「怖い」と言われて考えたこと
人は自分の鏡だとしたら。
僕はよく「怖い」と言われる。そして大体そのあと、みんなこう付け加える。
「怖いってわけではないんだけど…」
何が起きているんだろう。
そう思って、少し言葉にしてみようと思った。
あるクライアントがいる。しばらくプライベートレッスンを続けて、少しずつ信頼関係ができてきた頃、その人がこんなことを言った。
「実はTakashiさんのレッスン、最初は怖かったんです。全部見透かされているみたいで。」
またある日、後輩と初めて話したとき。何気なく天気の話を振られたから、こう返した。
「それは僕とどんな意図があってその天気の話をしたかったんですか?」
軽い一言だったけれど、「何それ、怖い」と言われた。
別の後輩からはこんなことも言われた。
「Takashiさんって、すごく客観的に見てる感じ。すごいんだけど、ここにいない感じがする。遠い人みたい。」
「人っぽさがないんですよね。だからインスタでカフェ行ってるの見て、みんなちょっと驚いてたんだと思います。」
どうやら僕は、なかなか変なやつらしい。
もし僕がTakashiという人に出会ったら、少し距離を取るかもしれない。
自分の特徴を考えてみた。
僕はよく、人の言葉や行動の裏を考える。
「なぜこの人はこの言動を取るのだろう?」「その背景には何があるのだろう?」
そんなことを自然と考えてしまう。
相手以上にその人の理解を深めてしまうこともある。
そして時々、相手の無意識に触れてしまう。
僕は人に興味がある。だから質問も多い。
でもその結果、相手のパーソナルゾーンに、順番を飛ばして入ってしまうこともあるのかもしれない。
もう一つ、気づいたことがある。
僕はあまり自分の話をしない。
全体や原理原則の話は好きだけれど、Takashi自身の話はあまり出てこない。
生活感もあまりない。
服も少ないし、家にも物はほとんどない。
普通にご飯を食べているだけで、なぜか驚かれる。
そんな自分を眺めているうちに、ひとつ気づいたことがある。
僕はきっと、「自分」というフィルターをできるだけ減らそうとしていた。
できるだけ透明になって、相手の鏡になろうとしていた。
Takashiという存在が薄くなればなるほど、相手はありのままの自分を見ることになる。
でもふと思った。
日常生活の中で、ありのままの自分を見ることなんて、ほとんどないのかもしれない。
鏡を見るときでさえ、人は少し表情を整える。
不意打ちの写真を見たくないのも、きっと同じ理由だ。
そんな中で、「歩く鏡」のような人間が突然現れて、ありのままを映し出したらどうなるだろう。
きっと怖い。
会うのにも、少し覚悟がいる。
それは、少し悲しい。
僕は人が好きだ。
誰かと繋がりたくて、
目の前の人に「大好きです」と言えるように、
他者理解を深めてきた。
でも最近思う。
他者理解は、
人を助ける包帯にもなるけれど、
時には人を傷つける刃にもなる。
「正義なき力は、暴力である」
僕にとっての正義は何だろう。
きっとそれは、
人と繋がること。
居場所をつくること。
だから最近は思う。
遠回りしなくていいのかもしれない。
仲良くなりたいなら、そう伝えればいい。
みんなのことが好きなら、そう言えばいい。
ダメなところも、そのまま出してみればいい。
「不完全な僕」を思うと、少し怖い。
でも対等に向き合いたい。
できれば、一緒に歩きたい。
みんなのそばに、近くにいたい。
ボロボロな手を、差し出してもいいのかな。
まずは僕自身に、その手を差し出してみようと思う。
僕が僕と一緒に歩けたなら、きっと他の人とも一緒に歩ける。
僕が誰かにしてきたみたいに、掴んだ手は離さない。
僕が僕の居場所を作る。僕と繋がりを作る。
自分の内側に、広がりを作る。
僕の世界の広がりを、誰かにも感じてもらえるように。
そしていつか、人と人の世界が重なったとき、初めて人は繋がるのかもしれない。
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