【短編小説】お茶くみの流儀[日常]
会社のドアを押し開けると、かすかに埃と古い書類の匂いが鼻をかすめた。
築四十年のビル。見慣れた景色の中を、早川綾音はスッとすり抜けるように歩く。
タイムカードを押したあと、自分のデスクに寄らずに給湯室へと直行する。
まだ朝の慌ただしさが始まる前の、ほんのわずかな静寂。その時間が、綾音にとっての“始業”だった。
棚の上からお盆を取り、給湯ポットに手をかける。ポットの中のお湯は、昨日のうちに補充しておいたから問題ない。湯呑は、部長が青磁、課長が朱色の唐草模様、主任は市松模様のマグカップ。もう覚えなくても自然と手が動くほどだ。
「今日もいいお天気ですね」
給湯室の窓の外にちらりと目をやり、綾音は独り言のように呟いた。
誰に聞かせるわけでもない。ただ、ポットから立ちのぼる湯気が、自分の呼吸とともに空間をやわらかく包むのが好きだった。
手早く茶葉を急須に入れ、お湯を注ぎ、人数分の湯呑に分ける。誰かに指示されたわけじゃない。先輩に教わったわけでもない。気づけば“そういうもの”として身についていた、朝のルーチン。
お盆を手に執務室へ戻ると、まだ誰も席にはついていない。カタカタとPCの電源が入る音だけが、やけに大きく響いた。
綾音は、それぞれのデスクにお茶を置いてまわる。どれも決まった位置、決まった角度。微妙に湯呑の柄が見えるようにするのが、自分なりのこだわりだった。
デスクに戻ると、ふう、と一息。自分の席の湯呑は、もちろん空っぽのままだ。
そのとき、ふと視線を落とした湯呑から立ちのぼる湯気が、いつもより淡く感じられた。
――なぜ私だけが?
思わず、そんな疑問が胸をかすめる。
別に嫌なわけじゃない。お茶をいれるのは嫌いじゃないし、誰かの喜ぶ顔を見るのは好きだ。
でも、「やって当然」という空気に包まれていることが、ふとした瞬間に息苦しく感じられるのだ。
「おはよう、綾音ちゃん。今日もありがとうね」
部長が明るい声で言いながら自席につく。綾音は「おはようございます」とにこやかに返す。
表情には何の迷いもない。それが長年染みついた“社会人の顔”だった。
ただ、その笑顔の裏側で、うっすらと心に残る湯気のような疑問は、消えることなくゆらゆらと漂っていた。
明日も、あさっても、私はお茶をいれるのだろうか。
それは誰かのため? それとも、自分のため?
そんな問いが生まれたこと自体に、綾音は少し戸惑っていた。
午前十時。執務室の空気が一段落する頃、綾音はふたたび給湯室へと足を運んだ。
この時間になると、いつの間にか同じような顔ぶれが揃うのが決まりごとのようになっている。
「おつかれ、綾音ちゃん。今日の部長のお茶、少し濃かったかもね」
そう言って笑うのは、経理課の佐藤みずき。綾音より一年先輩で、さっぱりとした性格の頼れる存在だ。
彼女はいつも小さな皮肉を込めた冗談で場を和ませてくれる。
「そうでした?急須を替えたからですかね。いつもより蒸らしすぎたかも……」
綾音が答えると、みずきは「いや、あの人にはそれぐらいがちょうどいいよ」と肩をすくめた。
しばらくすると、もうひとりの仲間が給湯室に姿を見せた。
「遅くなりました~。主任に捕まっちゃって」
高橋志穂。先月、庶務課から異動してきたばかりの新顔だが、あっという間に“お茶くみ組”の一員になっていた。
物腰は柔らかいが、どこか一本芯の通った雰囲気がある。
「それにしても……」
志穂は手元のティーパックを手遊びしながら、ふと口を開いた。
「こうして毎日、自然と集まってるのって、ちょっと不思議ですね。まるで“お茶くみ部”みたい」
「“お茶くみ同盟”のほうがしっくりくるかな」
みずきがすかさず笑いをとるように言い、三人の間に柔らかな笑いが生まれる。
綾音も笑ったが、その言葉にはどこか苦味が混じっていた。
「でも……確かに、自然とやるようになってましたね。誰かに言われたわけじゃないのに」
「そうなんですよ。誰も“やれ”とは言わないけど、やらないと何となく落ち着かない。暗黙のルールってやつですかね」
志穂の言葉に、綾音はゆっくりとうなずいた。
給湯室の片隅。ポットのかすかな音と、コトコトと湯呑を揃える音だけが響いている。
この空間だけ、時間がゆっくり流れているような気がした。
「でも、これって私たちが“やらなきゃ”って思ってるだけじゃないですかね。別に決まりがあるわけでもないし」
志穂のその一言に、綾音は小さく息をのんだ。
誰かが言い出すのをずっと恐れていたような、けれどどこかで待ち望んでいたような気もした。
みずきは湯呑を洗いながら、ちらりと綾音に目をやった。
「綾音ちゃん、どう思う?」
「……そうですね。たぶん、やって当たり前って思われてるのが、ちょっと苦しいのかもしれません」
それは、綾音にとって初めて言葉にする本音だった。
長いあいだ胸の内に押し込めていた小さな違和感が、湯気とともに少しずつ形を成していく。
「ほんとは、誰がいれてもいいお茶なんですよね」
志穂の言葉に、綾音もみずきも、ゆっくりと頷いた。
この給湯室に集う三人は、職場ではそれぞれの部署に属しながら、名もなき“係”として日々を支えていた。
誰からも指名されないけれど、誰かがやらなければいけない仕事。
それを自然と引き受けてきた自分たちに、いつしか共通の温度と呼吸が生まれていた。
言葉にしなくても伝わる共感。
それは派手さはないけれど、どこか心をやさしく満たしてくれるものだった。
お茶の香りがふわりと漂うなか、三人はまたそれぞれの部署へと戻っていく。
給湯室の扉が閉まると、静けさの中にほんのりと残る余韻が、確かにそこにあった。
その日、会議室に配るお茶の準備をしていた綾音は、ふと見慣れない背中に目を留めた。
給湯室の奥、コーヒーメーカーの前に立つのは、今年入社した新入社員――岸田悠斗だった。
白いワイシャツにすこしだけ皺が入っている。コーヒーの粉を測る手つきはまだぎこちないが、真剣そのもの。
湯を注ぎ終えると、岸田は自分で用意したマグカップにそっとコーヒーを注いだ。深く息を吐き、満足げな顔。
「……岸田くん?」
思わず声をかけると、彼はびくりと肩を揺らした。
「あ、早川さん。すみません、邪魔しちゃってましたか?」
「いえいえ、そんな。コーヒーいれてたんですね」
「はい。自分、ちょっと薄めが好きなんで……自分でやったほうが失敗しないんです」
そう言って岸田は照れくさそうに笑った。
若さ特有の無垢な表情。けれどその中に、どこか揺るがないものを感じさせる。
「へえ……いいですね、自分でいれるって。気分が切り替わるかも」
「そうですね。あと、なんか落ち着くんです。高校のとき、図書室の奥に小さなポットがあって、よくコーヒーいれて飲んでたんですよ。クセになっちゃって」
その言葉に、綾音は少し驚いた。
まるで趣味のように自然に“自分でいれる”という選択をしている。そこには義務感も、遠慮もなかった。
会議の時間が迫っていたため、綾音は急いで急須に茶葉を入れ、いつものように湯呑を並べた。
その動作はすでに体に染みついていて、ほとんど無意識に近い。
けれど、さきほどの岸田の姿が、どこか綾音の胸の奥に引っかかっていた。
会議室にお茶を配り終え、給湯室へ戻ると、すでに佐藤みずきが洗い物をしていた。
綾音がそっとその隣に立つと、みずきは小声で囁いた。
「ねえ、見た?岸田くん、自分でコーヒーいれてたって」
「ええ、見ました」
「なんか……気持ちいいよね。ああいうの」
綾音はうなずいた。
誰かが“やらなければいけない”こととしてではなく、“やりたいからやる”というスタンスでいる姿。
それは自分たちが長く忘れていた、ひとつの自由の形だった。
「でも、もしあの子が、入社してすぐ“男が自分でお茶いれるなんて”って言われてたら……たぶん、ああはならなかったかもね」
みずきの言葉は冗談めいていたが、綾音にはそれが冗談に聞こえなかった。
無意識のうちに誰かの行動を決めつけたり、奪ったりしているのは、自分たちなのかもしれない。
そんな考えが、湯気のようにぼんやりと心に広がっていく。
「時代、変わってきてるのかもね」
みずきがふっと笑った。
「え?」
「昔はね、“お茶くみの作法”って本気で指導されたんだよ?湯呑の向き、手の添え方、最後に一礼する角度まで」
「え、それって……マナー講座みたいな?」
「そうそう。新人研修でやらされたもん」
綾音は驚きながらも笑ってしまった。けれど、笑いながらも胸の奥が少しだけざわついている。
“変わってきてる”――それはたしかに実感だった。
けれど、その波の中に、自分はちゃんと乗れているのだろうか。
ただ流されているだけなんじゃないか。もしくは、岸にしがみついたまま、見送っているだけなのではないか。
ポットから立ちのぼる湯気が、目の前で揺れている。
綾音はその向こうに、岸田の姿を思い浮かべた。マグカップを手に、ほっと息をつくあの姿。
――あんなふうに、軽やかに笑ってみたい。
言葉にはしなかったけれど、心の奥で、確かにそう思った。
昼休みも終盤に差しかかる頃。
給湯室にはまた自然と、いつもの三人――綾音、みずき、志穂の姿があった。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出しながら、志穂がぽつりとつぶやいた。
「……お茶くみ、交代制にしてもいいんじゃないですかね」
静かな、けれど思いがけないその言葉に、綾音は手に持っていた急須を落としそうになった。
「交代制?」
みずきが先に声を出す。「ほら、志穂ちゃんってば、また鋭い球を投げるんだから」
「いや、別に今すぐどうこうってわけじゃないんです。ただ……こうして自然に“やる側”が決まってるのって、不思議だなって」
志穂の口調は柔らかいままだが、どこか意志があった。
「綾音さんも、思ったことないですか? なんでいつも自分がやってるんだろう、って」
綾音は一瞬、言葉に詰まった。
まさに今朝、そんなことを考えていたばかりだったからだ。
「……ある、かもしれません。というか、最近特に、ちょっと引っかかってて」
湯呑を洗いながら、綾音は自分の言葉を選びながら続けた。
「誰にも頼まれてないし、感謝されることもある。でも、“やって当然”っていう空気があるのは、正直、しんどいなって思うときもあります」
「私も」
みずきが少し笑って、声を重ねた。
「なんでだろうね。誰も“やれ”って言ってないのに、やらないと妙に気まずい。しかも、いざ『これっておかしくない?』って言い出すのが、一番怖い」
志穂は腕を組みながら、遠くを見ているような目で言った。
「そうやって皆が“気を遣って”きた結果が、今の“慣習”になってるんですよね。上の世代の人たちが作ったものだと思ってたけど、意外と、私たち自身が無意識に守ってるんじゃないかなって思います」
綾音はその言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
今までずっと、自分の中にあったモヤモヤ。
それが、はっきりと形を持って言葉になった瞬間だった。
「……変えたいですね。少しずつでも」
綾音がぽつりと言うと、志穂がうれしそうに笑った。
「じゃあまずは、交代制、やってみますか?」
「いきなり部署全体でとかじゃなくて、私たち三人だけでもいいかもね」
みずきも続けて提案する。「様子見ながら、ゆるく始めてさ」
「いいですね、ゆるく始めるの」
三人は湯呑の洗い物を終えると、それぞれのお盆を片付けた。
その動きはこれまでと何も変わらないようで、でも心のどこかに少しだけ風が吹いたような、そんな感覚があった。
給湯室の扉を開けると、眩しい蛍光灯の下、変わらぬオフィスの景色が広がっていた。
けれど、綾音の足取りはほんの少し軽くなっていた。
何かがすぐに劇的に変わるわけではない。
それでも、小さな革命の種は、確かにまかれたのだ。
翌朝、綾音はいつもより少しだけ早く出社した。
眠い目をこすりながらタイムカードを押し、給湯室へと向かう。昨日の会話を思い出しながらも、自然と手は急須に伸びていた。
お茶の準備を始めるこの時間帯の静けさに、やはりどこか安心してしまう自分がいた。
でも、今日からは少し違う。
――そう、たとえ見た目は同じでも、心の中にある風景は変わっている。
湯を沸かしながら、綾音は小さく息を吐いた。
「おはようございます」
後ろから声がして振り向くと、志穂がエプロン姿で立っていた。
いつもの柔らかな笑顔。だけどその手には、いつも綾音が使っているお盆が握られていた。
「今日は、私がやりますね」
綾音は驚いた表情を浮かべたが、すぐにふっと微笑んだ。
「ありがとう。でも、朝の作業は慣れてるから」
「交代制、今日から始めてみようって、昨日言ったじゃないですか」
志穂は冗談めかして言いながら、テキパキと茶葉を量り始める。
しばらくして、みずきも現れた。
「うわ、もう準備進んでる。さすが志穂ちゃん」
「先に来てたんです」
志穂はちょっと得意げに言って、ポットから湯を注いだ。
三人の手が自然と動き、お盆の上に湯呑が並んでいく。
役割は決まっていない。誰が何を担当するかも決めていない。
それでも、不思議と調和が取れていた。
「……こういうの、悪くないですね」
綾音がぼそっと言うと、志穂とみずきが目を合わせて笑った。
「なんなら、ジャンケンで毎日決めるのもアリだよね」
みずきが軽く拳を構える。
「じゃあ、明日は私がやりますね」
綾音はそう言って、今日は素直に“任せる”ことを選んだ。
給湯室の扉を開けると、いつものように始業準備に追われるオフィスの光景が広がっていた。
電話の音、キーボードの打鍵音、プリンターの唸り声。変わらない日常。
けれど、お盆を持って歩く志穂の姿を見て、綾音は少しだけ誇らしい気持ちになった。
「お、今日は高橋さんか。ありがとうね」
部長が笑顔で受け取る。志穂は軽く会釈をして次の机へ向かう。
何も言わなくても、何かが変わったことに気づく人もいれば、気づかないまま過ぎていく人もいるだろう。
それでいい。
大きな声を上げなくても、少しずつ景色は変わっていく。
自分のデスクに戻った綾音は、まだ温かいマグカップを両手で包んだ。
その中には志穂がいれてくれた、ほんのりと香ばしい番茶が注がれていた。
湯気の向こうに見える景色が、昨日より少しだけ澄んで見えた。
変わることは怖い。
でも、変わらないこともまた、時に息苦しい。
だからこそ――今日も一歩だけ、心の中で小さく踏み出す。
誰に気づかれなくても構わない。
それでも、明日はやってくる。
そしてその明日は、少しだけ違う明日かもしれない。
