未完全人間(アマノ文筆クラブ/ショートショート/約2,200字)
私の左手の指は、最後まで曲がりきらない。
父はそれなりに名の売れたバイオリニスト、母はオペラ歌手だった。
そんな両親のもとに生まれた私は、幼少期からピアノの英才教育を受けた。
毎日何時間も、ピアノの練習に明け暮れた。それが当たり前だった。
完璧に弾けたときだけ褒められた。
完璧でないときは、何も言われなかった。
演奏を終えた後の沈黙が、何よりも怖かった。
二十三歳のときだった。交通事故で腱を傷めた。
よそ見運転をしていたトラックが、私の運転する車に左から突っ込んできた。私は青信号で、トラックは赤信号。完全に相手の責任だった。
けれどそのトラックの会社はいわゆるブラック企業で、運転手は過酷な運送スケジュールを強いられつつも、家族のために働くしかなく、最近ろくに眠れていなかったという。
私は運転手を責められなかった。
一生懸命やって、結果が最悪だった時の気持ちは、よくわかってしまう。
「手術は成功です。」と執刀医の先生は言った。
あとはリハビリ次第だと。
でも、ピアノを弾く指としては、もう使い物にならなかった。
音大を出て、コンクールに出て、いつかウィーンの舞台に立つのだと信じていた私の夢が、終わった。
*
あれから十二年。私はフリーランスのイラストレーターをしている。
完璧を目指せないピアノには価値を見出せなかった。
かといって芸術から完全に離れてしまうと、自分の価値がまるごとなくなってしまうようで怖かった。
結局、趣味の絵描きを仕事にした。
幸い右手は不自由なく動くため、支障はなかった。
絵は良い。納期はあるものの、自分の中での完璧を目指せる。
完璧にこそ、価値がある。
小さい頃から刷り込まれた価値観が、今でも私を離さない。
そういう意味では、適当でいい加減な夫にイライラすることもある。
夫は自分で立ち上げたベンチャー企業の経営者をしている。
音大を出て世間知らずだった私は、同い年で会社を立ち上げ大規模な資金調達を実現したという話を聞いた当時、なんて優れた人なんだろうとコロッと恋に落ちてしまった。
もちろん優秀であることに疑いはないし、経営者によくいるキャバクラやクラブが大好きな、いかがわしいタイプでもなく、そういった経営者仲間とは距離を置いて、誠実に家庭を築いてくれている。
それだけで何の文句もないのだが——家事は雑だし、会社の経営もノリと勢いで押し切るタイプのようで、絶対に一緒に仕事はしたくないと思ってしまう。
*
こんな考えが巡るくらい、今日は集中できていないらしい。
液晶タブレットの画面に、描きかけのイラストが映っている。
出版社に納品する書籍カバーのイラストは八割方できている。
でも残りの二割が決まらない。完璧な二割が。
ずっと座り続けていると血流が悪くなる。
気分転換に、川沿いを散歩して、大好きな夕陽を見にいこう。
パーカーを羽織って、外に出る。河川敷の遊歩道までは家から十分もかからない。
川沿いの土手の上の道を歩き、黄色とオレンジと紫の見事なグラデーションが描かれた西の空に目を細めた。
そのとき、拙い演奏が聞こえてきた。
「エリーゼのために」だ。
小さいころ、実家の電子ピアノから流れてくる自動演奏の「エリーゼのために」が大好きで、一日中演奏スイッチを押し続けていたことを思い出した。
今思えば感情の乗っていない無機質な演奏だったけれど、幼い私はなぜか大好きだった。
土手の下の家から響いてくる演奏は、リズムは走るし、強弱の加減を知らない。フォルテもピアノも関係なく、全部の鍵盤を同じ力で弾いている。弾いているというか——もはや叩いている。
哀愁がある曲調のはずなのに、どこか楽しそうにきこえてくる。
幼い子の演奏だろう。かつての自分に重ねた。
あの頃の私も、たぶんこんなふうだった。
ただ楽しくて、正しさなんか知らなくて、鍵盤を叩いていた。
そんなとき、女の子の「キャッキャ」という笑い声が聞こえてきた。
不意打ちだった。
かつての自分を思い出していたところに、かつての自分と同じような、楽しげな笑い声。
純粋に音が楽しかった頃の、完璧に追い込まれて息苦しくなる前の、自分。
足が止まった。
夕焼けが、やけに滲んで見えた。
左手の指を曲げてみる。やはり途中で止まる。
十二年間、毎日確認して、毎日同じ結果だった。
ウィーンに届くはずだった指。届かなかった、不完全な指。
完璧は、素晴らしい。
20世紀のモダニズム建築を代表する建築の神、ミース・ファン・デル・ローエ曰く、「神は細部に宿る」という。
デザインを勉強するようになってから知った言葉だが、感銘を受けた。
細部まで、完璧に追及することには美しさがある。
ただ——不完全が、素晴らしくない、という訳でもないのかもしれない。
自宅に帰り、どうにも捨てられず、書類置き場と化していたピアノのクロスをどける。
鍵盤の蓋に右手を置く。冷たい。
蓋を持ち上げる。
白と黒の鍵盤が、夕陽を受けて燃えるように色づいている。
「好きなように弾いてごらん」
小さい頃に母から言われた言葉が、自然と脳裏に響く。
鍵盤に、指を置いた。何を弾くかは決めていない。
私は、深く、息を吸い込む。
おわり
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◆あとがき
初めてnoteに投稿をしてみました。
たまたま目にした甘野充さんの企画に参加させていただきました。
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