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もう中野ブロードウェイの3階には行かない

中野に住んでもう20年以上になる。田舎から上京して以来ずっと中野に住んでいて、中野区の中で何度も引っ越してはいるが、他の区に引っ越したことはない。

田舎者だった当時の私に中野のイメージは特になかったので、まさかこんなに長く住むとは思わなかった。建物にガタがきたとか、隣の部屋から夜な夜な読経の声が鳴り止まないとか、洗濯機の上に納豆を置かれたとかでもない限り、同じ場所に住み続けることが苦にならない性質だったせいもあるだろう。色んな偶然が重なって、良かったのか悪かったのかはわからないが、結局、中野にとどまり続けることになってしまった。

もちろん中野のことは好きだ。もう実家にいた時間よりも中野に住んでるほうが長くなってるし、第二の故郷みたいなものだ。立地もいいし、飲み屋もごはん屋も多いし、だいたいなんでも揃う。最近では高層マンションも建って、ファミリー層も増えて、どんどん明るい雰囲気の新しい店が増えている。

でも、中野は昔はそんな街ではなかった。もっと怪しくて、汚くて、臭かった。妖怪みたいな婆さんがやってるスナックだかなんだかよくわからない店、何を揚げてるのかわからないくらい衣が厚いフライを出してくる安いだけが取り柄の定食屋、半分潰れかかった映画館、何を誰に売りたいのかもよくわからない中途半端に高い古着屋。中野は自分がどうなりたいのかわからなくて右往左往しているような街で、その中で住人も困惑しながら過ごしていた。

そのピントのずれた街の象徴の1つが中野ブロードウェイだった。駅前の商店街中野サンモールの奥にある中野ブロードウェイは、上層階は住居、下層階は店舗が並ぶ年季の入った巨大な複合ビルで、中野のランドマークの1つとなっている。ブロードウェイという絶妙に古い名前がクラシックを感じさせるが、中野の知ってる場所といえば、中野サンプラザの次に中野ブロードウェイを上げる人も多いのではないだろうか。

しかし、この中野ブロードウェイは”変”な建物である。まず構造が変わっている。4階までは店舗が入っていて、居住区はその上なのだが、1階からエスカレーターに乗ると、なぜか2階を飛ばして3階までいってしまう。2階や4階に行くには階段を使うしかない。どうしてこういう構造になっているのかはいまだによくわからない。

また、出店している店舗も普通ではない。普通の複合ビルなら、生活に密着した商店が多く入るだろう。実際、地下階にはスーパーや魚屋、肉屋、八百屋、100円ショップ、ドラッグストアなどの生活感溢れる商店が並んでいる。1階もなぜか巨大なゲーセンがあるのを除けば、地下よりも店舗数は少ないものの、生活感のある店が並ぶ。

おかしいのは2階より上だ。普通ならちょっとしたブランドショップや無印良品、カルディなんかの少しオシャレで空疎な店があったりするが、ブロードウェイはそうではない。あの「まんだらけ」が入っているのだ。

まんだらけを知らない人は少ないと思うが、一応説明しておくと、いわゆる”オタク”の店だ。

漫画、ゲーム、カード、フィギュア、ドール、コスプレ衣装などなどオタク・サブカルっぽいものだったらなんでも扱うというサブカル複合ショップで、それぞれの分野に専門店を構えている。

まんだらけは居住者がいるビルの下に普通は入居しない類のショップだ。それがなぜか中野ブロードウェイにはある。しかも、まんだらけだけではなく、他にも多数のオタクショップが存在している。流通してるんだかなんだかよくわからない本を売ってる「タコシェ」だとか、誰が集めてるのかもよくわからない輸入物のおもちゃを売ってる店だとか、わけのわからないサブカル=オタクショップがビルの中にひしめいていた。その中心にあるのは、間違いなく3階にあるまんだらけで、エスカレーターを登った先に本店があった。

初めて中野に住んだ私は完全に面食らった。なんなんだ、これは、と。普通に人が住んでるところの下に見たこともない変な店があるぞ、と。私は戸惑いながらも、ブロードウェイの3階に足繫く通うようになる。田舎に住んでいた自分には手に入らなかったサブカルチャーのウェルカムシャワーだった。まんだらけで『ガロ』や『コミックビーム』を買い、山本直樹、華倫変、南Q太、魚喃キリコ、根本敬の漫画を買った。安売りコーナーを漁って乏しいバイト代から100円でなんか”それっぽい”漫画を探して買った。タコシェで委託販売されている一般に流通されてない本(『野宿野郎』とか)を読んだ。4階のSF専門の古本屋でサンリオ文庫に10000円以上の値がついているのを見て、目を剥いた。

私が通っている間に、まんだらけは業績が好調だったのか、順調に増殖していく。2階や4階にマニアックな店舗を増やし、店員の数も増えていった。中野ブロードウェイは一大オタク・サブカルの中心地となり、それは現在まで続いている。

しかし、就職をしてからもしばらくの間は通っていた中野ブロードウェイの3階だったが、私はある時期からめっきりと訪れる頻度が減った。1つの理由は、仕事が忙しくなったことだ。中野ブロードウェイの上の階の店は、平日の20時くらいになるとほとんど閉まってしまうので、仕事が少し遅くなると寄ることは難しい。平日の仕事が忙しいということはそのしわ寄せが土日に来るということなので、休日も頻繁に行けるわけではない。

また、給料を貰えるようになって、財政状態が改善したことも1つの要因だろう。時間とお金の重要性が逆転し、時間をかけて古本を探すよりも新刊をさくっと買った方が”コスパ”がよくなっていた。古本屋をうろつくことが少なくなっていたし、中古の漫画を買ったのなんていつが最後だったか本当に思い出せない。

SNSだって1つの理由かもしれない。暇なときに話してくれる相手もいるし、いくらでも同じ趣向の仲間を見つけて、あっという間に趣味の欲求を満たすことができる。わざわざサブカル本屋に行って、こんなの読んでるの自分だけだろうなんていう回りくどい優越感を持たなくてもいい。

でも、最大の理由はもっと他にある。中野ブロードウェイの3階に最後に行ったのは、引越しの時に大量の漫画を売った時だ。それももうしばらく前だし、その時も久々に3階に来たな、と思ったことを覚えている。まんだらけで漫画を売ってそれなりのお金を貰った後、私は久々に3階をうろうろしてみた。まんだらけだけでなく、時計屋が異常に増殖しているのに気づいた。明屋書店がまだあることにも感心した。その他の知らない店もあったし、まんだらけももちろんあった。しかし、私は何か居心地が悪く、まんだらけ本店の中に入らず、もちろん4階にも2階にも寄らず、早々に中野ブロードウェイを後にした。

それ以来、中野ブロードウェイの3階には行ってない。ブロードウェイの地下の魚屋なり肉屋なり八百屋なりは、今でもしょっちゅう通っている。しかし、そのついでに3階に寄ろうかという気持ちは起こらない。もちろん、まんだらけやその他のサブカルショップが面白くなくなったというわけではないだろう。店舗数が増えていることもあるし、今でもその人気は衰えていないことは明らかだ。そうではなくて、自分がもうブロードウェイの3階を楽しめる人間ではなくなってしまったことに気づいたのだ。

金はなかったけど時間だけはあったあの頃、私は立ち読みをしながら、何か面白い漫画や本を物色していた。しかし、本当の目的は漫画を探すことではなかった。どこへでも行けるけどどこにも行き場がなかったので、なんとなく何かがありそうな中野ブロードウェイをぶらついていたのだ。自分が何者かもよくわからず、ただただ妙な焦燥感だけに突き動かされていたあの頃、あのサブカル濃縮150%空間の片隅に浸っていれば、何もない自分が特別な何かになれるような気がしていた。もちろんそれは愚かな勘違いだったけれど、あそこにいれば、少なくとも自分がただ若くて凡庸な人間であることを正視せずには済んだ。私は「中野ブロードウェイの3階にいる自分」が好きだったのだ。

中野ブロードウェイの3階で買った漫画や本たちの大半は売ってしまったけど、今でも面白かったという印象は記憶は残っている。でも、その本たちは、憧れと焦燥と不安と期待の入り混じった感情に突き動かされて通った中野ブロードウェイの3階で買ったから面白かったんだろう。もうその感情は私にはない。だから、中野ブロードウェイの3階はちょっとくすんだ色の、品揃えが変な店舗が並ぶ商業ビルにしか見えなくなってしまった。

私のそういう時代はもう終わったのだ。たぶんそれは幸せなことなんだろう。だけど、時折、ジーンズのポケットに裸の千円札1枚だけ突っ込んで、まんだらけでぎらついた目で漫画を物色していた頃を思い出すと、頭がくらくらするような気持ちになる。そこに戻りたいのか戻りたくないのかも定かではないけど、もう戻れないことだけは確かだ。

俺はもう中野ブロードウェイの3階には行かない。
もう中野ブロードウェイの3階には行けない。


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