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インテグラル理論で読み解く、主義のアウフヘーベン・世界の落下先

自己体験、感覚的な知見、体系的な知見を使って、世界の落下先とその背景を整理してみたい。


このnoteの概観

資本主義 vs 社会主義
個人主義 vs 集団主義
自由 vs 統制

社会や思想はVS(二項対立)として整理されやすい。
「どちらか一方が正しい」という前提がある限りは的確に理解できないと考えている。

  1. 一方の価値が発見され、

  2. その限界が露呈される。

  3. その結果、反対側の価値が発見され、

  4. その限界が露呈される。

  5. そして両者を含み込んだちょうどいい状態へ移行していく

こうして段階的に進んでいく力が生き物・世界にはどの時代にもある。

客観的にみて偏った主義を持つことも個々や集団の段階として必要。
状態を推移していくための「とあるシーズン」とも言える。
その段階ごとの理解を用いた切実な状態なんだと思う。

このnoteの後半では、その世界の生態系としての状態推移を以下の3つの軸から整理してみている。

1.資源の在り方 : 共有 ↔ 所有
2.権限の在り方 : 自治的 ↔ 統治的
3.関係の在り方 : エッジ ↔ リレーション

また後半では、インテグラル理論における集団の発達段階と対応する形で世界の主義の推移の整理を行っていく。

第一次層、第二次層とは何が差異なのか
ターコイズとは何が起きている状態なのか
それぞれのステージでは主義はどう見えるのか

整理をして私が認識したことは以下の2点。

  1. 全体における「主義」の発達は、ある主義が別の主義に打ち勝つことではない。

  2. それぞれの主義が担っていた役割を失わせずに、より大きな生態系の中へ配置し直す行為だと考えている。












はじめに

資本主義が指す内容を整理する

資本主義という単語は、誤用が多すぎてそのままでは扱いにくい。

資本主義社会の中で起こりうる現象や、特定の歴史的形態としての資本主義の結果と、資本主義が指す機能を分けよう。

資本主義の中核的な普遍な点をシンプルに言えば、

生産手段を私的に所有できるものとする。
その所有者は資本の出資者であることを基本とする。
生産物を市場を通じて資源配分を行う。

本質には、所有・資本・交換がある。

お金を使うか否かは資本主義かどうかとの関係はない。

個人が生産資源を所有をすること、その際に資本たるものを持ち出した人が持ち主であると言う主義である。

対して社会主義は、生産手段を社会的・共同的に所有し、私的所有による資源配分を制限するものである。

つまり、資本主義と社会主義という政治経済上の用語よりも、より根本には「所有」と「共有」をめぐる構造に目を向けることで再解釈が建設できる。












資源の視点 : 共有と所有

共有主義

共有主義とは、資源や価値を共同的なものとして扱う立場である。

共有地、共同体、コモンズ、相互扶助、知識の共有、文化の継承などは、共有主義的な性質を持つ。

人類史を長いスパンで見ると、共有主義は単なる政治思想ではない。
むしろ、人類の発展そのものが、共有可能性を拡張する歴史だったとも言える。

  1. 言語の発明によって、経験や知識は他者と共有可能になった。

  2. 文字の発明によって、知識は時間を超えて共有可能になった。

  3. 活版印刷によって、知識は大規模に複製され、広範囲に共有可能になった。

  4. インターネットによって、知識は即時的かつ双方向に共有可能になった。

  5. AIによって、知識は検索されるだけでなく、対話され、再構成され、個別の文脈に応じて利用可能になりつつある。

この流れは、共有主義が目指してきたもののひとつの結実として見ることができる。

つまり、人間が持つ知識、意味、技術、経験を、より多くの人がアクセス可能なものにしていく流れである。




所有主義

一方で、所有主義とは、資源や価値を特定の主体に帰属させる立場である。

私有財産、法人所有、土地所有、知的財産、契約、排他的利用権などは、所有主義的な仕組みである。

所有主義はしばしば共有主義の敵として語られる。

しかし、所有は単に共有を妨げるものではない。所有には、責任の所在を明確にし、投資を可能にし、管理や保護を成立させる機能がある。

誰のものでもないものは、誰も責任を持たないものになりうる。

逆に、所有によって管理主体が明確になることで、資源は維持され、改善され、長期的な投資の対象となる。

したがって、共有と所有は単純な敵対関係ではない。

高度な共有を成立させるためには、所有によって守られているものをどう損なわずに共有へ開くかが重要になる。




共有と所有の状態推移

歴史的には、次のような推移が見られる。

共有主義

所有主義

共有&所有

  1. 前近代的な共同体では、多くの資源や知識が共同的に扱われていた。

  2. しかし、それは同時に閉じた共同体の中に限定された共有でもあった。

  3. 近代は、主義そのものではなく「所有権」の仕組みを発達させた。

  4. 個人、法人、国家といった主体が明確になり、所有と契約によって大規模な社会運営が可能になった。

  5. しかし、その結果として所有主義が過剰になると、知識、土地、技術、関係性が囲い込まれ、共有可能性が失われる。

そのため現在の課題は、共有か所有かを選ぶことではなく、所有によって守られている責任、投資、持続性を欠損させずに、共有可能性を拡張することである。

これは、共有&所有の段階である。












権限の視点 : 自治と統治

自治

自治とは、自分たちに関する決定を自分たちで行うことである。

自治が高い状態では、当事者が意思決定し、必要な知識や能力が現場に残り、生活や共同体を維持する力が内部に蓄積される。

自治は単なる自由ではない。

自由に決められるだけでなく、決めたことを実行し、維持し、責任を負う能力まで含んでいる。




統治

統治とは、意思決定権や管理能力が外部や中心に集中することである。

国家、官僚制、企業、専門家制度、プラットフォームなどは、統治的な構造を持ちうる。

統治はしばしば否定的に語られるが、統治にも機能がある。

標準化、大規模協調、法的安定性、安全保障、公共インフラの維持などは、一定の統治的な仕組みなしには成立しにくい。

問題は統治そのものではなく、統治が自治を破壊し、当事者側の能力を奪い、依存を固定化するときである。




自治と統治の状態推移

歴史的には、次のような推移が見られる。

自治→統治→自治&統治

  1. 小規模共同体では自治が可能だった。

  2. しかし、それは閉鎖性、排他性、局所性も伴っていた。

  3. 近代国家や近代組織は、統治を発達させた。これによって大規模な協調、制度、インフラ、法秩序が可能になった。

  4. しかし統治が過剰になると、現場の判断力や自律性は失われる。

  5. したがって次の段階では、自治的な生態系の成立と、統治的な生態系の補助を両立させる必要がある。

重要なのは、自治か統治かではない。自治が成立するために必要な統治を使い、統治が自治を破壊しないように設計することである。












関係の視点 : エッジとリレーション

エッジ主義

エッジ主義とは、「主体から対象」へ向かう意味づけを世界の基本単位として捉える立場である。

同じ対象であっても、主体によって意味は異なる。

私にとってはエンタメグッズとして見ているものが、あなたにとっては狂気的な人の怠惰の象徴であるかもしれない。
(↑酒)

私にとっては頼れる人である相手が、別の人にとっては怖い人であるかもしれない。
(↑親)

つまり、対象そのものよりも誰にとって何であるかが重要になる。
エッジ主義におけるエッジとは、単なる接続ではなく、方向性を持った意味づけである。

エッジ主義は、パースペクティブ主義に近い。世界は中立的な対象の集合ではなく、主体ごとの意味づけの束として現れる。




リレーション主義

リレーション主義とは、主体同士の関係を世界の基本単位として捉える立場である。

例えば、

  • 私とあなたはクラスメイトである。

  • 私と母は親子である。

  • 私と学校は生徒と学校の関係にある。

ここでは、主体がそれぞれ何を意味づけているかよりも、主体同士の間にどのような関係が成立しているかが重要になる。

リレーション主義では、主体は孤立して存在するのではなく、関係の中で役割や意味を持つ。

クラスメイトという関係があるから、私とあなたは互いにクラスメイトとして現れる。

親子という関係があるから、親と子という主体が成立する。

この意味で、リレーション主義は、個々の視点よりも、主体間に成立している関係構造を重視する。




エッジ主義とリレーション主義の違い

エッジ主義は、主体ごとの意味づけを重視し、リレーション主義は、主体間の関係構造を重視する。

エッジ主義では、

私 → 世界

という方向性が重要になる。
リレーション主義では、

私 ↔ あなた

という関係性が重要になる。

前者は、意味は主体の視点から立ち上がると考える。後者は、主体は関係の中で立ち上がると考える。




エッジとリレーションの状態推移

世界観の推移としては、次のように整理できる。

リレーション→エッジ→エッジ&リレーション

  1. 前近代的な共同体では、人は関係によって定義されていた。

  2. 家、村、身分、宗教、共同体の中で、自分が何者であるかが決まっていた。

  3. 近代は、そこから個人の視点や主体性を切り出した。

  4. 私は私であり、私にとって世界がどう意味づけられるかが重要になった。これはエッジ主義的な転回である。

  5. しかしエッジ主義だけでは、社会や生態系を十分に説明できない。

  6. 各主体がそれぞれの意味づけを持つだけでは、関係の持続性や全体の構造が見えなくなる。

  7. 一方で、リレーション主義だけでは、個々の主体が持つ視点、欲望、意味づけ、価値判断が消えてしまう。

そのため次の段階では、エッジとリレーションを同時に扱う必要がある。
関係が主体を生み、主体はそれぞれの視点から世界に意味を与える。
これが、エッジ&リレーションの段階である。












主義の推移とインテグラル理論

※インテグラル理論そのものの解説は原典等をご確認ください。

第一次層と第二次層への理解

Purple、Red、Blue、Orange、Greenまでが第一次層、Yellow以降が第二次層として扱われる。

第一次層の特徴は、それぞれの段階が自らの価値体系を中心化しやすいことである。

  • Purpleは共同体的な結びつきを重視する。

  • Redは力や衝動を重視する。

  • Blueは秩序、規範、権威を重視する。

  • Orangeは個人、合理性、達成、市場を重視する。

  • Greenは平等、多様性、関係性、共有を重視する。

これらはどれも重要な価値を発見している。しかし第一次層では、それぞれの価値がしばしば他の価値を否定する形で現れるやすい傾向にある。

  • OrangeはBlueを古い権威として否定し、

  • GreenはOrangeを競争的で搾取的なものとして否定する。

  • BlueはGreenを秩序を壊すものとして否定する。

  • RedはBlueを抑圧として拒絶する。

つまり第一次層では、主義は二項対立として現れやすい。




PurpleからGreenまでの構造

ここまで整理していた3軸での整理をしてみる。

Purple
・共同体的な関係が中心である。
・個人は関係の中に埋め込まれている。

Blue
・共同体的関係は秩序や規範によって安定化される。
・ここでは統治の構造が強くなる。

Orange
・個人の視点、所有、合理性、達成が前面に出る。
・これはエッジ主義と所有主義が強く発達する段階である。

Green
・Orangeによって切り出された個人主義や所有主義への反省が起こる。
・再び関係性、共有、多様性、包摂が重視される。

この意味で、Greenまでの発達は、リレーション→エッジ→リレーションへの回帰として見ることができる。

ただし、Greenのリレーション主義は、まだOrangeを十分に統合できていないことが多く、所有や個人性や階層や統治を否定しがち。

結果として全体の生態系を安定的に扱うことが難しい。




Yellowの持つ構造

Yellow以降では、主義は「対立するもの」ではなく「機能」として捉えられるようになる。

Yellowはエッジ主義とリレーション主義を対立させない。

  • 主体ごとの視点や意味づけは必要である。

  • 同時に、主体間の関係や全体の生態系も実在する。

この両方を同時に扱うことが、Yellowの特徴である。

  • エッジ主義だけでは、個々の主体の視点は見えるが、全体の生態系が見えない。

  • リレーション主義だけでは、関係は見えるが、主体ごとの意味づけや非対称性が見えにくい。

  • Yellowは、いつも主体、関係、全体の生態系を同時に見る。

これは所有と共有にも対応する。

  • 共有主義だけでは、個々の主体が守るべきものや責任の所在が曖昧になる。

  • 所有主義だけでは、価値が囲い込まれ、共有可能性が失われる。

  • Yellowにおいては、所有によって守られている責任、投資、持続性を欠損させずに、共有可能性を拡張することが重要になる。

自治と統治についても同様である。

  • 自治だけでは、大規模協調や制度的安定性を維持できないことがある。

  • 統治だけでは、現場の能力や当事者性が失われる。

  • Yellowでは、自治的生態系の成立と、統治的生態系の補助を両方とも適切に使う。

つまりYellowとは、

  • エッジとリレーションを同時に扱う

  • 自治と統治を機能として使い分ける

  • 共有と所有を相互補完的に設計する

  • 全体の生態系を実在するものとして捉える

という段階である。
端的にいえば、

"誤解なく全体を見る。"

それだけがYellowをYellowたらしめている根源である。

  1. 全体が見えていない可能性がある

  2. 誤解がある可能性がある

この2つの態度無くしてYellowたる影響力に到達することはできない。

ここで初めて、主義は思想的な正しさの競争ではなく、生態系設計の道具になるんだと思う。




Turquoiseの構造

Turquoiseでは、Yellowで構造的に統合されたものが、より自然な全体性として現れている全体像のように見える。

Yellowは、
複数の原理を見分け、配置し、設計する段階。
ある種、常に意図を持つ。

Turquoiseは、
それらが継続性を持ったひとつの全体として機能する段階である。

エッジとリレーションは、もはや対立しない。

  • 主体ごとの意味づけがあり、

  • 関係があり、

  • その関係がさらに全体の生態系を形成している。

自治と統治も、対立しない。

  • 自治的な単位が自律的に動きながら、

  • 必要に応じて統治的な構造が補助する。

共有と所有も、対立しない。

  • 所有によって守られるものがあり、

  • その保護を損なわずに共有可能性が拡張される。

Turquoiseとは、これらの統合が一時的な調整ではなく、持続的な生態系として成立している「全体状態」である。

ここでは、全体は単なる個々の要素の集合ではない。

主体、関係、所有、共有、自治、統治が相互に作用しながら、自己維持する全体として現れる。








世界の状態推移

まとめると、世界は次のような状態推移を辿っているように見える。

所有

共有→所有→共有&所有

ガバナンス

自治→統治→自治&統治

世界観

リレーション→エッジ→エッジ&リレーション




この推移は、単なる歴史的な順番ではないと思う。
世界を理解し、運営し、共有するための主義そのものの発達。

第一次層では、それぞれの主義が自らの正しさを主張する。
第二次層では、それぞれの主義が持っていた機能を失わせず、全体の生態系の中に配置し直す。

つまり、世界の発達とは、ある主義が勝利することではないよな。と改めて感じている。重要なのは、それぞれをどの段階で、どの範囲で、どのように機能させるか。

世界の状態推移とは、二項対立の歴史ではなく、主義のアウフヘーベンの歴史としても理解することができる。








あとがき

「実態の発達」を「自意識の発達」が阻害する

私にとって、この整理を通じて得た中で、貴重な学びは以下の部分。

世界の発達とは、ある主義が勝利することではない。
重要なのは、それぞれをどの段階で、どの範囲で、どのように機能させるかである。

この1つ1つの段階をスキップしてしまいたくなる。
1つ進んだ時に、1つ前の段階に対して妬んだり、無理やり違うステップに連れてきてしまった過去が自分にも思い当たる。

それをしてしまうと特定の発達ステージへの滞在が過剰に長期化するんだと感じている。

長期化した時、
肥大化した自意識を持ちやすく、
人は第二次的な創造を夢見ながらに、
第一次的な創造を自己にも他者にも押し付ける

そんな状態になってしまうことを自分の中にも観察している。

それは、ある種、「何もしない大人たち」よりも全体にとって迷惑な可能性すら出てきてしまう。

自戒を込めて。

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