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若い先生の皆さんへ第2部①_宮本先生の場合(1)自信の射影

以下の物語はすべてフィクションです。

理想の幻影

 宮本の手元には、真新しい学生証があった。日本の理系最高峰と言われる国立大学のロゴが、春の陽光を反射して輝いている。それは彼にとって、これまでの過酷な受験戦争を勝ち抜いた勲章であり、この社会における「勝利者」であることを証明するパスポートだった。

彼が教育の場に興味を持ったきっかけは、ある鮮烈な記憶にあった。高校3年生の夏、宮本が通っていた大手予備校の数学講師は、まさに「神」と呼ぶにふさわしかった。その男が壇上に立つだけで、数十に人の生徒が水を打ったように静まり返る。チョークが黒板を叩くリズム、魔法のように美しく展開される数式、そして教室の最後列にまで突き刺さるような凛とした声。そしてその説明は、限りなくわかりやすく、発見に満ちた充実した講義だった。
 「俺も、あんなふうになりたい」 宮本は、授業を受けながら本気でそう思った。自分の力があれば、それは決して不可能な夢ではないはずだ。合格したら、絶対にバイトで講師を始めよう、そう決めていた。

 大学合格が決まるとすぐに、彼は自宅近くの学習塾「B塾」の求人に応募した。時給は3,000円。破格の待遇だが、塾講師ってそんなもんだろ、と宮本は受け止めた。面接官を務めた校舎長の岡田は、宮本の履歴書を見るなり、「君のような優秀な学生に来てもらえて光栄だ」と揉み手をするような笑顔を見せた。 宮本の中で、未来のビジョンは完璧に描かれていた。生徒たちは自分の知性に畏敬の念を抱き、自分はそれをクールに導く。あのかっこいい予備校講師のように、知的なカリスマとして崇められる自分。それは、あまりにも美しい方程式だった。

崩壊の予兆

 採用から一ヶ月の研修期間を経て、宮本は高校1年生の数学クラスを受け持つことになった。 準備は完璧だった。教科書の該当範囲はすべて頭に入っているし、生徒がつまずきそうなポイントには、かつての予備校直伝の鮮やかな解法を用意していた。鏡の前で、大事なポイントの前にあえて沈黙を作る練習もし、自信に満ちた表情の作り方もシミュレーション済みだ。

 5月の水曜日、午後7時。宮本は意気揚々と教室のドアを開けた。 しかし、その瞬間に宮本の方程式は音を立てて崩れ去った。

 そこにあったのは「授業」の場ではなく、動物園のような騒音と無秩序だった。 教壇に立っても、誰一人として彼を見ようとしない。後ろの席の男子生徒たちはスマートフォンの画面を覗き込んで爆笑し、窓際の女子生徒たちは化粧ポーチを広げて談笑している。本来であれば、生徒全員の視線がこちらに向くまで話し始めてはいけないはずだ。宮本は「静かになるまで待つ」というセオリーを実践しようと沈黙を守ってみた。しかし、30秒経っても、1分経っても、喧騒は収まるどころか増すばかりだった。

 彼の視界には、信じがたい光景が飛び込んできた。生徒たちの机の上だ。勉強道具などろくに置かれておらず、あるのはコンビニのおにぎりのゴミ、ペットボトル、そして広げられたスナック菓子の袋。視界のノイズを減らし、学習に集中させる環境など微塵もない。ここは教室ではなく、ただの溜まり場だった。

「えー、今日から担当する宮本です」 たまらず宮本は口を開いた。教室の最後列まで届くよう、腹から声を出すイメージを持っていたはずだった。だが、圧倒的なアウェーの空気に気圧され、喉から出たのは裏返った高い声だった。

 一瞬だけ、数人の生徒が宮本を見た。 だが、その目は「神」を見るような畏敬の眼差しではなかった。 「誰こいつ?」 「新しいバイトじゃね?」 「ウケる、声裏返ってるし」 値踏みするような、冷酷で、あからさまに馬鹿にした視線。宮本はトップ国立大生として、これまで周囲から尊敬と羨望の眼差ししか受けてこなかった。こんなふうに、まるで異物を見るような目で見られたことなど一度もない。

制御不能

宮本は震える手でチョークを握り、黒板に向かった。生徒に背を向けず、身体を開いて書くよう意識したつもりだったが、背中に突き刺さる視線が怖くて直視できない。結局、黒板にへばりつくようにして数式を書き殴った。 行を揃え、文字を大きく美しく書く。そんな基本すら、極度の緊張と恐怖の前では無力だった。文字は右下がりに歪み、行間もバラバラになり、自分でも何を書いているのか分からなくなるほどだった。

「あのさー、先生。字、汚くて読めないんだけど」 最前列の女子生徒が、ガムを噛みながら気だるげに言い放った。 「あ……ご、ごめん」 謝ってしまった。教師が、生徒に、謝ってしまった。その瞬間、教室の空気は「こいつは御しやすい獲物だ」という確信に変わったようだった。

授業開始から15分。宮本はすでにパニック状態だった。 説明の合間に問いかけを行い、生徒を参加させるような余裕などあるはずがない。ただ教科書の内容を一方的に喋り続けることしかできなかった。重要なキーワードを強調しようと声を大きくしてみても、その強弱はただの騒音として処理された。眠そうにしている生徒を起こすために机間巡視をしようかとも考えたが、通路に投げ出された生徒の鞄や足がバリケードのように見え、教壇から降りることさえできなかった。

制御不能。 宮本が立ち尽くしていると、教室のドアがガラリと開いた。 入ってきたのは、隣の教室で授業をしていた先輩講師の北野だった。勤続3年のベテランだ。 「おいお前ら! さっきからうるせえぞ! 新しい先生が困ってんだろ!」

北野の怒鳴り声に、教室が一瞬だけ静まった。さすがベテランだ、と宮本は安堵した。しかし、それは一瞬のことだった。 「あ、北野だー。キタノン、こいつ何言ってんのか全然わかんないよー」 「そうそう、マジでおもんない」 生徒たちは北野に対して親しげだが、そこにも「敬意」はなかった。北野は苦笑いしながら、「まあまあ、宮本先生は優秀なんだから、ちゃんと聞けよ」と生徒をなだめるように言った。生徒の肩を軽く叩き、談笑しながら注意をするその姿は、宮本が憧れた厳格な予備校講師とは対極にあった。

北野が戻った後、授業はなし崩し的に再開されたが、もはや宮本に主導権はなかった。ただ教科書を読み上げ、時間が過ぎるのを祈るだけ。 チャイムが鳴った瞬間、生徒たちは「やっと終わったー」と大声を上げ、宮本に見向きもせずに教室を出て行った。

無人の教室に残された宮本は、黒板消しを握りしめたまま呆然とした。 完璧だったはずの予習ノートが、机の上で虚しく開かれている。 プライドはずたずたに引き裂かれ、胸に残ったのは、言いようのない疲労感と、生徒たちへの恐怖にも似た嫌悪感だけだった。

(何かが間違っている。でも、それは俺のせいじゃないはずだ)

宮本は自分に言い聞かせた。俺はトップクラスの大学に入った人間だ。間違っているのは、あのレベルの低い生徒たちと、この管理されていない環境だ。あんな動物のような連中に、高度な数学を教えること自体が土台無理な話なのだ。 しかし、その理屈とは裏腹に、来週の水曜日が来ることを想像しただけで、胃の奥が鉛のように重くなるのを感じた。宮本にとっての地獄は、まだ始まったばかりだった。

(つづく)

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