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やわらかな火④ 黒川の家

初めて黒川の家に足を踏み入れたとき、千尋は靴を脱ぐのに少し戸惑った。
上がっていいのか、ためらうように、玄関のマットに立ち尽くす。
かかとの下に敷かれたマットの柔らかさが、やけに生々しく感じられた。
ここを越えたら、もう“外”の女ではいられない——そんな気がした。

その背中に、黒川の声が降りる。

「遠慮すんな。うち、脱いだら上がる制だから」

その言葉に背を押されるように、千尋はそっと玄関に足を滑りこませた。
その瞬間、自分の中で何かが、音もなくほどけていくのを感じた。

キッチンからは香ばしい匂い。
鍋の蓋が、トクトクと呼吸している。
“外で会うだけの関係”じゃ、絶対に見られなかった風景が、そこにあった。

黒川の家のキッチンに立つ彼の背中を見ながら、千尋はふと思う。

——“ご飯に呼ばれる”って、こんなふうに始まるんだ。

誰かのために用意された席。
並べられた皿。
静かな音楽と、さりげない気遣い。

それらの一つひとつが、千尋の中の「わたしなんか」という呪文を、少しずつ上書きしていくようだった。

忙しさを理由に自炊をほとんどしていなかった千尋から見たら、全く違う世界がそこには、あった。
かすかにオリーブオイルとニンニクの香りが鼻をくすぐる。
その匂いは、どこかで嗅いだような懐かしさを運んできた。
思い出せないけれど、温かな場所だった気がする。

扉の奥では、黒川がすでにエプロン姿だった。
白シャツの袖をまくり、まるで講義でも始めるかのように、淡々と包丁を動かしている。
静かに、でも迷いのない手つきだった。まるで食材に触れているのではなく、記憶を刻んでいるかのように。
トマトの皮を剥き、ズッキーニをスライスしていく。

「うちのキッチン、狭くて悪いな」
そう言いながらも、その手は止まらない。

茹であがったパスタの湯気が、二人のあいだに一瞬、曇りガラスのような幕を張った。
湯切りの音とともに、黒川は小鍋にソースを流し込み、木べらで丁寧に混ぜていく。

「料理って、ある意味、翻訳と似てると思わないか?」

唐突な問いに、千尋は首をかしげた。

「相手が何を望んでるか、完全にはわからない。でも、目の前の素材から最大限、伝えようとするんだ。味覚って、感情の読解みたいなもんさ」

千尋は、自分もまた、誰かの言葉を翻訳して生きてきた気がした。
でも、黒川の料理には、“意訳”では届かない熱があった。
「これは、きっと原文のまま、胸に届く味なんだ」と思った。

火を止めると、黒川は皿を手に取った。
盛り付ける手つきはまるで余白を読む詩人のようだった。

彼は千尋を見て、小さく笑った。

「今日は、君の機嫌がよくなる味を作ってみた。たぶん——白ワインと音楽があれば、きっと完成する」

その瞬間、千尋は思った。
この人は、きっと恋愛よりも深く、私に火を入れようとしている、と。

「いつから料理されてるんですか?」

「フランスに留学した時からずっと自分で作ってるよ。大抵のもんは、自分で作る方が美味い」

冷蔵庫から下ごしらえされた白身魚を取り出しながら黒川が答えた。

確かにこんなに料理をする人間からしたら、店の料理なんかたかが知れているだろうと千尋は思った。

重厚なマホガニーのテーブルの上に腰掛けながら、料理が出来上がるのを待っていた。
そばのチェストには、やたらと“死”“快楽”“境界”といった単語が目立つフランス語の本が並んでいる。
使い古された『存在と無』の背表紙は、うっすらと日焼けしていた。
そこには、黒川の指紋が今も残っているような気がして、千尋はそっと目をそらした。

“フランス文学”なんて、千尋には高校の教科書で読んだ『異邦人』くらいしか思い出せない。
でも、彼の言葉にはいつも“触れないで触れてくる”何かがあった。
きっと、こういう本ばかり読んでいるから、彼の目はあんなふうに遠くて、近いのだ。

でも今日の黒川は、キッチンの上で静かに横たえた食材に手を加え、再び生き返らせようとしていた。

彼が静かに手をかけるその様子を見ていたら、
自分の中の“もう誰にも呼ばれない”と思っていた部分が、
ほんの少し、息を吹き返した気がした。





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