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掌編小説|紙の匂い (朗読可)



紙の匂い



「ねぇ、先生。わたし、知ってますよ?」

編集者が、机を挟んだ距離で立っている。

「先生、AIを使ってますよね」

「使っていない」
即座に答える。

「でも……、迷いが減りました」

原稿用紙を持ち上げる。

指先が紙の端を捉える。

その指の動きを、僕は知りすぎている。

「前は、もっと揺れていました……」

紙の匂いが立つ。

インクと繊維の匂い。

そこに、かすかな体温が混じる。

締め切り前の夜を思い出す。

原稿を持ち込むと、彼女は必ず隣に座った。

「ここ、迷っていますね」

そう言って、行間をなぞる。

指は紙の上だけを滑る。


決して、僕の手には触れないのに、

それでも、なぜか体温を感じた。

「わたし、自分では書けません」
彼女は静かに言う。

「でも、先生が迷っている時間だけは、共有できる」

共有。

それは共犯に近い響きだった。

「整いすぎると、困るんです」
彼女は続ける。

「先生が、わたしを通さずに完結してしまうから」
息が浅くなる。


僕は覚えている。
原稿を送る前、
必ず彼女の反応を想像していたことを。
赤字の入り方、沈黙の長さ、返信の温度。
彼女に読まれない文章を、最後まで書けるだろうか。

背後で、画面が光る。

AIが整然と文章を生成していく。

──これからは、わたしが書きます。

編集者は画面を見ない。

「文章はあれに任せましょう」

距離が縮まる。
肩に手が触れた。

「先生は、迷ってください」

「その時間だけ、わたしにください」

机がある。
紙がある。
僕は理解する。

彼女がいなければ、僕は迷えない。

僕は迷わなければ、書けない。

完成した文章には、匂いはない。

匂いがあるのは──

まだ、誰にも触れられていない

紙だけだ、と。





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