著名人の個人的な発信を、支援者・当事者としてどう読むか——吉本ばななさんのnote記事をめぐって
吉本ばななさんのnote記事をめぐって、さまざまな反応が広がっています。
賛否が分かれ、時には感情的なやり取りも見られる中で、私は少し違う角度からこの記事に向き合ってみました。
私はこれまで吉本ばななさんの著書を、熱心な読者として追ってきたわけではありません。
20歳でカルト宗教から離れて以降、小説や文学に触れる心の余裕を長く持てなかったためです。
そのため今回のnote記事は、「著名な作家の家族エッセイ」としてではなく、地域包括支援センターで16年間勤務してきた社会福祉士として、そしてカルト宗教2世当事者・公認心理師として読みました。
私が特に考えたのは、「逆境的小児期体験、つまり子ども時代の虐待・支配・家庭内の機能不全などの影響が、人生の後半にどのような形で現れるのか」ということです。
文体やご家族に関する記述については、ソーシャルワーカーの基本姿勢である「非審判的態度」を心がけました。
また、当事者性については、「ピアサポーター視点」で読み解きました。
同じ傷を持つ者として安易に同一化しすぎず、かといって他人事として切り離しすぎることもなく、慎重に距離を取りながら読む姿勢です。
私にとってこの記事は、「日本の社会で実際に起きている現実の一コマを、著者の立場から言語化した文章」として受け止められました。
なぜこの読み方が必要なのか
著名人や公の場で発信する人が、自身の家族や過去の経験を語るとき、そこには必ず「語り手の主観」と「読み手の解釈」が交差します。
特に家族内の困難やトラウマに関わる内容の場合、読む側にも慎重さが求められます。
私は、次のような視点を持つことが大切だと考えています。
その発信を「個人の問題」として片づけるのではなく、社会的な文脈の中で捉えること
支援者として読む場合は、「非審判的態「非審判的態度」を保つこと。 当事者として読む場合は、自分の経験と安易に重ねすぎないこと。 どちらの立場であっても、「この発信が誰を傷つける可能性があるか」を考えること。 同時に、「この発信によって救われる人がいる可能性」も見落とさないこと。者として読むこと、当事者として読むこと
支援者として読むとき、私は「何が正しいか」だけでなく、「何が起きているのか」を見ようとします。
そこにセルフネグレクトがあるのか。
家族の境界線が失われているのか。
支援拒否の背景に過去の傷つきがあるのか。
そうした問いが浮かびます。
一方で、当事者として読むときには、別の揺れがあります。
家族の中で自分の感覚を信じられなくなること。
支配されていることに気づけないこと。
助けたい相手から離れることに罪悪感を持ってしまうこと。
そうした感覚は、私自身にも無関係ではありません。
だからこそ、私はこの記事を単純に「良い」「悪い」と評価することができませんでした。
そこには痛みがあり、危うさがあり、倫理的に考えるべき点もあります。
しかし同時に、誰かの沈黙していた経験に言葉を与える力もあります。
おわりに
私は、吉本ばななさんのnote記事を「正しい」「間違っている」と評価するつもりはありません。
ただ、支援者であり当事者でもある立場から、どう向き合うかを自分なりに考えました。
著名人の個人的な発信は、これからも増えていくでしょう。
そのとき、私たちはどう読むのか。
断罪するのか。
同一化するのか。
消費するのか。
それとも、そこにある痛みと構造を見ようとするのか。
この問いを、これからも自分の中に持ち続けていきたいと思っています。
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