倫理が言うことを聞かない
姉の首筋にナイフを当てたとき
白い衣を纏う樹々の寒さが消えて
赤く笑う姉の口だけが浮かんだ
「生きづらい社会を逃げ出したいの」
「だから私を殺してよ」
僕らは都会のアパートに隠れ住んでいた
姉は左利きで 僕は右利きだから
弱いほうの手を重ねて生きてきた
親もなく 友も遠かったけれど
緩く脆く楽しい時間だった
外で雪がちらつく図書館で
鴎外の高瀬舟を読んでいたら
突然にスマホが震えだして
姉が僕の名前を呼んだ
山奥のバス停に待つ姉は顔を紅潮させて
僕の青い手を奪うように引っ張り
深いふかい獣道を進んでいく
四方を丘に囲まれた場所で微笑んで
そこで僕にナイフを手渡したんだ
職場で付き合っていた男が別の女に走った
同僚も上司も私を苛めてくる
本音で話せる相手は君だけだ
人生はみんな勝手でいいんだ
先生だって自由になることを認めた
生きていれば狂ってしまうんだ
でも死に方を習っていないから
苦しくて仕方がないんだよ
泣きたくても泣けないんだよ
だから私の最期の願いを聞いて
姉に逆らったことなんてなかった
僕の世界は夕陽に溶解していく
僕は姉を愛しているから
姉には生きてほしいから
汚い落ち葉を掴んで説得したけれど
姉はナイフを放さずに告げた
「枯れた言葉では手遅れなんだよ」
これは私の戦争なんだ
馬鹿にした奴らに解らせてやるんだ
うまく生きられない感じやすい人が
どんな風に世界を見てるのか
私の心臓で蠢く獣を解き放って
お前たちのなかにも居るだろうと
白い雪を真っ赤に染めたいんだ
でもひ弱だし 刺し方も分からないんだ
姉と暮らしてきた僕は知っていた
必死にカウンセリングに通っていたこと
自己肯定感を本で勉強してきたこと
身体の不調を隠して笑ってきたこと
すべて悩んで すべて試して
生きて生きて 生きて生きて
生き急いで 生き疲れて
最後に残った選択肢がこれであること
僕は黙ってナイフを握った
姉の首筋にナイフを当てたとき
白い公の正義が説き伏せたけど
赤い私の倫理が言うことを聞かない
歪んでいく雪 思い浮かぶ血潮
僕は腕にちからを込めた
ナイフの柄で彼女の頭を殴って
気絶させたら僕は泣きながら通報した
あとの記憶は覚えていない
霙に濡れた黒い制服が見えただけ
姉は閉鎖病棟へ入れられて
聞いたことのある病名を告げられた
白衣を着たお医者様は僕を褒めたけど
素直に受け取れない 小説にもしたくない
病衣を着る姉を見るたび空には
名残るように赤い雨が降っていた
姉のこころに巣食う獣たちは
薬なんかじゃ殺せそうもない
お腹が痛い 気持ち悪いと呻く病室
死にたいだけで病人扱いされる台本
僕は姉のいのちを優先した
それはそれで正しいはずなのに
僕の血液が言うことを聞かない
だって姉のこころは何処にも救われやしない
苦しい刑期を伸ばしただけ?
正しい選択をした満足だけ?
自棄食いした年越しソバなんて
味も感触もありはしなかった
僕は夢を信じていたのだろう
姉は愛を求めていただけだろう
人間なら当たり前の感情じゃんか
どうしてこんな結末に遭うんだって
神を引き裂いたって過去を逆剥いたって
夜は明けないことを証明しただけだった
その後の姉がどうなったかは
今は語る気になれないけど
世間で異端視された姉は
ほんとは病気なんかじゃないんだ
僕を引っ張ったあの冬も
問題行動なんかじゃないんだ
倒すべき巨大な影は
美しい雪の下に隠れている
僕の選択は間違ってなかったか
疾うに考える作業を諦めたはずなのに
延々と正当化したがるのは何故だろう
詩を吐き続けたがるのは何故だろう
気づいている葛藤の正体を暴いて
もう一つの可能性を創造しつづけて
社会が白色に塗り固まるその前に
僕は赤い詩を書きおろす
また、十二月が巡ってくる
また、愛のない年の瀬が来る
これは、姉の命を守った日の詩
これは、姉の夢を曲げた非の詩
