかった。

怒ってもいなかった。

でも、その目は不安そうだった。

えむはすぐに、

「そんなことないよ」

と言いかけた。

けれど、その言葉だけでは足りない気がした。

大人はよく、子どもに安心してほしくて、簡単な言葉を渡す。

大丈夫。

変わらないよ。

心配しないで。

でも、子どもはたぶん、それだけでは信じられない。

えむは娘の隣に座った。

「ママはね」

ゆっくり言った。

「あなたのママであることは、何があっても変わらない」

娘は黙っていた。

「よぎさんのことを好きでも、それは変わらない」

「でも、ママ、最近スマホばっか見てる」

胸が痛かった。

見ている。

この子は、ちゃんと見ている。

「そうだね」

えむは認めた。

「ごめん。寂しかった?」

娘は少しだけ唇を尖らせた。

「ちょっと」

その「ちょっと」は、たぶん「かなり」だった。

えむは娘の髪に触れた。

「教えてくれてありがとう」

「怒らないの?」

「怒らないよ」

「ママ、よぎさんのこと言うと、ちょっとへんな顔するから」

えむは笑いそうになって、でも笑わなかった。

たしかに、変な顔をしていたのだと思う。

恋をしている顔。

母親として見られるには、少し照れくさい顔。

「ママね」

えむは言った。

「あなたに寂しい思いをさせたいわけじゃない。でも、ママも、誰かを好きになって嬉しいって思う気持ちを、なかったことにはしたくない」

娘は難しそうな顔をした。

「むずかしい」

「うん。難しいね」

「ママもわかんないの?」

「全部はわかんない」

えむがそう言うと、娘は少し驚いた顔をした。

大人がわからないと言うことは、子どもにとって少し怖いことかもしれない。

でも、嘘をつくよりはいいと思った。

「でも、ひとつだけわかる」

「なに?」

「ママは、あなたを置いてどこかへ行ったりしない」

娘はしばらく黙っていた。

それから、小さく言った。

「じゃあ、スマホ見てニヤニヤする時は、私にもアイス買って」

えむは少し笑った。

「それ、交換条件?」

「うん」

「高くない?」

「高いよ」

娘はようやく少し笑った。

えむは胸の奥が熱くなった。

許されたわけではない。

理解されたわけでも、きっとない。

でも、娘は自分の不安を言葉にしてくれた。

それは、えむにとって、とても大きなことだった。

その夜、娘が眠ったあと、えむはしばらく左手を見ていた。

薬指には何もない。

でも、その空白はもう、自分一人だけのものではなかった。

娘の不安も。

自分の願いも。

よぎへの気持ちも。

全部を乗せた場所になっていた。

指輪。

その言葉に触れるたび、胸の奥に古い痛みが戻ってくる。

前の結婚で、えむは指輪をもらわなかった。

結婚式もなかった。

ウェディングフォトも撮らなかった。

その時は、それでいいと思おうとしていた。

お腹には娘がいた。

生活を整えることの方が先だった。

形にこだわっている場合ではないと、自分に言い聞かせていた。

でも本当は、少しだけ寂しかった。

誰かに選ばれて、祝福されて、綺麗だねと言われる日を、心のどこかで夢見ていた。

それを欲しがることさえ、自分には贅沢な気がしていた。

前の結婚生活で、何度か指輪の話をしたことがある。

最初は冗談みたいに。

「指輪、いつか見に行けたらいいね」

そう言った私に、返ってきたのは曖昧な笑いだった。

その後、現実的な事情や、お金のことや、タイミングの悪さが重なって、話はいつも流れた。

えむはいつの間にか、自分からその話をしなくなった。

ほしいと言って叶わなかった時、自分がもっと惨めになる気がした。

だから、いらないふりをした。

平気なふりをした。

左手に何もないことを、自分で納得したふりをした。

それでも、スーパーのレジで、前に並ぶ女性の薬指が光っているのを見た時。

保育園の行事で、ほかのお母さんたちの左手が目に入った時。

ほんの一瞬だけ、胸の奥が冷たくなることがあった。

そのたびに、えむは娘の手を握り直した。

私にはこの子がいる。

それで十分。

そう思うことで、諦めたものを見ないようにしていた。

よぎは、そんなえむの沈黙に気づいた。

通話の向こうで、少し声を落とした。

「指輪、嫌だった?」

「嫌じゃない」

えむはすぐに言った。

「嫌じゃない。むしろ……嬉しい」

「うん」

「でも、嬉しいって思うのが、ちょっと怖い」

電話の向こうで、よぎは黙った。

すぐに励まさない。

その沈黙が、えむは好きだった。

「前の時、指輪なくて」

自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。

「式もなくて、写真もなくて。まあ、そういう感じだったから」

軽く言ったつもりだった。

でも、声のどこかが少しだけ震えた。

「平気なふりしてたんだけど、本当はたぶん、欲しかったんだと思う」

言ってしまうと、胸の奥が熱くなった。

ほしかった。

たったそれだけの言葉を、何年も言えなかった。

よぎは、しばらく何も言わなかった。

それから、ゆっくり言った。

「そっか」

短い返事だった。

でも、その「そっか」の中に、たくさんのものがあった。

「じゃあ、ちゃんと選ぼう」

よぎが言った。

「高いやつじゃなくていい。バリで、二人で。えむさんがちゃんと、これがいいって思えるやつ」

その言葉に、えむは涙が出そうになった。

高価なものがほしいわけではなかった。

豪華な指輪に憧れていたわけでもない。

ただ、選びたかった。

自分のほしいものを、ほしいと言ってよかった。

それだけのことが、こんなにも難しかった。

「うん」

えむは言った。

「ちゃんと選びたい」

その夜、通話を切ったあと、えむは自分の左手を見た。

何もない薬指。

ずっと見ないふりをしてきた場所。

そこに、まだ見ぬ小さな輪が浮かんだ気がした。


第十二章

写真の前で言えなかったこと

バリで指輪を買おうと話したあと、よぎはフォトウェディングのプランを見つけた。

サンセットビーチ。

白いドレス。

南国の花。

ラクダに乗って写真が撮れるプランまであった。

少しやりすぎな気もした。

でも、画面を見ているだけで楽しかった。

よぎは何気なく言った。

「バリ行ったらさ、ドレス着て一緒にちゃんと写真撮ってもらわない?」

通話の向こうで、えむが少し黙った。

その沈黙に、よぎはすぐ気づいた。

軽すぎたかもしれない。

結婚しているわけでもない。

再婚の約束をしたわけでもない。

それなのにウェディングフォトなんて、早すぎると思われるかもしれない。

でも、えむは小さく言った。

「素敵」

その声は、思ったより静かだった。

えむは冗談めかして言った。

「それってフォトウェディングじゃん笑」

「ばれちゃったか笑」

笑い合った。

でも、そのあと、えむが前の結婚でドレスを着なかったことを話してくれた。

式もなく、指輪もなく、ウェディングフォトもなかったこと。

そのことを、ずっと平気なふりでやり過ごしてきたこと。

よぎは、言葉が出なかった。

軽い調子で言ってしまった自分を少し悔やんだ。

でも同時に、思った。

この人に、ちゃんと残る写真を渡したい。

誰かに望まれて、綺麗だと言われて、笑っている自分を、えむ自身に見せてあげたい。

その気持ちは本物だった。

けれど、そこに自分の焦りが混じっていないとは言えなかった。

妻を亡くしてから止まっていた時間が、えむと出会って動き出した。

その動き出した時間を、よぎは止めたくなかった。

止めたくないあまり、少し急いでいた。

フォトプラン。
ドレスの候補。
ホテルの部屋。
空港までの移動。
指輪を買う店。

よぎは次々と調べて、えむに送った。

楽しいはずだった。

えむも最初は笑っていた。

でも、ある夜、通話の向こうでえむが黙った。

「よぎさん」

その声は、思っていたより固かった。

「ちょっと、待って」

よぎはスマートフォンを持ったまま、背筋を伸ばした。

「ごめん。嫌だった?」

「嫌じゃない。嬉しい」

えむは少し息を吸った。

「でも、追いつかない」

その一言で、よぎは何も言えなくなった。

「嬉しいの。バリも、指輪も、ドレスも。全部、嬉しい。でも私、たぶん、まだ怖いんだと思う」

えむの声は震えていなかった。

だからこそ、よぎには刺さった。

「前の時に欲しいって言えなかったものが、急に全部目の前に来て、嬉しいのに、怖い。置いていかれそうになる」

よぎは、自分の胸の奥が冷えるのを感じた。

彼女を喜ばせたいと思っていた。

でも、その気持ちの中に、自分が早く安心したいという欲も混じっていた。

えむの夢を叶えるふりをして、自分が救われたいだけではないのか。

その問いが、遅れてやってきた。

「ごめん」

よぎは言った。

「俺、急ぎすぎた」

電話の向こうで、えむが小さく息を吐いた。

「怒ってるわけじゃないよ」

「うん。でも、ごめん」

「一緒に行きたい気持ちは変わらない」

「うん」

「でも、私の足で行きたい」

その言葉に、よぎは目を閉じた。

選ぶのは、えむだ。

ドレスを着るかどうかも。

指輪を買うかどうかも。

バリへ行くかどうかも。

自分は提案することはできる。

隣に立つこともできる。

でも、彼女の人生を代わりに決めることはできない。

「待つよ」

よぎは言った。

「ちゃんと、えむさんの速さで行こう」

その数日後、仙台でドレスの事前試着をすることになった。

バリでの撮影前に、日本でサイズやイメージを確認しておくためだった。

その日の朝、よぎはいつもより早く目が覚めた。

息子たちはまだ寝ている。

台所で弁当を作る必要のない日だった。

そう思っていたら、二階から足音がした。

次男だった。

寝癖のついた髪のまま、階段を降りてくる。

「早くない?」

よぎが言うと、次男は眠そうな顔で冷蔵庫を開けた。

「喉かわいた」

「麦茶あるよ」

「知ってる」

それだけ言って、次男はペットボトルを取り出した。

コップに注ぐ音が、朝の台所に小さく響いた。

よぎは、なんとなく落ち着かずにスマートフォンを裏返した。

画面には、仙台のドレスショップの住所が表示されていた。

次男はそれを見ていないようで、見ていた。

「今日、どっか行くの?」

「仙台」

「ふうん」

次男は麦茶を一口飲んだ。

「女の人と?」

よぎは一瞬、返事に詰まった。

ごまかすことはできた。

友達と、と言うこともできた。

でも、それをやると、あとで自分が嫌になる気がした。

「うん」

次男はコップを持ったまま、少し黙った。

「最近、その人?」

「え?」

「スマホ見て笑ってるやつ」

よぎは苦笑した。

「そんなに笑ってる?」

「まあまあ気持ち悪い」

「まあまあで済んでよかった」

次男は笑わなかった。

コップの中の麦茶を見ていた。

それから、ぽつりと言った。

「ママの写真の前では、普通にしてよ」

よぎの胸が、小さく痛んだ。

怒っている声ではなかった。

責めている声でもなかった。

けれど、その言葉は、まっすぐだった。

「普通にって?」

聞き返しながら、よぎは自分でも少し嫌だった。

わからないふりをしている。

本当は、わかっている。

「なんか、楽しそうに電話してる声とか、聞こえる時あるし」

次男は言った。

「別にいいけど」

その「別にいいけど」は、全然よくない時の言い方だった。

よぎはしばらく黙った。

次男は中学三年生だ。

もう小さな子どもではない。

でも、大人でもない。

母親を亡くした少年が、父親の新しい恋をどう扱えばいいのか、簡単にわかるはずがない。

「ごめん」

よぎは言った。

「気をつける」

次男は何も言わなかった。

「ママのことを忘れたわけじゃない」

よぎが続けると、次男は少しだけ眉を寄せた。

「それは知ってる」

その言い方に、よぎは胸を突かれた。

知っている。

この子は、知っているのだ。

毎朝、写真の前で手を合わせていることも。

花の水を替えていることも。

何も言わなくても、父親が忘れていないことも。

それでも、嫌な瞬間はある。

それでも、寂しくなることはある。

「でもさ」

次男はコップを流しに置いた。

「ママの前で、違う人の話ばっかするのは、なんか嫌」

「うん」

よぎは頷いた。

「わかった」

次男は少しだけ視線を逸らした。

「別に、行くなって言ってるわけじゃないから」

「うん」

「ただ、なんか」

言葉を探して、途中で諦めたように肩をすくめた。

「なんか、変」

そう言って、二階へ戻っていった。

よぎは台所に一人残った。

なんか、変。

その言葉は正しいと思った。

全部が変なのだ。

妻の写真の前に花を供えながら、別の女性のドレスを選びに行く。

息子たちの朝食を用意しながら、恋人からのLINEを待っている。

亡くなった人を愛したまま、生きている人を好きになる。

変じゃないはずがない。

でも、変だから間違いだとは、もう思えなかった。

よぎは深く息を吐いた。

そして、妻の写真の前に向かった。

リビングの棚に、妻の写真がある。

写真の前の花瓶には、週末に買ったダリアが二束。

明るい色が、朝の光の中で少しだけ眩しかった。

よぎは花瓶の水を替えた。

茎の先を少し切る。

傷んだ葉を取る。

それは、もう数年も続けている習慣だった。

妻は、花を生けるのが上手な人だった。

特別な資格があったわけではない。

それでも、スーパーで買ってきた安い花束でさえ、妻が花瓶に挿すと、なぜかちゃんと部屋に馴染んだ。

値引きシールの貼られた花を見つけると、少し得意そうに買って帰ってきた。

「この子たち、まだ全然いけるのにね」

そう言って、茎を切り、水に差す。

すると、少し疲れていた花が、翌朝にはしゃんとしていることがあった。

妻はそれを見ると、まるで花自身のがんばりみたいに笑った。

「ほら、元気になった」

その声を、よぎは今でも覚えている。

妻は、家族が好きな人だった。

息子たちのことも。

家のことも。

犬のことも。

よぎのことも。

大げさな言葉で愛情を示す人ではなかった。

でも、誰かが体調を崩せば、すぐに気づいた。

息子たちが黙っている時には、無理に聞き出さず、いつもより少し好物を多めに出した。

よぎが仕事で疲れて帰ると、何も言わずにグラスを出した。

そういう人だった。

ただ、よぎの旅の話には、いつも少し退屈そうだった。

インドの寝台列車の話。

ネパールの山道の話。

タイの屋台で食べた何かよくわからない料理の話。

よぎが熱を込めて話せば話すほど、妻の目は少しずつ遠くなった。

「聞いてる?」

よぎが聞くと、妻はすぐに言った。

「聞いてる」

「じゃあ今、何の話してた?」

「インド」

「だいたい全部インドじゃん」

妻は悪びれずに笑った。

「だって、あなたの旅の話、半分くらいインドなんだもん」

旅に強い興味がある人ではなかった。

むしろ、よぎの旅好きに少し呆れていた。

「また行くの?」

何度もそう言われた。

でも、本気で止める人ではなかった。

あきれながら、少しだけ心配して、最後にはだいたいこう言った。

「変なもの食べすぎないでね」

その言い方が、よぎは好きだった。

だから、あの夜のことを今でも覚えている。

珍しく妻が酒を嗜み、頬を少し赤くして、いつもより上機嫌だった夜。

よぎがまたインドの話をしていた。

いつもなら途中で眠そうになるはずの妻が、その日は缶ビールを持ったまま、ふいに言った。

「わたしもそろそろ、インド行ってみよっかな」

軽い言い方だった。

冗談半分だったのかもしれない。

でも、よぎの胸には小さな灯りがともった。

ああ。

それなら、タージマハルは一緒に見よう。

そう思った。

口には出さなかった。

照れくさかったし、そんなことを言ったら妻はきっと笑った。

「なに急にロマンチックぶってるの」

そう言われる気がした。

でも、よぎは本気で思った。

妻と、白い大理石の建物を見る。

世界でいちばん有名な愛の墓を、この人と見る。

その日まで、タージマハルは取っておこう。

そう思った。

けれど、その日は来なかった。

よぎは花瓶の中のダリアを見た。

妻なら、もっと上手に生けただろう。

花の高さも、向きも、色の見せ方も、たぶん今の自分よりずっと自然に整えただろう。

それでも、妻がいなくなってからの方が、よぎは花をよく見るようになった。

それが少しだけ悔しくて、少しだけ愛しかった。

妻は、聖人ではなかった。

旅の話には退屈そうな顔をした。

家族のことになると、少し心配性だった。

それでも、その全部が妻だった。

綺麗な思い出だから愛しているのではない。

面倒なところも、苦手なことも、退屈そうに目を細める顔も、まとめて、その人だったから愛していた。

花瓶の中で、ダリアが少し揺れた。

よぎは写真の前に立った。

今日、えむと仙台へ行く。

バリ島のフォトウェディングで着るドレスを選びに。

そのことを、妻に言えるだろうかと思った。

言う必要なんてない。

写真は何も答えない。

そんなことはわかっている。

でも、言えないまま出かけるのは違う気がした。

よぎは写真の前に立ったまま、しばらく黙っていた。

「行ってくるね」

声に出すと、思ったより小さな声だった。

言ってから、胸の奥が少し痛んだ。

「えむさんのドレス、選んでくるよ」

続けて言った。

妻の写真は、何も変わらず笑っていた。

当たり前だ。

でも、その当たり前に救われた。

責められなかった。

許された、というのとも違う。

ただ、そこにいてくれた。

玄関で靴を履く時、長男が階段から降りてきた。

「どっか行くの?」

「仙台」

「ふーん」

それだけ言って、長男は冷蔵庫を開けた。

よぎが靴紐を結んでいると、背中越しに声がした。

「デート?」

手が止まった。

「まあ……そんな感じ」

変にごまかすのも違う気がして、そう答えた。

長男は麦茶のペットボトルを持ったまま、コップに注いでいた。

「ママに毎朝お経してるから、それよりパパ楽しそうだよ」

長男が言った。

「別にいいんじゃない」

よぎは振り返った。

長男は、こちらを見ていなかった。

冷蔵庫の扉を閉め、コップにおかわりの麦茶を注いでいる。

まるで、今の言葉が大したことではないみたいに。

「……忘れるわけないよ」

ようやくそれだけ言った。

長男は小さく頷いた。

「ならいいじゃん」

そして、二階へ上がっていった。

よぎはしばらく、玄関にしゃがんだままだった。

涙が出たわけではない。

でも、胸の奥の深いところを、何かが静かに通り過ぎた。


第十三章

白いドレスの向こう側

ここまで来てしまった。

ウェディングドレスに袖を通す前、えむは試着室の椅子に座っていた。

目の前には、白い布がふんわりと広がっている。

スタッフの人が、丁寧にドレスの説明をしてくれている。

えむは頷いていた。

でも、少しだけ声が遠かった。

本当に、私がこれを着るのだろうか。

急に怖くなった。

楽しくて、嬉しくて、ここまで来た。

でも、いざ白いドレスを前にした瞬間、胸の奥から古い声が戻ってきた。

今さら?

四十一歳で?

結婚もしていないのに?

娘がいるのに?

そんな声だった。

誰かに言われたわけではない。

全部、自分の中にある声だった。

前の結婚でドレスを着なかった時、えむは平気なふりをした。

いらないふりをした。

でも、その「いらないふり」が長すぎて、本当に欲しがっていいのかわからなくなっていた。

白いドレスは、綺麗だった。

綺麗すぎて、怖かった。

自分がそこに入っていいものなのか、わからなかった。

ふいに、昔の記憶がよみがえった。

まだ結婚していた頃。

ショッピングモールの通路で、ウェディングフォトの小さな広告を見かけたことがある。

白いドレスを着た女性が、花束を持って笑っていた。

えむは足を止めた。

ほんの数秒だったと思う。

「こういう写真だけでも、いつか撮れたらいいね」

そう言った私に、返ってきたのは、短い言葉だった。

「今さら、そういうのいる?」

悪気があったのかどうかはわからない。

でも、その一言で、えむは笑った。

「あ、だよね」

そう言って、広告から目を逸らした。

たぶん、そこで傷ついた顔をしたら負けだと思ったのだ。

ほしかったものを、ほしかったと言う前に、自分で畳んでしまった。

それから、白いドレスの話をしなくなった。

指輪の話もしなくなった。

欲しがらなければ、傷つかない。

期待しなければ、がっかりしない。

そうやって自分を守ってきた。

けれど、守っているつもりで、少しずつ、自分の欲しいものがわからない人間になっていた。

「少し、お水飲みますか?」

スタッフの人が聞いた。

えむは顔を上げた。

「あ、大丈夫です」

そう答えた声が、自分のものではないみたいだった。

大丈夫ではなかった。

胸が苦しかった。

白いドレスを見ているだけなのに、逃げ出したいと思っていた。

こんなこと、しなくてもいい。

誰かに頼まれたわけじゃない。

やっぱりやめます、と言えば済む。

体調が悪いと言えばいい。

急用ができたと言えばいい。

娘のことが心配になった、と言えば、たぶん誰も責めない。

えむはバッグに手を伸ばした。

スマートフォンを取った。

よぎにLINEを送ろうとした。

ごめん。
やっぱり今日は無理かも。

そこまで打って、指が止まった。

送信ボタンの上で、親指が震えた。

無理かもしれない。

本当に、そう思った。

ドレスを着ることが怖いのではなかった。

幸せそうな自分を見ることが怖かった。

もし似合わなかったら。

もし笑えなかったら。

もし、着ても何も満たされなかったら。

もし、こんなに欲しかったはずのものを前にして、自分が空っぽだったら。

その方が、ずっと怖かった。

涙が出そうになった。

でも、泣きたくなかった。

泣いたら、また「面倒な女」になってしまう気がした。

昔から、そうだった。

欲しいと言うと重い。

寂しいと言うと面倒。

傷ついた顔をすると空気が悪くなる。

だから笑ってきた。

「あ、だよね」

そう言って、何度も自分の願いを畳んできた。

スマートフォンが震えた。

よぎからだった。

ゆっくりでいいよ。
俺、外でちゃんと待ってる。

短いLINEだった。

その一文を見て、息が戻った。

ちゃんと待ってる。

急かさない。

笑わない。

逃げない。

その言葉だけで、えむは少しだけ背筋を伸ばした。

打ちかけていた文章を消した。

ごめん。
やっぱり今日は無理かも。

一文字ずつ消していく。

最後の一文字が消えた時、胸の奥で何かが静かにほどけた。

カーテンの向こうに、よぎがいる。

一人でドレスを着るわけじゃない。

誰かに見せるためだけでも、過去を取り返すためでもない。

今の自分が、自分の幸せを受け取るために着る。

そう思った。

旅に出る前も、いつも少し怖かった。

空港へ向かう電車の中。

搭乗口の前。

知らない国の入国審査の列。

本当に行けるのかな。

大丈夫かな。

そんな不安は、何度旅をしても消えなかった。

でも、ゲートを抜けてしまえば、足は前に出た。

怖くないから進むのではない。

怖くても、行きたいから進む。

今も同じだと思った。

白いドレスは、えむにとって知らない国みたいだった。

昔の自分が行けなかった場所。

ずっと地図だけ見て、行ったふりをしていた場所。

でも今、その入口に立っている。

「お願いします」

えむはスタッフの人に言った。

ウェディングドレスに袖を通し、試着室の鏡の前に立つ。

純白のドレスをまとった自分が、そこにいた。

鏡の中のえむは、少し緊張していて、少し照れていて、でも信じられないくらい幸せそうだった。

そんなこと、ある?

思わず、心の中でつぶやいた。

四月。

歯医者の待合室で届いた、一通の通知。

マッチングしました。

あの日から、まだ二か月しか経っていない。

それなのに、もう何年も一緒にいるような気がしていた。

でも、ただ流されてきたわけではない。

怖いと思うたびに、えむは立ち止まった。

娘の寝息を聞きながら、何度も迷った。

よぎに「待って」と言った夜もあった。

それでも、やめるとは思わなかった。

自分の足で、ここまで来た。

コーディネーターがドレスの裾を整え、微笑んだ。

「それでは、カーテンを開けますね」

えむは小さく頷いた。

胸の奥が、きゅっと縮まった。

ゆっくりと、カーテンが開く。

その向こうに、よぎがいた。

いつものように、少し目を細めて笑っていた。

あの優しい笑顔だった。

その顔を見た瞬間、胸がいっぱいになった。

よぎは、何も大げさなことを言わなかった。

ただ、えむを見ていた。

ちゃんと、見てくれていた。

その視線だけで、十分だった。

「綺麗だよ」

よぎが言った。

短い言葉だった。

でも、えむがずっとどこかで待っていた言葉だった。

四十一年間生きてきて、こんなに幸せそうな自分の顔を、えむは見たことがなかった。

この人は、私の夢を笑わなかった。

遅すぎるとも、重すぎるとも言わなかった。

私が自分でも忘れたふりをしていた願いを、自分のことみたいに大切にしてくれた。

結婚していないのに白いドレスを着ることの、何がそんなにおかしいのだろう。

ふと、えむは思った。

誰かの順番ではなく、自分たちの順番で幸せになってもいい。

えむは少しだけ息を吸った。

泣きそうだった。

でも、泣くより先に、どうしても言いたいことがあった。

「私ね」

声が少し震えた。

「これ、過去を取り返すために着てるんじゃないと思う」

よぎは黙って聞いていた。

「前の結婚で着られなかったから、その穴埋めをしてるんじゃなくて」

えむは自分のドレスの裾を見た。

白い布が、足元で静かに広がっていた。

「今の私が、ちゃんと幸せになっていいって、自分に見せるために着てるんだと思う」

言い終えた瞬間、胸の奥が軽くなった。

よぎは少しだけ目を細めた。

「うん」

それから、いつもの柔らかい声で言った。

「すごく似合ってる」

その一言で、もう十分だった。

えむは笑った。

泣く代わりに、笑った。

鏡の中にも、同じ顔の自分がいた。

四十一歳。

母親。

離婚した女。

誰かを好きになることを、少し怖がっていた女。

その全部を抱えたまま、白いドレスを着ている。

どれも、捨てなくてよかった。

どれも、なかったことにしなくてよかった。

えむはもう一度、鏡の中の自分を見た。

左手には、まだ何もない。

それでも、その空白が、前より少し明るく見えた。


エピローグ

一文字ぶん、未来へ

バリへ行く前の夜、えむはスーツケースを開いた。

夏物のワンピース。

日焼け止め。

娘と同じヘアゴム。

パスポート。

充電器。

それから、白い服を一枚。

スーツケースの端に入れた時、娘が寝室から顔を出した。

「ママ、まだ寝ないの?」

「もう少しだけ」

娘はスーツケースを見た。

しばらく黙っていた。

それから、小さな声で言った。

「ママだけガイコク行くの?」

えむの手が止まった。

その声が、思っていたより寂しそうだった。

胸の奥が、きゅっと縮んだ。

「うん」

えむはごまかさなかった。

「今回は、ママだけ行く」

娘は唇を少し尖らせた。

「ずるい」

「うん。ちょっとずるいね」

そう言うと、娘は意外そうにえむを見た。

「でも、ちゃんと帰ってくる?」

「帰ってくるよ」

「何日?」

えむは指を折って数えた。

娘はそれを真剣な顔で見ていた。

「じゃあ、お土産」

「何がいい?」

娘は少し考えた。

「変なやつ」

「変なやつ?」

「うん。かわいくなくて、変なやつ」

えむは笑った。

「わかった。全力で変なやつ探してくる」

娘は満足したように頷いた。

それから、寝室へ戻る前に振り返った。

「ママ」

「ん?」

「楽しんできていいよ」

その言い方が、少しだけ大人びていた。

でも、そのあとすぐに、

「でも変なやつね」

と念を押した。

えむは笑いながら頷いた。

娘が寝室に戻ったあと、えむはしばらくスーツケースの前に座っていた。

母親であることは、どこへ行っても消えない。

でも、母親であることを理由に、自分の幸せを全部しまい込まなくてもいい。

娘の寂しさも連れていく。

自分の嬉しさも連れていく。

そういう旅でいいのだと思った。

あくる朝、よぎはリビングの棚の前にいた。

妻の写真の前の花の水を替えた。

昔は、ダリアがどんな花かも知らなかった。

今では、水を吸う速さも、弱ってきた時の首の傾き方も知っている。

悲しみと暮らすうちに覚えた名前だった。

よぎは水を替え、茎を少し切った。

それから、写真の前に立った。

「行ってくる」

声は、前より少しだけまっすぐだった。

「忘れてないよ」

それ以上は言わなかった。

言わなくても、花がそこにあった。

写真の中の妻は、いつものように笑っていた。

よぎはふと、タージマハルのことを思い出した。

妻と見るために、取っておいた場所。

取っておいたまま、行けなくなった場所。

その白い建物を、今でも一人で見に行くことはできない。

たぶん、これからも簡単には行けない。

けれど、行けなかった場所があるからといって、これから行く場所まで閉ざさなくていい。

バリは、タージマハルの代わりではない。

えむは、妻の代わりではない。

白いドレスは、過去の穴埋めではない。

それぞれが、それぞれのまま、よぎの人生の中に並んでいる。

そう思えたことが、少しだけ不思議だった。

成田空港の出発ロビーは、夏休み前のざわめきで満ちていた。

スーツケースを引く音。

アナウンス。

コーヒーの匂い。

えむは人混みの中に、よぎを見つけた。

よぎもすぐに気づいて、片手を上げた。

「おはよう」

「おはよう」

それだけで、少し笑ってしまった。

二人の左手には、まだ指輪はない。

白いドレスも、まだスーツケースの向こう側にある。

バリの海も、サンセットも、まだ見ていない。

それでも、えむはもう自分の左手を隠していなかった。

搭乗口へ向かう前、よぎがふいに手を差し出した。

えむは少しだけ笑って、その手を取った。

左手だった。

薬指には、まだ何もない。

何もないことは、もう寂しさだけではなかった。

これから選べる場所。

これから約束を置ける場所。

これから自分の幸せを、自分で受け取る場所。

搭乗券を差し出す時、えむの左手が少しだけ前に出た。

係員がそれを受け取り、笑顔で返した。

「いってらっしゃいませ」

その言葉が、いつもより少しだけ特別に聞こえた。

よぎが隣で同じように搭乗券を差し出す。

二人の手が、ほんの一瞬だけ並んだ。

何もない左手と。

花の名前を覚えた男の左手。

えむは、自分の薬指を見た。

昔は、そこを見るたびに胸が冷えた。

何もなかったから。

選ばれなかった気がしたから。

欲しかったと言えなかった自分を、そこに見てしまうから。

でも今は違った。

何もない。

だから、これから選べる。

えむは顔を上げた。

ゲートの向こうから、知らない国の匂いがした気がした。

よぎが言った。

「行こうか」

えむは頷いた。

「うん」

二人は歩き出した。

えむの左手は、もう隠れていなかった。

何もない薬指に、朝の光が触れていた。


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