やわらかな火⑩ 今夜はここまで
千尋は、少し戸惑いながら皿をのぞき込んだ。
「……これ、何ていうんですか?」
「ピミエントス・デ・パドロンって言って、小さい青唐辛子の素揚げ。
だいたいは甘くて平気なんだけど、たまに一本だけ激辛が混ざってるんだよね」
「……ロシアンルーレットみたい」
海野は笑いながら、千尋のグラスにワインを注いだ。
「でもさ、人生もそういうとこあるでしょ。だいたいは静かで穏やかだけど、
たまに予想外に熱くて、辛くて……でも、それに当たると目が覚める」
その言葉に、千尋はふと黒川の顔を思い出していた。
あの、予告もなく刺さってくるような言葉と、視線と、指先の感触。
心の中で火がついて、でもすぐには消せないあの夜の余韻。
「……うん、当たったのかも。ちょっと前に」
「ん? どういうこと?」
「……いや、なんでもないよ」
千尋は笑って、口をつぐんだ。
グラスの縁に口をつけながら、そっと息を吐く。
海野は、水滴のついたワイングラスの表面を、指先でなぞりながらぽつりと言った。
「……この前の千尋さんと、今日の千尋さん、なんだか違う気がする」
「……どう、違うの?」
「……なんていうか、“妖艶”だね」
「ようえん……話し言葉では、あまり使わない言葉だね」
海野は少し肩をすくめて笑った。
「ごめんごめん。スペイン語ではよく使う表現なんだ。
女性の色気を、正面から讃える文化がある。官能的って、侮辱じゃなくて、尊敬のニュアンスなんだよ」
千尋は少し目を伏せて、そして静かに微笑んだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ワインの香りと、揚げた唐辛子の煙がゆっくりとテーブルを包む。
柔らかく差し込む照明の下で、ふたりの間の静けさが、言葉よりも親密に感じられた。
*
海野は唐辛子を手に取り、くるくると指の間で転がした。
「……これが、ピミエントス・デ・パドロン」
海野は、唐辛子を一つ口に運んだ。
噛んだ瞬間、表情が少し歪む。だが、すぐに何事もなかったように笑う。
「……当たり、だ。痛い」
千尋は驚いて目を見開いた。
「ほんとに……?」
「うん。でも、嫌いじゃない。辛さって、覚醒に近いでしょ。
舌じゃなくて、もっと奥。身体のどこかに火を灯す感覚がある。
……あれって、“生きてる”って感じがするんだ」
千尋は、その言葉にふと心を揺らされた。
「……私も、少し前に“当たった”かもしれない。
自分じゃ選べないものに、突然火をつけられて。びっくりして、でも……離れられない感じ」
海野は、ゆっくりとグラスを揺らした。
「それ、sensual だね。五感で恋してるってこと」
「……恋?」
「恋じゃないかもしれないけど、欲望には違いない。
Deseo. スペイン語で“欲望”。……綺麗な言葉でしょ?」
「うん。なんだか、甘くて、苦い」
「それでいいんだと思う。“欲”は、本当はもっと静かで、優しいものかもしれない。
ただ触れたいとか、そばにいたいとか。千尋さんの目が、そう言ってた」
千尋は、指先でパドロンをつまんだ。
「これ、私も当たったら……火がつくかな」
そう言って、口に運ぶ。
最初のひと噛みで、唐辛子の甘みと、かすかな青さが広がる。
「……セーフかも」
「残念。でも、君はすでに火が灯ってる顔をしてるよ」
千尋は、思わず目を逸らした。
だがその頬は、ワインよりも深く染まっていた。
「……スペイン語って、ずるいですね」
「どうして?」
「なんだか全部、恋に聞こえるから」
海野は笑った。
「そう言ってもらえると……話したくなるね、もっといろんな言葉を」
「じゃあ、誘惑ってスペイン語で何て言うんですか?」
「Seducción.」
彼は低く柔らかく、それを口にした。
「……千尋さん。もしそれを教えてしまったら、僕はもう、君を“ただの後輩”には戻せないよ」
千尋の指が、ワイングラスの脚をゆっくりとなぞった。
「……それも、悪くないかもしれませんね」
*
蝉の声が遠く、アスファルトはまだ少し湿っていた。
ワインとオリーブオイルの香りが、指先に残っている。
「……ああ、いい夜ですね」
千尋がぽつりとつぶやく。
海野は横を歩きながら、彼女の横顔に目を落とした。
「食べたものと、話したことと、誰と過ごしたかで、夜の“体温”って決まると思うんですよ」
「……今日は、ちょっと熱いです」
「やっぱり当たり、引いたんじゃない?」
千尋は笑いながら、手の甲で首筋をなぞった。
「わたし……ちょっと酔ってるかもしれません」
「どこに?」
「指先と、まぶたと……少し、心に」
海野はその言葉に、すぐには返事をしなかった。
ただ一歩だけ、彼女のほうへ近づいた。
「……千尋さんのそういうところ、ずるいなと思うことがあります」
「え?」
「今夜みたいに。何もしてないのに、距離が近づいてしまう」
その声は、低くて、静かだった。
街灯がふたりの影を路面に落とす。
重なりそうで、重ならない。けれど風が吹くと、一瞬だけ影が交差する。
「千尋さん、今日は、手を繋いでも……よかった?」
その問いに、千尋は立ち止まった。
うつむいたまま、ゆっくりと答えた。
「……それを聞いてくれるところが、あなたのずるさ、だと思います」
海野は微笑んで、手を差し出した。
千尋は、ほんの数秒迷って、
その手に、そっと自分の指を重ねた。
ふたりの手は、指先で触れ合っただけ。
でもその一瞬の温度が、彼女の胸にやわらかな火をともした。
言葉はもういらなかった。
“今夜は、ここまで”
そう言われたわけでもないのに、千尋の身体はそう感じていた。
官能は、触れなくても宿る。
沈黙の中に、呼吸の間に、眼差しの奥に。
歩き出したふたりの影は、また少しだけ重なった。
