一度世の中という器からこぼれてしまったらもう戻れないという思い込み🍷
こんにちは。
膠原病・皮膚筋炎難病OLのAです。
最近ステロイドの副作用である酷い不眠と鬱状態に苦しめられております。
毎日の普通の日常がとてもありがたかった事を最近とても実感しています。
歯を磨ける幸せ、顔を洗える幸せ、まだ見た目がステロイドによって変化していないことへの幸せ。
毎日が薬との闘いでいつ膨れ上がるかわからない自分の身体が不安で夢にムーンフェイスの私が出てくる程です。
今回は一度世の中からこぼれてしまったら二度と元にへは戻れないのか、それは「思い込み」なのかもしれないということについて書きます。
私自分、皮膚筋炎という難病になり強制的に社会、会社から離れました。離れてみて思うことがあるので書いておこうと思います。
我慢し続けた今までの人生
環境的な我慢|無頓着と闘う
私の今までの人生は我慢の連続でした。それは環境的な要因と感情的な要因の大きく分けて2つあります。
私は転勤族でした。他の人よりも他県へ移動して学校も変わる回数が多かったです。
学校という集団が嫌いで、既にあるグループを守ろうとする女子の謎の団結力が大嫌いでした。私はひとりで行動するのも好きだし、わざわざ群れないと生きていけないグループの仲間に入るのも嫌だったので孤独な学生でした。(私 は自分で考えているよりも自分の「嫌い」という感情を大切に生きてきたのかもしれません)彼らにはそんな私が不思議で仕方ないという感じでした。他県から来たというだけで浮いた目で見られるくらい集団意識の塊みたいな学校でした。
学校の残酷なところは「皆一緒」を先生も求めることだと思います。中学時代からなんて愚かな指導なのかと呆れていました。ひとりひとり違うのに。健康な人もいれば、体調を崩しやすい人もいる。沢山人と関わることが好きな人もいれば、そうでない人もいる。個人によって伸ばせる所、苦手なところって個性があると思います。それが良い悪いというよりも、そういう部分を無視して同調圧力(教師が都合良く決めた正義)の中での画一的な指導は気が狂わない方が難しいと思います。
ここで私は「無頓着」という人間が世の中に多く存在しており、そういう類いの人間に嫌悪感があることを知りました。
この「無頓着」というのは世の中で置かれた状況に何の疑問も持たず、「正義」を振りかざして他人を排斥し悦に入ることで満足しているタイプに多いです。皆が「正義」としている事をしているので必ず多数が味方になってくれる状況で人を弾圧する。
簡単にいえば、たまたまあぶれなかっただけで人の痛みがわからない、わからないのはしょうがないにしても、人の傷を知らない人の事です。
何の意図があってこうしてるのか?を考えられない人を「無頓着」だと私は思います。
きっと私も別のある人の視点から見たら「無頓着」に入ると思いますが「何の意図でそうなのか?そうしているのか?」を考えるようにはしています。(ちなみに逆に少数意見を振りかざしてなんでもかんでも「支援」を呼びかけてる人も好きじゃないです。「お前自体は努力したのか?」と聞いてやりたくなってしまうのです。私も気難しい性格ですね)
そういうことなので不登校にもなりかけましたが、母に全く理解が無かったので学校へと蹴り出されました。これも「我慢」でした。ここまでは環境的な我慢の代表例として書きました。他にも沢山あります…。
感情的な我慢|自縛との闘い
感情的な我慢は自分で自分を縛る我慢といえます。
「わがままダメ」「堪えなければダメ」「勉強できなきゃダメ」「努力しないのはダメ」「人に迷惑かけるのはダメ」「期待に応えられないのはダメ」「○○ダメ」
他にもありますが、こうした自分に対する「ダメ」の連呼は非常に苦しいものです。(しかしながらこうした我慢という自分を鼓舞する気持ちで昔から鍛え上げられた精神があったので難病宣告されても泣かずに冷静に治療方針を聞いていられたのかもしれません。母の方が泣きそうになっていました)
私は努力と我慢で必死に世の中からあぶれないように生きてきた人間なのですぐに弱音を言ったりわがままを他人に撒いて、周囲を変えようとする人間が嫌いです。そういう人は根本的に自分で努力する事をしないからです。
いちいちわがままを言う人間にイライラしていたのは自分がそうできない人間だからでもあったのでしょう。
しかし、わがままというのは与えられた環境を自分の意志で拒否する行動です。「こうしてほしいな」を主張する「力」でもあると最近思います。
病気になる前はひたすら堪えるを実行してきた私ですが、入院生活の中でむしろ「堪える」は「悪」です。きちんと自分の体調を看護師なり医師に主張するのが正しいです。治るものも治らなくなってしまいます。最近病院という環境で「主張する」を自然と実行している自分がいます。
「嫌なものは嫌」「無理なものは無理」「できないものはできない」「主張するところはする」は悪ではないと自分の中で価値の大転換をむかえています。
相手方の一方通行の主張ばかりこちらが飲む必要は無いのです。こちらから願え下げぐらいの勢いで社会や会社と向き合うくらいの方で無いと今の時代逆に生きていけないとまで思えてきました。
我慢という価値観の克服
我慢することで世の中からあぶれないようにと必死で堪えてきました。そして我慢しないと生きていけないと思っていました。これが思い込みだったのかもしれません。
我慢しなくても、自分が生きれる場所はあるということです。それがあると信じることが大切だということです。
むしろ自分が居心地良くすごせる場所は自分で探す力が必要なのです。
世の中のレールで流れ作業的に生きる人が多いと思います。堪えて堪えて、人にも堪えるを要求する人間が普通なのかもしれません。そちらの方が世の中も都合良く回り易いですから。それに疑問を持たず、堪えられる人間は問題ないと思います。
「生きにくい」はきっと誰にでもあるのだと思います。それに蓋ができるか、できないのかの差でしかないのかもしれません。
病気で強制的に社会から退場させられて、ずっとずっと疑問に思っていた事を自分がはっきりと理解することができて良かったです。
一度でもはみ出したら終わりだと思っていたけれど、むしろ新しい道が開けるということもあると思いました。それは私が考えているよりもずっと居心地が良く、私が他の人に対してできる事も増えているのかもしれません。
自分が「今」見えている道にこだわる必要はないのかもしれません。
結局はみだしても、なんとか会社ともやりとりできているし。
「世の中」という器は幻なのかもしれません。これはダメ、あれはダメ。これはノーマルであれはアブノーマル、とか。それはコロコロあっさり変わっていくものです。(この件は他の記事でも書きたいです)
私の今までの我慢力に乾杯🍷
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