中庸とひげ。
最近、洗顔クリームってやつを買ったんだぜ。
あ、いや、買ったというより付いてきたのよ、安売りしてるシャンプーとリンスとがセットになってるあれ、あれを買ったらさ、中にチューブでバターが入ってたんだよ。

チューブでバター
いや、チューブでバターで顔を洗ってないよ。
チューブでバターみたいな入れ物に入った洗顔クリーム?ってやつ?
普段はさ、シャンプーかボデーソープでそのまま顔を洗うやん?
え?
そりゃ、そん時の気分でほら、シャンプーな気分の時もあれば、ボデーソープの気分の時もあるわけよ。
なんせ小学校高学年から中学卒業間際までは、マルコメみそだったからさ。
・・・って、改めてマルコメみそ君を見ると、丸坊主じゃなくて、つるっぱげじゃねーか、お空を見上げた時の俺かよ。

あ、まって、そうそうテレビCMの方だよ、俺が言いたかったのは!

歴代のマルコメ君
※現在、マルコメ君の募集はおこなっておりません。
まぁ、こんな感じで高校に入るまでは生きてたのよ。
だからほら、シャンプーやボデーソープで顔洗っちゃうよね。
いや、まじで何の話なんだよ。
そうだよ、中庸の話だよ。
俺っちさ、ちょうどマルコメ君の頭をしてた時代から高校生時代に、三国志とか三国志とか銀河英雄伝説とかアルスラーン戦記とか燃えよ剣とか竜馬がゆくとかロードス島戦記とか、スターウォーズとか伝説のオウガバトルとかのね、小説とか漫画とか映画とかゲームとか読んだり見たり遊んだりしてたんだよね。
まぁ、控えめに言ってオタクだよ。
だがな、野球部でオタクなんだよな、なんなんだよ俺のマルコメ時代って。
で、中庸って言葉を最初に目にしたのが、三国志だったと思うんだよ。
吉川三国志か横山三国志で、諸葛亮か龐統か徐庶あたりが中庸って言葉を使ってたような気がするんだよな。次に目にしたのが、伝説のオウガバトルだったな、懐かしい。
で、そん時に何かすごくしっくり来たのね。中庸って言葉が。
まぁ、そうなると調べるよね。
当時はスマホなんか無いからさ、国語辞典で調べるわけよ。
【中庸】
読み方:ちゅうよう[名・形動]
1:かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。「—を得た意見」「—な(の)精神」
2:アリストテレスの倫理学で、徳の中心になる概念。過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとした。『デジタル大辞泉』(小学館)より引用
当時の辞典でも、こんな感じの説明だった気がする。
でね、俺って当時は(若干今も)、ジェダイの騎士になりたかったわけよ。
だからね、この・・・
かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。
これがすごくピンとくるわけ。
これだ!って感じ。
まぁ、常に変わらないとか、調和ってなんだ?とか、そのあともすごく悩んだりするんだけどさ。
この中庸を心がける生き方ってのを意識したのが、俺のマルコメ時代なわけ。
で、これ単純に中間とか真ん中、とかそういう意味じゃないんだよね。
「中庸」の『中』とは偏らない。しかし、決して大小や上下の中間を取りさえすればよいという意味ではない。よく「中途半端」や「50対50の真ん中」と混同されている。中間や平均値、足して2で割るというものではない。常にその時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、且つ通常の感覚でも理解できるものである。
当時は、理解するの難しかったけど、なんでもかんでもど真ん中っていうよりも、両側の側面を知ったうえで、まず偏らないで考える、解釈する、理解する、みたいな感じかな。
だから、これを意識してからは、ずっと頭の中で対話してる。
理解できないような意見や言葉があったとしても、それをそっちの立場やあっちの考えで考えてみる、ってのをやるようになった。
まぁ、おかげで自分が何者なのかが、よくわからんようになるんだけどね。
自分見失うと戻ってこれなくなるから、ほんとにしんどいよ、慣れるまで。
ほいで、あと、俺が魅かれた点のもう一つが、これ。
現在、多くの学者たちは、『庸』が「優れた点や変わった点を持たない」(用例:庸才)と「平常」(用例:庸民)との両方の意味を含んでいると見ているほか、『庸』は「用」であるという説もある[2]。つまり、中の道を「用いる」という意味だというのである。
中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。
特別な勉強してなくても、誰にでも発揮することができる・・・
聖人でも難しいのに、誰にでもできる事ってのが何か、ええやん?
なので、生き方として中庸を志すってのは、すごく俺なりにしっくりきたのよね。
だから、いつも両極端を考えて、理解しようとして、意識して。
その中で、自分なりの真ん中。
その時々で、自分が理解できる範囲で、自分に無理がない場所に立ち位置を置く感じ。
何かを切り捨てるわけでもなく、両方あるんだけど、その時点の俺の到達点でどっちかにも偏ってない立ち位置で物事を考えたり捉えたりする。
だから、時期や状況によっては偏ってるかもしれないけど、自分の中で調和がとれてる感じ。
なんども言うけど、自分の中に両方あるんだよね。一度内包してしまう。
自分なりに。
二つの極端を自分の中で見つける事ができたら、そこで初めて自分の中で、一番しっくりできる真ん中を見つけることができるわけよ。
そのあたりに自分を置いておく感じ。
それは、傾いたりするから時々動くんだけど、自分は無理してないし、動いていい。ちょうどいいのが良いんだから。
でも、ちゃんと両端も見てないとだめ。
ちょうどいいだけを見ててもダメなんだよね。たぶん。
いや、知らんよ、俺の頭と心の中の話だし、中庸ってもしかして全然違う意味かもしれんし。
だけどまぁ、俺の中ではそんな感じ、中庸ってのは。
そんなわけで俺は、そうやって物事を見るように努力してる。
いつもできてるわけじゃないけど、いつもできてる俺と、いつもできてない俺の、ちょうどいい真ん中が、きっとちょうどいい俺なんだよ。
そのちょうどいい俺で、生きてくのを決めたのよね、マルコメ時代に。
で、これって内心だけの話じゃなくて、いろんな相手や対象物とか概念とか思考とか思想とか好きとか嫌いとかに触れた時も同じ。
そっちとこっちのちょうどいい塩梅に自分の身を置く感じ。
それはど真ん中じゃないかもしれない。
でも、俺の中で調和がとれてる場所。
だから、両方に触れててもしんどくないわけ。
なにか違和感とかしんどさがあったらさ、しんどかったり居心地悪かったりするわけよね。そういうところを無理しないんだけど、何回も言うけど、両方を自分なりに消化した(しようとしてる)上での話ね。
上があれば下があるし、右があれば左もある。
自分なりに調和をとる。
何か考えたり見たり聞いたり、そもそも生きてるってさ、そういうなんていうかさ、自分と世界との間で調和をとるって感じなんじゃないのかな。
俺は、なんとなくそう思うんだよ。
なんとなくね。
ふわっとしてていいのよ、生きてんだから。
一定の期間で細胞が全部入れ替わってんだよ、俺たち。
偉そうにでかくなってもさ、ずっと同じ物体や器じゃないわけよ。
身体って。
同じように見えるけどさ。
そこに違和感ないけどさ。
聞いた話だけど、細胞と細胞の間も見方によったらすごい隙間あるらしいもんね。俺たち隙間だらけなんだぜ、びっくりだぜ。
#なんのはなしですか
細胞が入れ替わった前後の俺たちって、本当に同じ俺たちなのか誰も証明できないよね。
ただ、記憶っぽいものが連続してるくらいのふわっとした存在なんだよ。
その記憶だってさ、今から過去を振り返るしかないからさ、本当にその過去を生きてたかどうかも本当はわからんよね。
なんとなくつながってるけどさ。
だいたい何の話なんだよ、考え過ぎてふわふわするじゃねーか。
こういう事ばっかり考えてんだよ、仕事してないときは。
まじでやべーよ。
仕事しよ。
・・・まぁ、あれだ、
なんでもちょうどいいって感じで生きてんのがいいのよ。
そう、ちょうどいい所で落ち着くんだよ。
だがな、なんでだよ。
なんで俺の毛根はどんどん減ってくんだよ。
おでこが広がった分だけさ、他のところが増えてもいいじゃない。
あ、いや、・・・別に増えなくていいわ。
俺と毛根の中庸ってのは、どうなってんだかな。
こいつと向き合うのが、俺っちの人生、俺のちょうどいいってやつだよな。
きっと。
・・・・・・・・・・
つづく、かもしれない物語。
この物語はフィクションです。
実在の人物や団体、国家などとは一切関係ありません。
俺も実在していません。
・
・
・
・
・
★ 前回までの髭剃物語・・・
☆ マガジン
いいなと思ったら応援しよう!
応援いただけると励みになります☺️