やわらかな火⑥ 海野先生
千尋が教授の資料を届けに海野助教の研究室を訪れたのは、雨の降る昼下がりだった。
「失礼します。事務局の藤谷です。資料をお預かりしてきました」
ドアを開けると、部屋の奥で本棚と格闘していた海野が、振り返った。
「あっ、わざわざありがとうございます。そこに……いや、床、濡れてるかもしれません」
千尋は控えめに笑った。「大丈夫です。水濡れには、慣れてますから」
「えっ……それ、深いな。ちょっと待って、それ引用していいですか?」
「引用? 冗談ですよ、今の」
「いや、でも……今の一言で短編、一本書けそう」
海野は嬉しそうに笑いながら、資料を受け取った。指先がふと触れ合い、千尋はわずかに目を伏せた。
「千尋さんって、文章書いたりしないんですか?」
「私? いえ……そんな、人に見せられるようなものじゃありません」
「でも、さっきの言葉の選び方、ちょっと詩的でしたよ。読んでみたいな、そういうの」
「そんな……本当に、たいしたものじゃないんです」
「でもさ、見せるためじゃなくて――
見せたくなるほど書いちゃう瞬間って、あるでしょう。千尋さんなら、きっとある気がする」
その言葉は、雨音よりも静かに、千尋の胸に降り積もった。
***
「50点――」
黒川に投げかけられたあの冷たい言葉が、まだ耳に残っていた千尋にとって、
海野の優しい声は、不意に差し込んだ陽だまりのようだった。
後日、「美味しいパエリアの店があるんです」と海野に誘われ、ふたりはスペイン料理の店を訪れた。
食後のコーヒーを前に、海野がふと千尋の目をじっと見つめ、口を開いた。
「千尋さんって……黒川先生と、付き合ってるんですか?」
突然の問いに、千尋は思わずコーヒーカップを落としそうになった。
「え? なに、それ……急に」
「すみません、気になってて……ごめんなさい」
海野は照れたように笑って、目を逸らした。
千尋は、少しだけためらってから言った。
「……付き合って、いません」
「そっか。じゃあ……僕にも、チャンスあるってことでいいのかな」
千尋は、はっきりとは答えずに曖昧に笑って、来たばかりのパエリアを見つめていた。
海野がレモンを手に取り、「レモンかけちゃって大丈夫?」と気遣った。
「大丈夫です。風味が良くなりそう」
かけられたレモンの香りがふんわりとテーブルに広がった。
「うちの母親、料理が好きで……。パエリアも、実は母の味なんです」
そう言って、海野は少し照れくさそうに笑った。
「週末になると、家に人を呼ぶのが好きで。親戚とか、ご近所さんとか……にぎやかなのが好きなんでしょうね」
「……いいですね。あたたかそうな家族で」
千尋はそう言いながら、笑った。けれど、その声にはほんのかすかな陰りが混じっていた。
「僕は、あの家のあの雰囲気で育ったから、たぶん、人と食卓を囲むことが“安心”なんだと思う。将来も、そういう家庭を持てたらいいなって、ずっと思ってました」
千尋は、コーヒーカップを両手で包むように持ち、その中を見つめた。
「……私、昔、一度結婚してたんです」
「え?」
「若いときに。長くは続きませんでしたけど」
海野は何も言わず、ただ頷いた。
「家って……怖いなって、思ったことがあって」
「怖い?」
「最初はね、“帰る場所”だったんです。でもいつの間にか、“自分がいなくなる場所”になってて。
家族のため、相手のためって動いてるうちに、鏡に映った自分の顔を見ても、誰なのかわからなくなった」
「……」
「家庭って、あったかくて、優しくて、だからこそ、溶けてしまいそうで。
またあの中に入っていったら、私は、また自分を見失いそうで……。だから、たぶん、ちょっと怖いんです。近づくのが」
ふいに、海野が優しい声で言った。
「……千尋さんは、自分を見失うような人じゃないと思いますけど」
「そう見えますか?」
「はい。でも、そう思えない日もあるってこと、今ちょっとわかりました」
千尋は小さく笑った。
「……やっぱり、優しいですね、海野さん」
「将来も、ああいう家庭を持てたらいいなって、思ってるんです」
海野の目はまっすぐで、言葉には何の曇りもなかった。
そのまっすぐさに、千尋は一瞬、何かを突きつけられたような気がした。
「……素敵ですね」
言いながら、笑った。笑ったけれど、その胸の奥に、ひんやりとしたものがひとつ沈んだ。
(ああ、この人は、ちゃんと“家庭”を愛せる人なんだ)
日曜の昼下がりに日差しの差すダイニングで、笑い声と食器の音が混じるような未来。
子どもと戯れ、両親と談笑し、当たり前のように誰かと生きていく日々。
そんな「普通の幸せ」が、千尋にはどこか遠く感じられた。
自分もかつて、それを望んだことがあった。けれど、家庭という小さな宇宙に身を委ねるたびに、少しずつ、輪郭が溶けていくような怖さを感じていた。
「……私、向いてないんです。そういうの」
ふと漏れた千尋の言葉に、海野が首を傾げた。
「え?」
「家族とか、家庭とか……“ちゃんと”すること。多分、私には重すぎるんだと思います。
あの頃、子どもを持つってことが、自分の存在を全部誰かに明け渡すことのように感じて……。向き合えなかったんです」
「……」
「海野さんは、優しいから。誰かを守るのが自然にできる人。でも、私はたぶん……その優しさに、寄りかかってしまいそうで、怖い」
言い終えた千尋は、カップの中の残り少ないコーヒーを見つめていた。
それ以上、目を合わせたら、自分の言葉が揺らいでしまいそうだったから。
しばらくの沈黙のあと、海野がゆっくりと口を開いた。
「……寄りかかっても、いいんじゃないですか」
「……え?」
「ずっとじゃなくていい。たまにでも。疲れたときだけでも」
彼の声は、あたたかくて、静かだった。
「誰かに、そうやって少しだけもたれかかるのって、悪いことじゃないと思います」
千尋は、思わず顔を上げた。海野はまっすぐ彼女を見つめていた。
けれど、その目には押しつけがましさも、焦りもなかった。
ただ、ゆっくりと「ここにいます」と語りかけるような、やわらかな光だけがあった。
「僕も、そんなに強い人間じゃありません。でも……千尋さんのこと、もっと知りたいと思いました。ゆっくりでいいんです。いきなりじゃなくて、少しずつ。時間がかかっても、かまわない」
千尋は、胸の奥がきゅっとなるのを感じた。
こんなふうに、急かさず、境界を尊重してくれる人がいるなんて。
そしてその優しさを、嬉しいと思う自分がまだ残っていたことにも、少し驚いていた。
「……ありがとう。でも、本当に、ゆっくりじゃないと、無理だと思います」
「はい。ゆっくりで」
海野はそう言って、優しく笑った。
その笑顔が、どこか遠い記憶のなかの“安心”を呼び起こすようで、千尋はそっと目を伏せた。
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