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やわらかな火(12)ラスト・コーション


部屋は暗く、窓の外で雨が静かに降っていた。
テレビの画面に映るトニー・レオンの瞳は、
なにも語らずにすべてを語っていた。

「……彼女、何度も命をかけてる」
千尋がぽつりとこぼす。

「でも、愛してるのは裏切る相手の方なんだよな」
黒川の声は、グラスの氷みたいに静かだった。

「……わたしだったら、やっぱり……」
千尋が言いかけて、やめた。

画面の中で、ふたりの身体が交わっていた。
けれど、その背後には戦争と、命と、正体不明の愛が揺れていた。

「ラスト・コーションって、欲望の映画じゃなくて、沈黙の映画ですよね」
千尋が言う。

黒川は何も返さない。
ただ、画面を見ていた。
そこに映っているのは他人じゃない。
──彼自身だったから。

千尋は、そんな彼の横顔を見て思った。

この人の過去には、
わたしがまだ知らない“スパイ行為”みたいな痛みがある。

でも、いまこの部屋の中では、
彼もまた“裏切る”ことをやめていた。

照明を落とした書斎に、映画の淡い光がちらちらと揺れている。
スクリーンに映る上海の路地、雨に濡れた石畳。
重たい時代のなかで、それでも女が男を求める場面が続いていた。

千尋は、黒川の隣にいた。
互いに触れてはいない。けれど、視線の先が同じであるだけで、
それだけで不思議なほど近く感じた。

「……好きな映画なんですか?」

千尋がぼそっと尋ねた。
黒川は少し遅れて、息を吐いた。

「初めて観たときは……なぜこんなに静かで、
 こんなに痛いのか、わからなかった」

画面のなかで、トニー・レオン演じる男が、
女の首筋に、そっと唇を寄せる。

「……でも今はわかる気がする。
 あれは、“赦されなさ”に触れた瞬間の話なんだ」

彼の声には、どこか熱がなかった。
まるで何度も自分に言い聞かせた末に、
冷たく形を整えた言葉のようだった。

千尋は黒川の横顔を見つめる。
柔らかい灯りの中、彼の頬がほんのわずかにこわばっていた。

スクリーンのなかでは、男と女が、
心を隠しながら身体だけを交わしている。
その密やかな痛みが、黒川の表情にゆっくりと影を落としていた。

千尋は、ふと問いかけた。

「黒川さんも……誰かと、赦されない何かがあったんですか?」

黒川は黙った。

彼の眼差しが画面を見ているのか、記憶を見ているのか、わからなかった。

やがて、映画の音が途切れた。
女が男を見つめ、何かを言おうとしたとき、
黒川はぽつりと、ほとんど独り言のように呟いた。

「……逃げることも、守ることも、同じぐらい卑怯なんだよ」

千尋は、その言葉の重みに息をのんだ。

「でも、それしかできなかった」

彼の目がスクリーンから外れ、ゆっくりと千尋の方に向いた。
その視線の奥に、まだ名前のつかない記憶が沈んでいるようだった。

「ごめん。今日は映画に集中したかったはずなのに……
 俺、少し、揺れてる」

千尋は首を振った。

「いいんです。……私、黒川さんが何を見てるのか、
 ちゃんと隣で感じたかったから」

二人の間に沈黙が降りた。

それは、映画のラストよりも静かで、
けれど確かに、ひとつの愛が息づいた瞬間だった。

千尋は、もう一度スクリーンに目を向けた。
画面のなかでは、女が、たったひとつの言葉も発さず、
ただ男のために命を投げ出す。

「……悲しいですね」

呟くと、黒川が小さく首を傾けた。

「悲しいか? 俺は……あれを、正しいと思ってしまうんだ」

「正しい……?」

「愛する相手の傷に、自分の痛みを混ぜてやること。
 それが唯一できる贖いだと思うこと、あるだろ?」

千尋は、すぐに頷けなかった。
彼の声があまりにも深くて、どこか苦しかった。

けれど、不思議なことに、
彼女はそれ以上、何も訊こうとは思わなかった。

“誰が傷つけたの?”
“いつの話?”
“もう終わったこと?”

どれも問いかけていい言葉だった。
でも千尋の中に、それを言わせない何かがあった。

(私が知ったからって、
 あのときの黒川の心が、癒えるわけじゃない)

知りたい、じゃなく。
分かっていたい、と思った。

彼のとなりで、何も言わず、ただ感じ取ること。
それが今夜の、千尋にできる精一杯だった。

スクリーンが静かに暗転した。

映画が終わっても、部屋の明かりは点けられなかった。
余韻が、ふたりを包んでいた。

黒川がぽつりと、声を落とす。

「……俺、ほんとは、あの映画、苦手なんだ」

「え?」

「観るたびに、自分のことを責める気持ちになる。
 救いなんてなかったんだって、思い知らされる」

「でも、それでも、観るんですね」

黒川は笑わなかった。けれど、頷いた。

「そのほうが、生きてる気がするから」

千尋は、ソファに置かれた自分の指を見つめた。

その指先が、ほんの少し、黒川の手に触れた。

「……私は、観てよかったです。
 黒川さんとじゃなきゃ、こんなふうに観られなかった」

それは、慰めでも、賛美でもない。
彼の過去の痛みに、どこか寄り添う言葉だった。

そして、ふたりは、また静かになった。
それでも今度の沈黙は、もう孤独じゃなかった。

呼吸だけが、ゆっくりと揃っていく。

まるで、ふたりで過去を編み直すかのように。


🎥 『ラスト、コーション(Lust, Caution)』基本情報
• 監督:アン・リー(『ブロークバック・マウンテン』『グリーン・デスティニー』)
• 原作:アイリーン・チャン(張愛玲)による短編小説
• 公開:2007年(台湾・中国・アメリカ合作)
• 舞台:1940年代・日本占領下の上海、香港
• ジャンル:スパイ×ロマンス×心理サスペンス
• レーティング:R-18(理由は明確。えぐいぐらい情交描写がリアル)

【あらすじ】

ワン・チアチー(タン・ウェイ)は、大学の演劇サークルで愛国活動に関心を持った女学生。
やがて抗日運動の一環として、日本に協力する中国人高官のMr.イー(トニー・レオン)を暗殺するための“ハニートラップ”作戦に巻き込まれていく。

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