出来事を意味づける|生に対する積極的態度
こんにちは。
膠原病・皮膚筋炎難病OLのAです。
ステロイド生活も10日を越え、入院生活は2週間が経過しました。穏やかなのか、穏やかで無いのかよくわからない日々を過ごしています。
自分の今置かれている状況が何か不思議な感じがします。
前から起こった出来事に対してアレコレ考える気質ではありましたが、私の人生の中でも大きな「出来事」といえる(おそらく)病気を前にして今思う考えを書き出してみようと思います。
なので、今回は「出来事」について書いてみようと思います。
出来事を自分から意味付けることで世界から「押し付けられた」といえる出来事(自分にとって不本意な事=嫌な出来事)に抗えるような気がする。
出来事そのものに不服というよりも、世界に勝手に出来事が差し出される、という事がなんだかしゃくにさわる。
なので自ら積極的に出来事を解釈しようと思う。
「出来事」に意味をつける
「起こった出来事は良くも悪くもない」という話があります。起こった出来事に対して自分がどう解釈するか、が大切だという話です。
この考え方でいえば、自身の「過去」も意味付けし直せるということができると思います。
苦しい我慢という過去があるとする。これを「ただ外部から与えられた苦痛の毎日。性格が卑屈になっただけで自分の人生にとって何の価値もない」と意味付けすることもできます。
このままの解釈でいくと、世界に勝手に押し付けられた出来事をそのまま「クソである出来事」として自分の中で消化されるだけとなってしまいます。
ここに、自分で解釈をつけようとしてみる。
特に何を意味付けるかわからなくても、何かつけてみようとする。そうすることで何か「自分で選んだ」というような生に対する積極性も出る気がします。そして出来事をむしろ「利用」してやっている気にもなれる。
例えば今の私の現状でいえば、難病。膠原病・皮膚筋炎。この出来事をどう解釈するか、意味付けるか考える事ができます。
単に「なぜこの身体にしたのか」「仕事はどうなる」「将来は?」と病気に対しての解釈を考える事もできます。
しかし、私は今までの自分に対する感謝の念の方が先に湧きました。感謝の解釈です。
普通に過ごしてきた頃は気がつかなかった。自分がここまで無理をして動いてきた事に。ずっと我慢してきた。努力してきた。誰に認められなくても一生懸命生きてきた。よく死なずにここまで生きてこれた。
身体も不思議なもので、どこかが動かなくなっても他のまだ動ける場所で身体を動かそうとしてました。
きっと身体だけでなく、心もそうなのかもしれません。壊れてもどこか残っている部分で必死に置かれた環境にしがみつこうとしている。
私はこの「病気という出来事」を通して「環境に無理してしがみつく」自分に気がつきました。自分の身を削ってでもそうしてしまう胆力が私にはあるようです。それは世間にとって都合よく動ける機能が社会人というものだからかもしれません。そうしなければならないと思っていました。(ただでさえ社会不適合なところを押さえて我慢してるのにね)
そこではっきりとしてきた事があります。
私は「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が嫌いだったという事です。今も嫌い。ただそうであったという事に改めて気がついた。
どこかの偉いシスターの言葉なのでしょうし、一度本も読んだことがありますが、私の経験でいわせてもらえばそれはただのやせ我慢です。自分で選べない者の言い訳だと思います。生に対する積極性が感じられません。出来事に対する解釈を全部他任せにしているカンジがします。
世間は置かれた場所で文句も言わず、疑問も持たず、動いてくれる「機械」が便利ですが、人間である以上そうする必要ももう無いのだと私は思いました。
私は自分で自分を意味付ける。
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