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媚びると重苦(アマノ文筆クラブ/ショートショート)


午前三時。ペンタブレットの上に、また赤い文字のメッセージが届いていた。

「お疲れ様です。さきほどの納品データ、もう少し修正をお願いします。従前どおり、AIは使用禁止なので、必ず手作業で。明日午前9時までに納品してください。作業費は既存報酬に含む形で」


僕はモニターの白い光を顔に浴びたまま、ふっと笑った。乾いた笑いだった。

「もう少しだけ」が、もう九回目だった。「明日の朝まで」が、三日続いていた。

大手広告代理店の担当者は、いつも穏やかな声でこう付け加える。
「うちのような大手からの実績は、あなたにとっても利益でしょう。勉強代だと思って」


勉強代。

最初にそう言われたとき、僕は確かに頷いたのだ。フリーランス二年目、駆け出しの自分にとって、その看板は確かに名刺になる。投資だ。耐えるだけの価値がある。

そう思っていた。

けど、どんどん納期は短くなり、報酬は据え置かれ、修正の回数だけが膨れ上がっていった。電話口の声には、僕の手と時間を当然のように奪う響きがあった。

そしていつの間にか、「あなたの絵が好きです」と言ってくれたお客様たちのメールに、返信できないまま日付が流れていた。穏やかで、まっとうな依頼者たちが、ひとり、またひとりと、静かに離れていった。

スマートフォンが震えるたびに、心臓が縮んだ。

メールの通知を見るのが、怖くなった。



ある夜、彼女が帰ってきた。

リビングのソファに崩れ落ちている僕を見て、しばらく黙っていた。それから、そっと隣に座った。

「ねえ」


声は静かだった。怒っていたのかもしれない。僕に対してではなく、僕を追い詰めている何かに対して。

「あなたがそんなにつらそうなのは、見ていられない」


彼女は僕の手を取った。指先が、冷たかった。

「私が稼ぐから、お願いだから、休んで」


最初は我慢したが、涙が頬を伝うことを止められなかった。僕は、いつしか声を上げて泣いた。彼女がそっと僕を抱き寄せてくれた。



翌朝、僕はこれ以降の案件は断わる旨のメールを送った。

電話が鳴った。担当者の声は、もう穏やかではなかった。

「あんた、業界で描けなくしてやろうか」
「覚えてろよ」

受話器を握ったまま、僕は震えていた。それでも、もう戻らなかった。


不思議なことに、その日から、流れが変わった。

安売りをやめ、自分の作品を本当に好きだと言ってくれる人だけを相手にするようになった。報酬は、以前の倍になった。眠る時間ができた。鏡の中の自分が、少しずつ、笑えるようになった。

媚びることは、重荷だった。

重くて、苦しかった。

気づかないうちに、自分という人間を、病ませていたのだ。今思えば、もっと早く断っておけばよかった。けど、視野が狭くなっていた。
こんな僕を救ってくれた彼女には感謝しかない。本当に頼りになる。



ある夜、僕は彼女に言った。

「自分を大切にするって、大事なんだね」


彼女は、ふわりと微笑んだ。

「そうよ。あなた、自分が頑張れば~って、すぐに背負い込んじゃうんだから」

それから――にやり、と口角を上げた。

「ねえ」

「うん?」

「あの代理店とのやりとり、ぜんぶ残してある?」


僕は頷いた。彼女に言われた通り、メールも、作業指示書も、修正指示も、電話の内容を書き留めたメモも、一通残らず保管してある。
「念のためだから」と、彼女はずっと言っていた。

「こんなの、どうするの?」


彼女は、ソファに足を組み、ワイングラスを傾けた。

「下請法、ご存じ?」

「……たしか、改正されたんだよね」

「そう。今年の一月から、取適法になった。中身が大きく変わったわけじゃないけど、公取委が本気で取り締まりに動き出してる。それに――」


彼女は、僕の目を、まっすぐに見た。

「あなたみたいなフリーランスには、フリーランス法ってのがあるの。発注書なし、不当な値下げ、修正の押しつけ、報復の脅しエトセトラ、ぜーーんぶ、しっかり違法なんだから」


彼女は、グイっと残りのワインを飲みほした。

「私、来月から、公正取引委員会に出向なんだ」
「企業法務、長くやってきたからね。あの手の連中の手口は、全部わかる」


そう、彼女は、企業に関連する法律を専門とする弁護士なのだ。
彼女はグラスをテーブルに置き、不敵に笑った。

「目にもの、見せてやるぜ」



おわり


#アマノ文筆クラブ #ショートショート #小説 #フリーランス #創作 #自己肯定感 #イラストレーター #働き方 #note創作

◆あとがき
今回も甘野充さんの企画に参加させていただきました!

「媚びると重苦」
媚び、忖度、ゴマすり――理不尽な上司、パワハラ役員、カスハラetc…
嫌な響きですが、社会人となると、なかなか全ては避けられないものです。フリーランスといえど、クライアントの意向は最大限に尊重する必要があります。
けど、安売りは、余計に自分の首を絞めることになるんですよね(わかっていても難しいのですが…笑)

今回も楽しく執筆できました!
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