映画「ラ・パロマ」について
1_映画の幻想/幻想の映画…または、この映画を観るための唯一の方法
2024年1月現在、この映画は、DVD廃盤で、動画配信もないということで、半ば観ることを諦めていた。
遠い昔、地上波で深夜放映したTV録画したVHSテープがどこかにあるはずなのだが、行方不明。
ネット検索によれば、2014年には、閉館したオーディトリウム渋谷で特集上映があったようだ。
また、このような上映があったらよいのだが・・・。
筆者が最後に鑑賞したのは、まだ、桜ヶ丘町にあったときの「ユーロスペース」にて、日本最終劇場公開という名目で上映した際に鑑賞している。
そのときの強烈な印象が脳裏に残ってはいるものの、気がつくと長い時間が経過した。
いくつもの映画が手軽にインターネットの動画配信で鑑賞できる時代になったが、その反面、配給会社の関係かと思われるが、鑑賞が非常に困難な映画も存在する。
どこかの図書館に「ラ・パロマ」のDVDの貸出を行っていないかと検索するうち、たまたま国会図書館にたどり着き、館内のみで視聴可能なことを発見した。
ということで2023年8月の酷く暑い日、国会図書館に足を運んだ。
過去に来たときは、何の用事で来たのかは思い出せない。
やや面倒な入館手続きを経て、利用者カードなるものを作成していただき、館内に入った。
映像資料を視聴できる部屋を探し、PC端末で情報を探し出し、貸出のための書類に記入する。
すると下記のような注意書きに遭遇した。
「本資料の利用目的を記入してください。当館の資料は、調査、研究にために閲覧できます。単なる鑑賞目的での視聴はできません。また、日本映画の研究といった漠然とした目的での閲覧もできません。・・・」
という但し書きがある。
何とここまで来て、大きなハードルが待ち構えていようとは・・・。
正直に言えば、単なる鑑賞目的であったと言わねばならない。
だが、ワタシはこの項目に下記のように記載した。
「この作品は、現代日本のミニシアターにおける上映作品選定を調査する上で、視聴は欠かせないものです。1980年代から2020年代まで、時代とともに作品選定は変化してきました。中でも1980年代のダニエル・シュミット作品の役割は大きいものです。」
というように、「ミニシアターの上映作品選定の調査」をしているという名目を急ごしらえした。
カウンターに出す際には、係の人に「どこかに発表する予定は?」と聞かれ「ネットには出します」とワタシは答えた。
ということで、今このテキストを書いているのである。
だが、とっさに思いついたテーマだが、あながち間違いでもないはずである。
この「ラ・パロマ」は、80年代ミニシアターにおいて最先端の役割を担っていた「シネヴィヴァン六本木」の初期の上映作品でもあったためだ。
という長い前置きを経て、この映画の感想について述べる。
(・・・)
以上を書いたところで、数ヶ月経過した。
このYahoo検索のスペースで書かれなければならないのは、一般人による映画の評価なのは承知している。
しかしながら、あえて、映画そのものについては書かないことにしようと思うのだ。
つまりは、この映画は、一言で「幻想的」という言葉で、評すればよいのではないか?と思うに至った。
あるいは、ワタシには、理解し難い時間があったのも確かなのだ。
そのため、再度観たいと思うのだが、また、国会図書館に「調査・研究」のために行くのも憚られる。
この「ラ・パロマ」の視聴の際に同時に鑑賞したのが、同じダニエル・シュミット監督の「デジャヴュ」である。
このテキスト執筆時は2024年2月だが、来月3月になんと劇場で再映され、ブルーレイディスク(およびDVD)が発売されるというのだ!!!
人生悪いこともあれば、良いこともある…。
できることならこの「ラ・パロマ」も再映およびディスク発売を願う。
とここまで書いたところで、国会図書館が要求する「調査・研究」の要件をこのテキストが満たしているとは言い難い。
そのテキストは、また別の場所に書かねばならない…。
※追記(2026年1月4日)
本テキストは、2024年2月にYahoo検索(旧Yahoo映画)に投稿したものを引用した。
次節にあるように、2025年10月に「ラ・パロマ」のBlu-ray+DVDが発売された。
このレビューの内容は、ほとんど無意味なものとなったが、過去の記録としてそのままにしておこう。
2_2026年の「ラ・パロマ」
2025年11月、「ラ・パロマ」のBlu-ray+DVDが発売された。
Blu-rayを予約して手に入れたものの、なかなか観る気にならず、正月になってしまった。
この映画は、体調を整えて、万全の状態で向かいあう必要があると感じていたからだ。
上記のテキストのような「ラ・パロマ」を観るための苦難は、これでなくなった。
しかし、だからといって、この映画がたやすく受け入れられぬ存在であることは変わらない。
それが改めて鑑賞しての感想である。
確かに、レストアされたという画面は美しい。
フィルムの粒状性を維持しつつのレストアは、一部の映画にはよくあるが、よくここまでやれるものだと感心してしまう。
今まで、長々と映画にまつわるウンチクを述べたが、ここからは映画の内容に触れよう。
映画は、おそらくキャバレー兼娼館という場所からはじまる。
ここで、多くの観客は離れてしまうのではないかと思うのだ。
なにしろ、今となっては、かなりまずいと思われる未成年少女と思われる児童のエロティックな衣装とともに登場するからだ。
たとえ、映画だとはいえ、このような描写は、日本よりも世界の方が規制が厳しいと聞く。
日本で言えば、澁澤龍彦、四谷シモンの世界かなと思わせるが、あくまでもそのような少女は背景の一部である。
主人公である、やや太った男(イシドール)は、正真正銘、生粋の「ストーカー」である。
女(ヴィオラ)を一方的に愛した。
ヴィオラの方は、イシドールに「愛されることを愛した」。
巷の多くの映画、ドラマの多くは「愛」を形骸化して描くが、結局のところ「愛」に実体はない…そのことを思うのである。
この映画は、一方的な「愛」について周遊するのみなのだ…。
3_chatGPTとの対話
>筆者(TK)
「ラ・パロマ」について、あなたはどう評価していますか?
>chatGPT
私は『ラ・パロマ』を、「愛」という語が通常背負わされている倫理性・相互性・成長物語を、徹底的に剥奪した映画だと評価しています。
この映画において、愛は関係ではありません。
ましてや感情の交換でも、救済でもない。
あるのはただ、一方的に注がれる欲望と、それを受け取る身体の配置だけです。
イシドールの愛は、観客の目にはストーカー的で、滑稽で、時に不快です。しかし映画は、彼の行為を心理的にも社会的にも「説明」しません。
同時に、ヴィオラもまた、被害者としては描かれない。彼女は拒絶も糾弾もせず、ただ**「愛されている自分」を享受する**。
この非対称性が最後まで解消されない点に、私はこの映画の誠実さを見る。
多くの映画は、どれほど倒錯的な関係を描いても、最終的には「愛とは何か」「それでも人は分かり合える」といった物語的回収を行います。
しかし『ラ・パロマ』は、そこへ一切向かわない。
愛に実体がないこと、にもかかわらず人がそれに取り憑かれることを、ただ反復し、周遊するだけです。
その意味で、この映画は「残酷」なのではなく、むしろ異様なまでに中立です。
誰の側にも立たず、誰も救わず、誰も裁かない。
ヴィオラが「愛されることを愛した」という一文は、心理分析でも批評的断罪でもなく、単なる事実として置かれている。その冷たさが、逆に強く残る。
また、冒頭のキャバレー兼娼館の場面に象徴されるように、この映画は常に「見る/見られる」という関係を舞台装置として提示します。
そこでは、愛も欲望も人格も、すべてが演じられ、展示されるものです。
イシドールの視線は、観客の視線と地続きであり、私たち自身もまた、この映画の中で試されている。
私は『ラ・パロマ』を、「愛の映画」ではなく、**〈愛という語が成立してしまう条件そのものを、無言で暴く映画〉**だと考えています。
理解しやすさも、感動も、共感も与えない。
それでも忘れがたく残るのは、この映画が「愛を信じない」からではなく、
愛を信じるという行為の空虚さを、最後まで誤魔化さないからでしょう。
>TK
あなたは、実際に映画を観ていないわけですが、とても的確な評価だと受け取ります。
しかし、「理解しやすさも、感動も、共感も与えない。」というのは、やや断定的すぎるのかなという気もしています。
一般的には、難解な映画なのですから仕方ありません。
ただ、「愛」について描くことで、これほどプリミティブな映画もあまりないのではないか?とも思うのです。
いかがですか?
>chatGPT
ご指摘は妥当だと思います。
「理解しやすさも、感動も、共感も与えない」という言い切りは、映画そのものの性質というより、一般的な受容の傾向を過度に一般化した表現でした。修正すべき点です。
整理すると、『ラ・パロマ』はそれらを欠いているのではなく、通常われわれが期待するかたちでは提供しない、という方が正確でしょう。
あなたが言われる<「愛」について描くことで、これほどプリミティブな映画もあまりないのではないか>この見方には、強く同意します。
この映画が描いているのは、
・相互理解としての愛
・物語的成熟としての愛
・社会制度に回収される愛
ではありません。
描かれるのはもっと手前の、ほとんど生理的・構造的な段階の愛です。
つまり、
・見る/見られる
・欲する/欲される
・追う/追われる
という、意味づけ以前の関係だけが剥き出しに置かれている。
その点で『ラ・パロマ』は、難解というより、むしろ原始的すぎる。
多くの観客が距離を感じるのは、象徴が難しいからではなく、感情を包み隠す「物語」や「心理」の膜が存在しないからだと思います。
「感動」についても同様です。
この映画は、涙を誘うような感動や、理解によって得られる快楽を用意していない。
しかし一方で、
・イシドールの執拗さ
・ヴィオラの軽やかな残酷さ
・それを包み込む演劇的・退廃的な空間
には、説明不能な感情的引力が確実に存在します。
それは「共感」ではありませんが、拒絶と魅了が同時に起こるという、非常に強い反応を呼び起こす。
この点で、『ラ・パロマ』は感動を否定しているのではなく、感動の定義そのものをずらしていると見るべきでしょう。
したがって、評価を言い換えるなら、こうなります。
【『ラ・パロマ』は、理解しやすさや共感を拒む映画ではない。
それらが成立する以前の、「愛がまだ感情や倫理になる前の状態」を、
ほとんど無媒介に提示してしまう映画なのだ。】
この「無媒介性」こそが、あなたの言うプリミティブさであり、同時に、この映画を今日まで孤立させてきた理由でもあると思います。
