風が吹く(シロクマ文芸部/掌編小説)
風が吹く。
髪が乱れた。それだけのはずだった。
採用面接に向かうため、交差点で信号待ちをしていた私の前で、息を呑むような美人が立ち止まった。
その人は、いかにもバリキャリといった紺のセットアップで、ジャケットを肩に羽織っていた。
そして、風で乱れた髪を片手で押さえながら、もう片方の手で、私が格安で買ったリクルートスーツの胸ポケットに、一通の封筒をねじ込んだ。
「十五分以内に届けて」
「.........は?」
思わず礼儀もへったくれもない声が漏れてしまった。
「駅前のコインロッカー、C-12。届けたら、あなたはチャンスを手に入れる。二度と手に入らない、かけがえのない、チャンスを」
私が封筒を見下ろした一瞬のあいだに、彼女は雑踏に消えていた。
*
チャンス。
その言葉に、胸の奥が疼いた。
先ほど、かなり志望度の高かった企業からお祈りメールが届いた。
メールをくれるだけありがたい。中にはメールさえ寄越さない企業もある。サイレントお祈りとか失礼だろ————と思ってしまうくらいには、今の私は荒んでいた。
一次、二次は通る。
でも最終までには落ちる。毎回そうだ。
私の人間性の底を見透かすような面接官の視線に、毎回苦しめられた。
あの目の奥にある————ああ、こいつはないな、という評価。
二月だ。大学四年の二月。
周りはとっくに内定をもらって卒業旅行の計画を立てている。
私だけが、まだスーツを着て、この街を歩いている。
今日はこの後、まったく行く気のない企業の一次面接が入っている。最近勢いがあるとかいうベンチャー企業。正直、聞いたこともなかった。
でも、贅沢は言えない。
ここで決まらなければ、あの絶望的に閉塞的な田舎に帰ることになる。
*
何はともあれ、今私に起きた出来事はさっぱり意味がわからない。
白い封筒。A5サイズ。薄い。
宛名はなく、表に黒いマジックで「C-12」とだけ書いてある。
チャンス。
二度と手に入らない、かけがえのないチャンス。
普通に考えれば怪しい。
怪しすぎる。無視すべきだ。
でも————「普通」の判断ができるほど、今の私はまともじゃなかった。
スマホで地図を開いた。駅前のコインロッカーまで、徒歩二十二分。
十五分で、二十二分の距離。
……走るか?
馬鹿だ。
見ず知らずの女に封筒を押しつけられて、意味もわからず走るなんて。
でも——この後の面接に意味はあるのか。
行きたくもない企業に、仮面のような笑顔を貼りつけて、また落ちるために行くのか。
それよりはましだと思った。少なくとも、こっちには「二度と手に入らない」という謳い文句がある。セールの薄っぺらい煽りみたいだが、私は今まで「期間限定」の誘惑に逆らえたことがない。
私は歩き出した。早歩きから、やや小走りへ。
馬鹿みたいだけど——ビルの隙間を吹いた風が、私の背中を押した。
*
残り十四分。
商店街のアーケードに入る。小走りのまま、人を避けて進む。
パンプスのヒールが石畳にかつかつと鳴る。
通りすがりの主婦が振り返った。
リクルートスーツの女が小走りしているのだ。
面接に遅刻しそうな就活生にしか見えない。
大学で東京に出てきたのは、閉塞した田舎が嫌だったからだ。
令和の時代にあって、両親や祖父母は昭和から常識をアップデートできていない。嫌な人たちではなかった。でも、SNSで世界の広さを知ってしまった私が東京に憧れを持つのは自然な流れだった。
大学に行きたいと言ったら反対された。学費も生活費も自分で出せ、と。
奨学金を借りて、バイトを掛け持ちして、なんとか食いつないだ四年間だった。社会人になってまでこの生活は続けられないと思っていたのに、このままでは社会人にすらなれない。
少しだけ、ペースが上がった。逃げるみたいに。
*
残り十三分。
アーケードを抜けると車道に出た。信号は赤。立ち止まる。
息が少し上がっている。小走りなのに。体力が落ちていた。
バイトと面接の往復だけの何か月かが、足に出ていた。
信号が変わった。渡る。小走りのペースを上げた。
間に合わなかったらどうなる?
何も起きない。元の生活に戻るだけだ。
お祈りメールと、行きたくない面接と、田舎行きの片道切符。
————帰りたくない。
不意に、その気持ちが腹の底から突き上げてきた。理屈じゃなかった。
さらにペースが上がった。もう小走りじゃなかった。
*
残り十一分。
公園の横を通る。芝生を突っ切れば三十秒は縮まる。
一瞬だけ迷って、突っ込んだ。
芝生に踏み込んだ瞬間、パンプスのヒールが土にめり込んだ。
体勢を崩す。
転びそうになって、踏みとどまった。
土の匂いがした。————田舎の庭の匂い。
あの家の台所の匂い。居間のこたつ。
「女の子なんだから大学なんか行かなくても」と言う祖母の声。
親戚の集まりで太ももを見る叔父の目線。
「可愛いんだからいい人見つけて早く結婚しなさい」という善意の呪い。
帰りたくない。帰れない。
帰ったら、私は私でいられなくなる。
私は振り切るように、駆け足で走った。
*
残り九分。
目の前に上り坂が広がる。ここからが地獄だ。
上るにつれて息が上がる。太ももが重い。スカートが足にまとわりつく。
パンプスのヒールが一歩ごとに足首をねじる。
水商売をすればよかった、と何度も思った。
でも————高校時代まで過ごした田舎で、男たちから性的に見られ、消費されることには疲れていた。親戚も含めて、デリカシーのデの字も知らないような人たちばかりだった。私生活でもそんな調子なのに、バイトでまでその目線にさらされたら、さすがに心が折れる。
幸い、田舎で可愛いと言われて育った私の顔は、東京でもそれなりに通用するようだった。
上京したての頃、田舎の芋くさい同級生の男子たちとは違い、紳士的な都会の男性から素敵なエスコートをされることに舞い上がらなかったと言えば嘘になる。彼らは私を人間として扱ってくれる————と思っていた。
でもすぐに学んだ。気のない男子を勘違いさせると面倒なことになるし、年上の先輩との距離感を見誤ると取り返しがつかなくなる。
周囲の男とは距離を置くようになった。
バイトも忙しかったし、通常の大学生が通過する儀礼的なイベントを、まったくと言っていいほど経験しなかった。
飲み会も、サークルの合宿も、恋人とのクリスマスも。
そうこうしているうちに、変にこじらせたコミュ障が完成してしまった。
最終面接で落ちるのは、きっとそのせいだ。
ふわふわした憧れで上京してきた私には、自分を律する芯など無いのかもしれない。あるいは、その見せ方を知らない。
どちらにしても結果は同じだ。
*
残り八分。
坂の中腹で、右足のヒールが排水溝の格子に挟まった。
がくん、と体が前に傾く。膝をつきそうになる。
パンプスを見下ろした。
七センチヒール。就活用。バイト代から出した七千円。
これを履いて何社回ったか。何回祈られたか。
私はパンプスを脱いだ。
両足とも一気に脱いで、道端に置いた。
裸足のアスファルトは冷たかった。
小石を踏んで声が出た。ストッキングが一瞬でぼろぼろになった。
裸足のリクルートスーツの女。周囲の視線が突き刺さる。
知ったことか。
田舎でも東京でも、いつだって見られてきた。
値踏みするような目で、品定めするような目で。
*
残り六分。
坂の頂上に出た。ここから駅前まで、下り坂が一直線に続いている。
風が背中を押した。追い風だった。
足が勝手に加速する。
残り四分。
駅前のロータリーが見えた————が、目の前の歩道が工事中だった。
フェンスで囲われて、迂回路の看板が立っている。
迂回すれば三分はかかる。間に合わない。
フェンスは一メートル半ほどの高さだった。
スカートで越えられるか。
私はスカートが破れるのも気にせず跳躍し、フェンスを越えた。
着地のとき、膝を擦った。血が出ている。
作業員が「ちょっと!」と叫んでいる。
「すみません!」と謝った。
工事中の鉄板の上を裸足で走った。冷たいを通り越して痛い。
——鉄板を駆け抜けると、コインロッカーの青い壁面が見えた。
*
残り三十秒。
C-12。
暗証番号————ない。
暗証番号を聞いていない。あの女は何も言わなかった。
封筒を裏返す。何も書いていない。
表の「C-12」以外に手がかりはない。
嘘でしょ。
ここまで走って。裸足で。膝から血を流して。ストッキングをぼろぼろにして。震える指で、ロッカーの番号盤を見つめた。四桁。一万通り。
いや————待って。
封筒を見た。「C-12」。0012。
馬鹿みたいに単純な発想だった。でも、もう十分馬鹿みたいだろう。
0・0・1・2。
カシャン、という小気味よい音とともに、ロッカーが開いた。
封筒を押し込んで、ロッカーを閉めた。
残りは―――――八秒。
間に合った。
膝から力が抜けた。
その場にしゃがみ込んで、冷たいタイルに手をついた。
息が止まらなかった。
足の裏がじんじんと痛んでいた。
膝の血が、ストッキングの破れ目からゆっくりと流れていた。
*
コツ、コツ、とヒールの音がした。
顔を上げた。あの女だった。
交差点で封筒を渡した、あの美女。
涼しい顔をして、品のいいジャケットを羽織り、息ひとつ乱れていない。
まるで最初からここにいたかのように、私を見下ろしていた。
「間に合ったね」
「……ずっと、見てたんですか」
「見てた」と彼女は言った。
「交差点から、ずっと」
「なんで.........」
「走るか、確かめたかったから」
やっぱり意味がわからない。
「十四分五十二秒」と女は言った。
「私のときは十四分五十八秒だった。あなたのほうが速い」
「あなたの、とき……?」
彼女はしゃがんだ。私と同じ目線になった。
近くで見ると、遠目からみるよりも優しい目をしていた。
けど、その優しさの奥に、力強さと、疲れの痕跡があった。
もう癒えているけど、完全には消えていない、遠い傷跡のようなもの。
「一年前」と彼女は言った。
「同じ交差点で、同じように封筒を渡された。同じように走った。同じようにここにたどり着いた。————裸足で」
彼女はロッカーを開けて、私が届けた封筒を取り出した。
「中、見てごらん」
私は封筒を受け取り、中を見た。
————空だった。
「中身、何も入れてないの。」と彼女は言った。
私の顔を見て、少しだけ笑った。
「チャンスは封筒の中にはない。走った十五分間の中にある」
「意味が分からない」
今度は声に出して言った。
「わかるよ」と彼女は言った。
穏やかな声だった。
「自分がまだ走れるって、知るためだよ」
*
彼女は立ち上がって、コインロッカーの横の自販機で温かいお茶を二本買って、一本を私に渡した。冷え切った指に、じんわりと熱が戻った。
「去年の私は、あなたと同じだった」
彼女はお茶のキャップを回しながら言った。
「就活は全滅。最終面接で毎回落ちた。二月で、卒業まで時間がなくて、田舎に帰る荷造りのことを考え始めてた」
「……それで、封筒を渡されて、走ったんですか」
「走った。裸足で、膝を擦りむいて、泣きながら。————でも間に合った。間に合ったとき、ロッカーの前でしゃがみ込んで、思ったの。私、まだ走れるんだって。」
私は何も言えなかった。
「全部駄目だと思ってた。どこにも行けず、身の丈にあったあの田舎で燻ってるしかないんだって。でも、十五分間、止まらなかった。空っぽの封筒のために、パンプスを捨てて、裸足で走れた。————他の人に、そんなことできると思う?」
まあ、できないだろう。普通は。いろいろな意味で。
でも、だからこそ————。
「結局、就活はやめちゃったの」
「――え?」
「雇ってくれる会社がないなら、自分で作ればいいと思った。小さい会社。最初は貯金を切り崩して、あるものを全部突っ込んで。でも一年経って、まだ潰れてない。従業員も何人か雇えるようになった」
「――うまく、いってるんですね」
「最初の半年は死にそうだった。でもね——」
彼女は笑った。楽しげな笑顔だった。
「裸足で走ったことがある人間は、たいていのことが怖くなくなるの」
*
二人はお茶を飲み終えた。
「もし本当にどうしようもなくなったら、私のところに来なさい。雇ってあげる。あなたは私が認めた女だから、責任持ってあげる」
そう言って彼女は、ほんの少し間を置いた。
「——けど、たぶん、あなたはもうそんな助けいらないと思うけど」
「……なんでそう思うんですか」
「踵が折れたとき、迷わず脱いだでしょ。普通は立ち止まるよ。でもあなたは脱いだ。余計なものを全部捨てて、走った。——そういう人間は、大丈夫」
急に涙が出そうになったが、こらえた。
泣いたら走った意味がなくなる気がした。
「面接、行きなよ」と彼女は言った。
「行く気がない企業でも」
「―――この格好で?」
裸足。膝から血。ストッキングはぼろぼろ。髪はぐしゃぐしゃ。
「その格好で」と女は言った。
「裸足で膝から血を流して面接に来る就活生を、落とせる人事はいないから」
ほんとか?と私は思った。普通、ドン引きされて終わりではないか。
それより、急いで聞かなければ。
「あなたには、どうやったらまた会えますか」
「そのうち会えるよ。きっと」
それだけだった。名刺も、連絡先も、何も渡さなかった。
彼女は手を上げて、雑踏に消えた。振り返らなかった。
*
けど、この不思議な体験をしたからか、私はいつの間にか前向きな気持ちになっていた。
しょうがない。行ってみるか――。
駅のトイレで膝の血を拭いて、髪を直した。ストッキングは脱いだ。
パンプスを取りに戻る時間の余裕はなかった。このまま電車に乗らなければ間に合わない。
痛い出費だが、最寄の駅についたらどこかで靴を買おう。
駅直結のスーパーで奇跡的にパンプスを購入できた私は、何とか身なりを取り繕って、面接室のドアを開けた。
ただ、周りと比べたら、ボロボロだ。
そんな私を見て、面接官が目を丸くした。
「あの——大丈夫ですか?」
「大丈夫です」と私は言い切った。
「ちょっと走らなきゃいけなかったので」
面接官は、少し間を置いてから、笑った。
今まで見たどの面接官とも違う笑い方だった。
私の底を見透かそうとする目じゃなかった。
私も笑った。
それがなんだか、心地よかった。
*
そのベンチャー企業は、一次と最終しか面接がなかった。
最終面接の案内メールが届いたとき、私は少しだけ、本当に少しだけ、いつもより嬉しかった。
最終面接の日。
エレベーターを降りて、廊下を歩いて、面接室のドアの前に立った。
最終面接の前は、背筋が冷たくなるくらい緊張する。
今回は裸足じゃない。ちゃんとしたパンプスを履いている。
いっそのこと裸足で来てやろうかと思ったが、さすがに新しく買った。
同じ値段の、七千円。
でも、前のとは違う気がした。
意を決して、三回ドアをノックして、開けた。
息が止まった。
彼女が、テーブルの向こうに座っていた。
同じ髪型。同じ涼しい目。でも今日は、ニヤニヤと笑っていた。
ロッカーの前で見せた笑い方ではなく、いたずらが成功した子供みたいな、無防備な笑い方。
「——あなたは」
「そのうち会えるって、言ったでしょ」
「——そういう意味だとは」
「あとあなた、普通最終面接の前には会社の代表者の顔くらい把握しておくものよ。私、てっきりあなたもニヤニヤしながら入ってくるのかと思ってたもん。」
まあ、それはそのとおりだ。正直まだ大手の方が入りたい、とか思って準備を疎かにしていた。ごめん。
彼女は――代表は、やれやれとでも言いたげに眉尻を下げて笑うと、机上の書類に目を落として、それからまっすぐ私を見た。
「どう? うちに来る?」
いいんですか――。
喉まで出かかった答えを、一度飲み込んだ。
私は、代表の目を真っ直ぐに見ながら、あの十五分間のことを思い出していた。
交差点で封筒を渡されたこと。意味もわからず走り出したこと。土の匂い。パンプスを脱ぎ捨てたこと。裸足のアスファルト。小石の痛み。フェンスを飛び越えたとき。膝の血。ロッカーの番号盤。0・0・1・2。空っぽの封筒。
——自分がまだ走れるって、知るために。
目の前の女性が、走って、気づいて、会社を作った。その会社がここだ。勢いのあるベンチャー企業。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。しっかり、深く。
「でも、ハッキリわかりました」
顔を上げた。女の目をまっすぐに見た。
「私も、自分の力で走ってみたいと思います」
代表は一瞬、じっと私を見つめた。
それから、特大の笑みを浮かべた。
これまでのどの笑顔とも違う、一年前に同じことを決めた人間だけが浮かべられる、満足の笑み。
「そうこなくっちゃ」
*
エントランスの自動ドアが、私の背中で閉まった。
空を見上げた。二月の、低い空。私がどうなろうと変わらずいつもそこにある空が、なぜかいつもより青く見えた。
風が吹いていた。
追い風だった。
*
一年後。
私は、あの交差点に立っていた。
私は田舎には帰らなかった。
代表が言ったことが、ずっと頭に残っていた。——雇ってくれる会社がないなら、自分で作ればいい。
無謀だってわかっていた。
でも死に物狂いで頑張った。
そう。裸足で走ったことがある人間は、たいていのことが怖くなくなる。
胸ポケットに封筒が入っている。
白いA5サイズ。表に黒いマジックで「C-13」。
中身は空だ。
今日もビル風が吹いている。信号が赤になり、人が止まる。
そのなかに一人、見覚えのある目をした女の子がいた。
安いリクルートスーツ。疲れ切った顔。スマホの画面を見つめている。
きっとお祈りメールだ。私もそうだった。
風が吹いた。
その子の髪が乱れ、私は背中を押される。
女の子の前で立ち止まる。
女の子が私を見上げて、怪訝そうな顔をしている。
私は一つ、深く息を吸って、彼女に封筒を押し付けた。
「十五分以内に届けて」
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◆あとがき
最後まで読んでいただきありがとうございます!
小牧幸助さんのこちらの企画に参加させていただきました!
「風が吹く」という言葉からすぐに連想したのは、三浦しをんさんの「風が強く吹いている」でした。
そこから疾走感のあるお話にしよう!と思い、完成した作品です。
思ったより長編になりました。
主人公の独白の配置と、後半にかけての加速感とのバランスが難しかったです。。
初めての長文作品なので、良かったら感想を教えてください!
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