ネタがない(アマノ文筆クラブ/ショートショート/約2,500字)
ネタがない。
俺は空のコーヒーカップを眺めながら、ため息をついた。
テーブルの上にはノートパソコンが開いたまま置いてあり、白い画面がカーソルの点滅だけを繰り返している。
原稿の締め切りは明後日。書き出しの一行すら書かれていない。
フリーライターといえば聞こえは良いが、実態は、月に二本の雑誌コラムと不定期のウェブ記事でなんとか食いつないでいるだけだ。
才能がないわけじゃないと自分では思っている。ただ、今日に関して言えば、頭の中が完璧に空だった。
気分を変えよう。俺はパソコンを閉じて外に出た。
ネタがないときは街を歩く。俺のいつものやり方だ。歩けば何か目に入る。目に入れば、何か書ける。これまでもずっとそうだった。
*
そういえば、今日は朝から何も食べていないことに気付いた。気付いてしまうと余計に腹が減る。腹が減っては戦はできぬということで、駅前の行きつけの寿司屋に入った。
三年前にグルメ記事の取材で訪ねて以来、大将とは顔見知りだ。ランチの端材で握ってくれる賄い寿司が安くてうまい。昼前で客のいないカウンターに座ると、大将が困った顔で言った。
「悪いね、今日はネタがないんだよ。」
目の前には、酢飯だけが小さな山になって並んでいた。上に何も載っていない、白い楕円形の列。
「不漁ですか。」
「それがさ、築地に電話しても誰もわからないって言うんだ。魚はある。あるんだけど——ネタにならないんだ、って。」
意味がわからなかった。
でも大将の表情は真剣そのもので、俺はそれ以上聞けなかった。
酢飯だけをひとつもらって店を出た。酢と米の味しかしなかった。当たり前だ。
*
気を取り直して、取材の当てもなく商店街に向かって歩き出した。
ポケットからスマートフォンを取り出し、ニュースアプリを開く。普段なら見出しの洪水で画面が埋まるはずなのに、今日は何もなかった。白い画面。一件の記事も表示されない。通信障害かと思ったが、電波は四本立っている。
SNSも開いてみた。タイムラインが真っ白だった。誰も何も投稿していない。フォローしている数百人のアカウントが、インフルエンサーも含めて、申し合わせたように沈黙している。
投稿するネタがない——世界中で、同時に。
違和感が、確信に変わり始めていた。
これは偶然じゃない。
*
商店街を抜けると小さな公園があり、ベンチの前で手品師が立ち尽くしていた。シルクハットを片手に持ち、もう片方の手を中に入れたまま、微動だにしない。
「大丈夫ですか。」
「……ネタがないんです。」
男はシルクハットの中を俺に見せた。
空だった。仕掛けごと消えている。
その隣の交番では、制服の警官が腕を組んで目を閉じていた。横にいた私服の刑事らしき男が独り言のようにつぶやいた。
「ネタが上がらねえんだ。何一つ。この街で今日、何も起きていないんじゃない。起きているのに、証拠が——ネタがねえ。」
俺は歩く速度を上げた。胸の奥で何かが脈打ち始めていた。これは尋常じゃない。何かが起きている。街から、世界から、ネタが抜け落ちている。
*
駅前のパン屋に差しかかった。ガラス越しに見える棚が空だった。店主が入口に立っていた。
「生地がね、できないんですよ。材料はあるのに、こねても発酵しても、ネタにならない。」
パン屋を過ぎると、スーツ姿の営業マンが手ぶらでビルのエントランスに立ち、自動ドアの前で何度も立ち止まっては引き返していた。
商談のネタがないのだ。
カフェに入ると、テレビが点いていた。お笑い番組のようだった。ステージの上にスーツの二人組が立っていて、片方がマイクを握ったまま黙っている。もう片方が小声で言った。
「……なあ、ネタがないんやけど。」
客席は静まり返っていた。
チャンネルが切り替わり、ニュースキャスターが映った。その人はまっすぐカメラを見つめて、言った。
「本日お伝えするニュースはありません。取材班によると、現在——ネタがないとのことです。」
数秒の沈黙のあと、画面が青一色になった。
*
俺はカフェを出て、走った。
街の景色が妙に透明になっている気がした。
看板の文字、店先のポップ、電柱の広告——すべてが色褪せて見える。中身を失いつつある。
ネタという概念そのものが、この世界から蒸発していっている。
走りながら、心臓が跳ねた。
違う。これは恐怖じゃない。
——これだ。
これがネタだ。
世界中から「ネタ」が消えるという、この現象そのものが。
俺が今日ずっと探していたもの。
原稿のための、着想。
俺はアパートに駆け戻り、パソコンを開いた。
指が震えていた。
興奮と、締め切りへの緊張感と、気付かないフリをして蓋をした、感情。
タイトルを打ち込む。
「ネタがない」
書き出しの一行が、できた。
もう夕方だが、これなら今日中に原稿を仕上げられるだろう。明後日の締切には間に合う。
俺はキーボードに指を置き、タイピングを進める——
*
カーソルが点滅している。
コーヒーカップは空で、窓の外からは朝のやわらかい光が差し込んでいる。
テーブルの上にはノートパソコンが開いたまま置いてあり、白い画面がカーソルの点滅だけを繰り返している。
原稿の締め切りは明後日。書き出しの一行すら書かれていない。
俺は息を呑んだ。
「……ネタがない」
おわり
#アマノ文筆クラブ #ネタがない #ショートショート #短編小説 #小説 #シリアス #サスペンス #推理 #コメディ #ループ
◆あとがき
2作目の投稿になります。
今回も甘野充さんの企画に参加させていただきました!
「ネタ」と聞いて真っ先に思いついたのは、お寿司のネタ(昔バイトをしていたので)と、漫才のネタ(最近ドンデコルテにハマっているので)でしたが、調べてみると「ネタ」には思っていたより色々な意味があることを知りました。
それなら今回はいっそのこと、あらゆる「ネタ」を世界から消してしまおう!と思い立ち、シリアス/サスペンス/コメディの同居を目指しました。
ほんのりと伊坂幸太郎さんへのリスペクトを滲ませられていたら嬉しいです。
良かったら感想を教えてください!
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお読みいただきありがとうございました!励みになりますので、応援していただけましたら嬉しいです!いただいたチップはより良い作品の制作のために使わせていただきます!