【小説】乙女の祈り#創作大賞2025
あらすじ
冴えない女子高生、沙良はドブ沼のような暗黒の毎日を送っていた。両親は離婚、およそ人間が住む場所とは思えないようなボロアパートに引っ越すことになり、学校では女子3人組絶対2対1になる問題に直面。自称進学校の抑圧に日々苦しめられ、さらにはお金の問題まで発生。そんな踏んだり蹴ったりの日々唯一の癒しが、バイト先で出会った一見女の子にしか見えない超美形の男の子・河合くん。沙良は河合くんのちょっとした言動や会話に惹かれ、どんどん好きになっていくが…?
一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一
沙良はダイニング机に数学の問題集をほっぽり出して、床に仰向けに寝転がっていた。問題を解くか風呂に入るかしなければ、と思いつつ、母親に向かって喋っていた。
「あーほんとに無理、マジで課題終わんない。何でこんな意味ないことしなきゃいけないの?クソ無能教師が出したクソな課題をやる義理って私にあるの?」
お母さんはキッチンで洗い物をしていて、聞いているのかいないのか判らない。沙良は服の中に手を突っ込み、肩から背中にかけてぼりぼり掻きむしる。蕁麻疹が出ているのが、手触りで分かる。痒い。
「てか、課題やったらお金貰えるシステム欲しいんだけど。学校で充分長時間勉強してるのに、家でもやるってそれ残業じゃん。給料も発生しないのに残業って、冷静に考えておかしくない?誰がやるのそんなん。」
廊下とダイニングを繋ぐドアが開き、父親が入ってくる。と同時に、大声で怒鳴った。
「ごちゃごちゃうるせーなあ、俺は今から仕事なんだよ。とっとと風呂入って寝ろ!」
やば、お父さん怒りモード。リビングが静まり返る。静寂を破ったのは、お母さんが洗っていた食器をシンクに叩きつける音だった。
「どうしてそんな言い方するの!?」
「どうしてって、こいつがグチグチグチグチうるさくて聞いてられないんだよ。お前もお前でさあ、階段とかシンクの生ゴミとかちゃんと掃除しろよマジで。」
「こっちだって働いてるんだから私にばっか家事やらせないでよ!あとそうやって、何か気に入らないことがあるとすぐ大声出すのほんとやめて。子供じゃないんだから。」
いつもはお父さんに何か言われても黙っている母だったが、今日は違った。お父さんに負けないくらいの大声で、言い返していた。
「お前らいつ離婚すんの?」
沙良はそう捨て台詞を吐くと二階の自室へ上がり、下着とパジャマ、それから小学生の図工で使った彫刻刀を持って風呂場へ行った。服を脱いで、湯船に浸かる。つい先程まで体が重くてやる気にならなかった一連の動作を、今は機械的に実行することができた。もう冷めてしまって嫌なぬるさの湯船に浸かっていると、涙がぽろぽろこぼれてくる。とても腹立たしかった。学校では教師に偉そうに色々と指図され、どうして家でまで高卒のバカ親父に怒鳴りつけられなくてはいけないのだ?工業高校を出てすぐ就職した父親に、自称進学校で日々虐げられている沙良の気持ちなんて分かる訳がない。絶対に許さない。一度そう思うと、憎しみがどんどん膨らんで頭から離れなくなる。学校とそこに蔓延るクソ教師ども、絶対に許さない。煩わしい友達関係、絶対に許さない。低脳バカ親父、絶対に許さない。
「ぜったいにゆるさない。」
小声で呟くと、堰を切ったように止まらなくなっていく。
「ゆるさない。ぜったいに許さない。絶対に許さない!」
シャワーの水を全開に出して頭を濡らしながら、沙良は怒鳴った。絶対に許さない、その言葉だけで頭がいっぱいになって、他のことは何も考えられない。段々何に対して「許さない」と思っているのか、何をそんなに怒っているのか、自分でも分からなくなってくる。乱暴に頭と体を洗って、シャワーで泡を流す。全部終わって水を止めて、それでも気持ちは落ち着かない。振り返ると、浴槽のふちに彫刻刀が置いてあった。自分で持ってきた物なのに、沙良は今までその存在を忘れていた。ゴム製でローズピンクの持ち手を掴むと少し錆びて変色している刃を二の腕にあて、一気に引き抜いた。沙良の体内をあてもなく彷徨していた血液が、出口を見つけて上昇していく。沙良は、その様子をじっと眺めている。時間差で痛みがやってきて、沙良は嫌なような、満足したような気持ちになる。しかし今日はちょっと、いつもより出血量が多い。いつもなら南天みたいな赤玉が線上にぽつ、ぽつと浮かび上がる程度なのに、今日はぼた、ぼたとひとかたまりの血が次々溢れ出てくる。沙良は浴室のドアを開けてバスタオルを取ると、体全体を軽く拭いてから傷口に押し付けて血を吸わせる。パステルグリーンの布地が、鮮やかな赤色に染まっていく。これは洗濯機で落ちるだろうか?血が止まるようにタオルを強く押し当てて、沙良は息を殺した。ついさっきまでの興奮が嘘のように落ち着いていて、面倒くさいことになってしまった、やらなきゃよかったと思う。数十秒待って、そっとタオルを外してみる。その瞬間ぼたぼた、と血が落ちて、バスマットを汚してしまった。傷口を覗いてみる。ぱくりと開いた肉の間に血液だまりができている。そのさらに奥を覗いてみる気にはならなかった。沙良はバスマットを洗濯機にぶち込み、もう一度タオルを腕に巻き付けて二階へ上がった。
✴︎
沙良はこれから自分が住むことになるアパートの狭さに絶句した。玄関から入って、部屋全体が視界に入るのだ。和室がニ部屋、ガスコンロのキッチン、風呂、トイレ、以上。こんな所で人間が生活できるのか?というのが、初見の感想だった。一人暮らしならまだしも、ここは沙良と母親と弟、三人で住む予定の場所なのだ。部屋が二つしかないなんて、ありえない。木枠に縁取られた草色の壁が、いかにも「貧乏人の家」、「和室界隈」といったかんじで辟易してしまう。弟は早々部屋の一方を自分の縄張りと決めたらしく、当然のように荷物を広げ始めている。もう一方の部屋にはテレビとテーブル、お母さんの布団が運び込まれている。弟と母、どちらと同じ部屋で寝るのも嫌だったので、沙良はキッチンの横に布団を敷いた。全く、どうして私がこんな所で寝なければいけないのだ?何だか気が滅入って外へ出る。十月といってもまだまだ暑く、強い日差しが鬱陶しかった。時刻は十三時を回っていたが、今日は朝から荷物の運び込みをしていてまだお昼を食べていない。
アパートから道路を挟んで向かい側に、コンビニがあった。ここで生活するようになったら、いつでも買い物に行けて便利だ。店に入ると、冷たい空気が心地よかった。沙良はお腹が空いていたが、特に食べたいものがない。アイスボックスの周りをうろついて、おにぎりコーナーの前で足を止める。丁度店員が品出しをしているところで、後ろにいる沙良の存在に気づいて振り向いた。かわいい、と沙良は思った。髪型は襟足の長いウルフカット、前髪はぱつんと切り揃えられている。笑っている訳でもないのにぷくりと膨らんだ涙袋が、彼女の目をとても大きく見せていた。何だこの透明感、かわいさ。その美少女は軽く会釈して、邪魔にならないよう場所を開けてくれる。沙良は目を伏せた。加工なしで完璧に美しい彼女の前で、メイクもせずジャージ姿の自分が恥ずかしく思えた。あの子が早く作業に戻れるよう、とっととおにぎりを選んでこの場から離れなくては。沙良は適当にエビマヨを選んで、パンの棚へ移動する。よく買う焼きそばパンを取ろうとして、思いとどまる。あの子にレジを打ってもらうなら焼きそばパンなどという茶色い物体ではなく、もっとかわいいものを買うべきなのではないか?チラリとおにぎりコーナーの方を見ると、美少女がおにぎりを一つ一つ、丁寧に並べている。沙良は思い直してカラフルなカラースプレーのかかったチョコドーナツを手に取り、レジの列へ並ぶ。混んできたことに気づいたあの子が、カウンターに入ってきて会計作業を始める。あの子にレジをしてもらえる確率は二分の一。列が前へ進み、沙良の順番がやってくる。どうやら沙良は、確率に当たったらしい。少し緊張しながら、おにぎりとドーナツをカウンターに置く。
「いらっしゃいませ。」
その声に、沙良は思わず顔を上げた。想像していた声より、ずっと低い。まるで男の人みたいな。
「352円です。」
沙良は動揺しながら、財布から百円玉を四枚取り出す。トレーに置くと、隣のレジからパートらしきおばさんが美少女に向かって叫んだ。
「カワイくん、レシート用紙取ってくれない?こっち切れちゃった!」
「カワイくん」がしゃがんで真っ白なレシート用紙を取り出し、おばさんに渡した。沙良は「カワイくん」からお釣りを受け取ると、「ありがとうございます」と言ってみた。普段店員に声を出してお礼を言うことなどほとんどないが、「カワイくん」には感じのいい客だと思われたかった。カワイくんはニコッと笑って、「ありがとうございましたあ、」と言った。その瞬間沙良はもう、カワイくんのことをとても好きになっていた。いわゆる一目惚れである。
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カワイくんは男の子だった。あんなにかわいくて、沙良が今までに見たどんな女の子よりもかわいくて、身長も沙良と同じくらいか、もしかしたら少し小さかったかもしれない。なのに、カワイくんは男の子なのだ。あんな素晴らしい人間が、この世界にいるとは思わなかった。あれほどまでに名が体を表している人間というのも、そうそういないだろう。「カワイくん」が「河合」なのか「川井」なのか、はたまた全然違う字なのか、それは分からない。でも、とにかくカワイくんはかわいい。沙良は高一の頃から続けていたファミレスでのバイトを辞め、カワイくんのいるコンビニで働き始めることにした。面接から採用までトントン拍子で進み、今日学校が終わったら初出勤なのだった。表向きは引っ越したから家の近くにバイト先を移した、ということにしているが、もちろん沙良には下心しかない。前に働いていたファミレスだって、アパートから通えない距離ではないけど無理矢理辞めたのだ。沙良はアパートに越してからコンビニに何かしら理由を作って買い物に行ったり、外からガラス張りの店内を覗き込んだりしていた。その結果、カワイくんはほとんど毎日コンビニで働いているようだと分かった。だから、今日もかなりの高確率で「いる」筈なのだ。当然授業に身が入るわけもなく、沙良は黒板の数式をぼーっと眺めていた。数学は一番苦手だ。長々と計算をしてやっと答えらしきものが出たと思ったら、どこの値を、何に使うため求めていたのか全く思い出せない。脳が数学を拒絶しているのだ。そのため、沙良は数学の授業中は睡眠をとることに徹していた。しかし、今日は眠くない。カワイくんと店員同士として初のご対面なのだから、眠そうな半開きの目をして会いに行く訳にはいかないと思って昨日は早く寝たのだ。しかし起きていたところでやることもないので、沙良は教室を見渡す。この授業を真面目に聞いている人間は殆どいない。担当教員の松岡は六十過ぎのおっさん、というかおじいさんで、聞いているだけで眠くなる声の持ち主だ。大半の生徒は寝るか課題をやっていて、成績優秀タイプの人間は自分で用意した参考書で勉強を進めている。毎日毎日、誰も聞いていない授業をやってよく頭がおかしくならないものだ。そもそもこの松岡という教師は、人に教えることに長けているとも、好きなようにも思えない。頭は良いのだろうが、出来ない人間の気持ちが分からないので文系クラスで授業をする時にはこちらを見下しているかんじが何となく伝わる。数学教師によくありがちなタイプだ。
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授業が終わると、昼休みがやってくる。沙良は最近、この時間がくるたび嫌だなあ、と思う。一先ず一番最初にトイレに行って用をたし、手を洗う。混んでくるとガヤガヤうるさいし、待っている人がいるのにも関わらず鏡の前を占領するバカ女が発生し始めるのが嫌なのだ。だから沙良は、昼休みが始まると一番にトイレへ向かう。
教室へ戻ると、沙良は自分の席に座ってスマホを確認する。でもこれは画面を見る振りをしているだけで、頭では別のことを考えている。今日も、ゆりかと二人でお昼を食べるのだろうか?沙良は元々、去年から同じクラスだった花穂とお弁当を食べていた。ところが他のグループからハブられて抜けてきたゆりかが合流して三人になり、いつの間にか花穂が抜けて二人になっていた。沙良は毎日昼休みになる度花穂のことを気にしていたが、何か行動を起こしたりすることもないまま一ヶ月近くが経過していた。三人で食べていた短い期間、花穂は殆ど一言も喋らず黙々と食べていた。話しながら食事するのが苦手なのかもしれない。一対一の会話ならできても、複数人になると話せなくなってしまうタイプなのかもしれない。そもそも花穂は絶対誰かと一緒にいないと駄目なタイプではなさそうだし、昼ご飯も一人で食べた方が気楽でいいのかもしれない。そういうことにして、沙良はニ対一のニ側になってしまったことを正当化した。
ゆりかが弁当を持って、沙良の席にやってくる。お腹空いたーと言いながら、ランチバックから弁当箱を取り出す。蓋を開けると、見栄えまできちんと考慮されているのであろう色とりどりのおかずたちがびっしりと詰められている。ゆりかのお母さんはよくもまあ毎日こんなお弁当作るよなあ、と感心しながら沙良は朝コンビニで買ったパスタサラダとサンドイッチをビニール袋から取り出した。
「あのね、私クリスマスイブに卒業ライブやることになったんだけど、沙良来てくれる?」
ゆりかが声を潜めて言った。ゆりかは地下アイドルをやっていて、学校の人間でそのことを知っているのは沙良だけらしい。でも、ゆりかは来年受験勉強に専念するため高二の冬でいったん今のグループは辞めるのだという。
「うん、行くよ。どこでやるの?」
ゆりかはスマホで、ライブハウスを検索して見せてくれた。
「対バンなんだけどね、最後だから私がセトリ組んでいいって。やばい〜超楽しみ!」
クリスマスまではまだ二ヶ月近くある。事前に言っておけばシフトを空けてもらえるだろう。色々話は聞いていても、実際に歌って踊っているゆりかを見たことはないので興味があった。
「あーでも、沙良はバイト先のイケメンくんとお近づきになれたら、もしかするとクリスマスデートとか行っちゃうかんじ?」
ゆりかがニヤニヤしながら言う。
「いやあ、流石に無理でしょ。いいよ、クリスマスはゆりかのライブ行くよ。」
口ではそう言ってみるものの、もし、もしも、カワイくんと仲良くなれて、付き合えたりしちゃったりなんかしたら?それは今の沙良にとって、人生で起こりうる最も幸せなことだった。
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出勤すると、制服を渡されて更衣室で着替えるように言われた。更衣室といっても、男女共用で一部屋しかない。Tシャツの上から制服を羽織ってチャックをしめていると、ドアがカタンと鳴った。誰かが外から開けようとしている。前髪が乱れていないか鏡で軽く確認すると、沙良は勢いよく更衣室のドアを開けた。そこには、カワイくんがいた。
「あ、こ、こんにちは。今日から新しく入りました。よろしくお願いします!」
言った後、いやバイトなら普通おはようございますだろバカか、と気付く。そういえば名前も言っていない。
「こんにちは、カワイです。よろしくお願いします。」
カワイくんは沙良に合わせて「こんにちは」と言ってくれた。嬉しい。かわいい。顔がいい。今日もカワイくんのビジュアルは破壊的だった。しかし、変に思われたら嫌なのでまじまじと見つめたりすることは出来ない。
「栗林、です。よろしくお願いします。」
新しい名字は、まだ使い慣れなくて変なかんじだ。カワイくんはペコリと会釈して、沙良と入れ替わり更衣室に入って行った。
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結局、この日沙良がカワイくんとした会話は最初の挨拶だけだった。カワイくんは沙良が入店する十八時半に交代で上がりだったようで、早々帰ってしまった。自動ドアを出て行く時に見えたカワイくんは黒ズボンに白シャツという出立ちで、まるで王子様みたいだった。そしてカワイくんの足は、びっくりするくらい細かった。あの子はちゃんとご飯を食べているのかしら、と心配になる。
まあ、最初はこんなものだろう。用意していた質問、何歳なんですかとか、どのくらいここでバイトしてるんですかとか、一個も訊くことはできなかったけど、沙良はカワイくんと当たり障りのない挨拶と自己紹介ができたというだけで大満足だった。バイト初日は、レジの操作を教えてもらったり、品出しをしたりした。ふとレジの画面上部を見ると、責任者:河合 未那人と表示されていることに気づく。独特な漢字だが読みは多分みなと、だ。かわいみなと。小声で呟いてみると、何とも言えない気恥ずかしさで頬が緩んだ。
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放課後、沙良は化粧品を買いたいというゆりかに付き合って買い物に来ていた。ゆりかはほとんど値段を見ていないようで、あれもこれもとどんどんカゴに入れていく。
「前も似たようなの買ってなかった?」
「えーだってかわいいんだもん。」
アイシャドウパレットなんて一枚あれば一年以上もつのに。この子は一体、月にいくらお小遣いを貰っているのだろう?バイトもしていないらしいし、大して知名度もない地下アイドルの活動で稼げる金額なんてたかが知れている。
沙良は、最近流行っている「かわいグアナ」というキャラクターのストラップを買った。「かわいグアナ」は朝のニュースで放映されている一分程度のアニメで、イグアナの「かわいグアナ」とその周囲の日常を描いた作品だ。バイトに持っていくカバンにつけるつもりだった。
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ゆりかがスタバを飲みたいと言うのでフラペチーノを買った。沙良はメニューがよく分からなくて、スタバに来ると毎回期間限定のフラペチーノを買って凍えながら飲んでいる。
「ねえ見てよこれ!慧、また思わせぶりなこと言ってきてちょームカつく!」
ゆりかが、そう言ってスマホの画面を見せてくる。ゆりかと隣のクラスの中村慧は、インスタのDMで会話をしているようだった。最初は修学旅行や志望校のことなど当たり障りない話だったのが徐々に恋愛の話になっていき、「ゆりかの好きな人教えてよ笑」という向こうからのメッセージで終わっていた。
「ねーこれどうしよ、なんて返せばいいと思う?」
「そんなこと私に訊かれてもわかんないよ。そもそもいるの?好きな人。」
ゆりかはえー、うーん、とどっちつかずに唸っている。ああ、好きな人いるんだ。
「その、慧って人?」
ゆりかはその質問を待っていた、という風に喋り出す。
「慧はそういうのじゃなくてー、好きっていうか推し?別に付き合いたいとかはなくて、そもそも彼女とか作るタイプじゃないと思うし。」
中村慧は理系で成績トップ、その上油絵で全国コンクールに入賞しているという才能の塊みたいな人間らしい。写真を見たかんじ凄くイケメンという訳でもないが、人当たりもよく女の子から爆モテしているのだという。沙良はそういう「非の打ち所がない」といった人間を見ると薄ら寒さを感じて敬遠してしまうのだが、やっぱり多くの人に好かれる人間というのは実際関わってみると好きになってしまうものなのだろうか?
「でもゆりかはアイドルだから、恋愛禁止とかあるんじゃないの?」
「まあね。でも一旦十二月で辞めるからさ。その間はちょっとくらい、恋とかしてみてもいいんじゃないかなーっていう。大学行ったらまたオーディション受けて、次はもっと大きいグループ入ってちゃんと売れたいからさ。そしたらまた恋愛とかできなくなるし。」
沙良は時々、ゆりかのこういうところにイライラする。「アイドルとして売れたい」なら「恋したい」は諦めるべきだし、実家太いんだから大学なんて行かずに夢を追いかければいいのに。なんて、将来の夢も特になくボーッと生きている沙良に言われてもムカつくだけだろうから黙っておく。それに沙良は、ゆりかとの関わりがなくなったらほとんど友達ゼロ人だ。ゆりかがダメになったからって、また花穂のところに戻ってご飯を食べるというのも都合のいい話だ。沙良は一人が怖い。昼休みには誰かと一緒にお弁当を食べたいのだ。
「てか沙良、顔青くない?店ん中寒いのにフラペチーノなんて頼むからだよお。ほら、あったかいのあげるから飲みな。」
そう言ってゆりかは、ホットのラテか何かを渡してくれる。一口飲むと優しいシナモンの味がした。あったかい、と沙良は思った。
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沙良はコンビニの制服に着替えると、サコッシュを出来るだけ目立つよう備え付けのフックにかけた。チャックには、この前ゆりかと買い物に行った時買った大きな「かわいグアナ」がぶら下がっている。かなり存在感を放っているので、更衣室のドアを開ければ嫌でも目に入る筈だ。これで河合くんが更衣室に入ってきた時、
「うわ、かわいグアナじゃん。かわいグアナ…かわい…河合?もしかしてあの栗林さんて人、僕のこと好きなのかな?」
と、いう風に勘づいてくれることが狙いだ。名付けて「かわいグアナ匂わせ大作戦」である。河合くんならきっとこの暗号メッセージに気付いてくれる筈、だ。沙良は勢い込んで出勤ボタンを押した。店に出ていくと、河合くんがいた。
「おはようございます。」
この前不意打ちで河合くんが目の前に現れた時のキモいテンパりを挽回するため、沙良は自分が持てる最大限の愛想をかき集めて河合くんに挨拶した。
「ああ、おはようございます。えっと…栗林さん、でしたよね。わかんないことあったら訊いてください。」
間近で見る河合くんは三次元の人間とは思えないかわいさを放っていた。例えるなら、「千と千尋の神隠し」のハク様。そんな人間離れした見目麗しさは直視し続けると眩しさで目がやられてしまいそうだが、会話する時はしっかり視線を合わせた方が好印象だろう、ということを口実に沙良は河合くんの美しい顔を凝視した。店の明るいライトの下で見たところ、どうやら河合くんの涙袋はしっかり本物らしい。沙良やその他一般的人間の様に「描いている」といった不自然さは一切なく、ふとした瞬間、河合くんが横を向いた時もキチンとぷっくり膨らんでいた。その中身が河合くん自身の筋肉なのか注入したヒアルロン酸なのかは判らないが、とにかくそのふくらみがそれなしでも充分かわいいであろう河合くんの顔を「最強に」かわいくしていた。涙袋だけでなく、河合くんの顔には全体的に全く化粧気がなかった。それなのに肌はマシュマロの様に白く、癖ひとつない黒髪と完全に調和している。それにとどまらず、河合くんからはシャンプーの様ないい香りがした。バイトに来る前にお風呂に入ったのかもしれない。河合くんがお風呂に入るということを想像しかけて、沙良はハッと我に帰った。いくら何でも、本人の目の前でそんなことを考えてはいけない。もしも思考が読まれたら一巻の終わりだ。沙良は河合くんのお風呂、のイメージを払拭するため、河合くんが話している内容に集中することにした。河合くんはレジの操作方法を説明してくれている。大体この前教えてもらって知っている内容だったが、河合くんが教えてくれるのが嬉しくて食い気味に相槌を打ちながら聞いた。河合くんの手首は、足と同様びっくりするくらい細かった。白い肌の上を走る青白い血管がきれいで、思わず見とれてしまう。
「…じゃあ、時間なんで上がります。お疲れ様でした。」
「あ、はい。お疲れ様です。」
河合くんはにこりと笑って事務所へ入っていく。更衣室のかわいグアナを見てどう思うだろうか、ドキドキする。ほんの五分、あったかどうかも分からない短い時間だった。それでも河合くんは確かに沙良に向かって話しかけてくれたし、沙良は短い時間で河合くんの情報を少しでも多く吸収しようと全神経を尖らせた。しばらく普通にレジ業務をしていると、河合くんが両手に何か持ってやってきた。ストロングゼロと、ハトムギ化粧水。化粧水はわかる。こんなにきれいな肌で、何も手入れをしていないというのは無理がある。それより飲むんだ、お酒。河合くんって、成人してる大人なんだ。会計してお釣りを渡すと、一瞬、手が触れた。冷たかった。かわいグアナについては、特に何も言われなかった。
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名字が変わったことを担任に伝えると、諸々の書類を書いて持ってくるよう言われた。
「学校ではどうする?栗林に変更するか、根本のままでいるか。どっちでも好きな方を選べるけど。」
「クラスのパッとしない子」の典型の様な沙良であるが、十七歳の女子高生なら大半の人間が持っている程度の自己顕示欲なら例に漏れず持ち合わせている。単に自分の存在を周りに気付いてもらうという目的のため、新しい名字を大公開してみるというのも、まあ、いいかもしれない。
「あ、じゃあ、根本のままで。」
一瞬頭によぎったバカな考えを沙良の理性が即座に却下する。沙良はまともな分別のある人間だ。つまらない欲求のため無駄に目立つことは回避する。沙良はこの学校で出来るだけ空気の様な存在で居続け、誰の目にも留まることなく卒業していきたい。
「おっけー。あ、あと、卒業証書に載せる名前をどうするかも考えといて。」
「はい。」
返事をしながら、果たして自分は卒業まで耐え切れるだろうか?と沙良は思う。あと、一年と数ヶ月。その時間は永遠の様に長く感じられた。根本沙良と栗林沙良、沙良は現在二つの名前を持っているが、そのどちらも本当の名前ではない様な気がした。
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職員室を出て廊下を歩いていると、意外なものが目に入った。花穂と、ゆりかの「推し」である中村慧がロッカーの横で立ち話をしている。どちらもにこやかな笑みを浮かべていて、楽しそうだ。へえ、そこの二人、関わりあったんだ。
教室へ戻ると、ゆりかが弁当を食べながら次の授業の予習をしていた。
「沙良遅いー、ぼっち飯キツかったんですけど。」
「ごめんごめん。」
「いいよー予習やってなかったし。職員室に何の用事だったの?」
「ちょっと、成績のことで。」
「ふーん、沙良は大学なんて行けるとこ行くから成績とかどーでもいいってかんじなのに、珍し。」
沙良はゆりかに、親が離婚したことや引っ越したことを話していなかった。弟に部屋をとられてキッチンで寝ているから生ゴミ臭くて嫌だとか、引っ越してからもうゴキブリを三回は見たとか、話のネタは色々あったけれども何を話しても愚痴っぽくなってしまう気がして言えなかった。友達にどこまで自分の話をしていいものなのか、沙良にはあまり分からない。
「あーほんとに予習だるい。てか知ってる?高橋ってあの歳でまだ実家暮らしで、毎日お母さんの車で送り迎えしてもらってるらしーよ。お弁当もママのお手製なんだって〜。」
「それは…マザコン?」
「絶対そうでしょ!マザコン彼女なし子供部屋おじさん。ひえ〜」
教師というのは生徒のストレス発散のために、関係ないプライベートのことまで色々言われて気の毒なものである。しかし沙良も、高橋という英語教師のことは嫌いだった。たぶん今までとことん真面目に生きてきて、それが絶対的に正しいと信じ込んでいる。というか、そう信じないとやっていられないんだろうな、と思う。高橋に限らず教師という人種全般に言えることだが、自分はこんなに真面目に苦しんできたんだからお前らも苦しむべきだ、という途轍もない圧を感じる。そういう人たちに支配されている学校という場所は、根が不真面目な沙良にとって死ぬほど苦痛なのである。毎日卒業まであと何日、とカウントダウンしているが、ゴールまでは果てしなく遠い道のりなのだった。
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「かわいグアナ、好きなんですか?」
突然の言葉に、沙良は固まってしまった。目の前には、少し微笑みながらこちらを見つめる河合くんがいた。今日も美しい。
「え?あ、はい!」
元々河合くんの目に留まることを狙って用意したかわいグアナなのに、実際何か反応されるとろくな返しが出てこない。
「かわいいですよね、かわいグアナ。俺、名字河合だから。名前似てて親近感あるんすよね、勝手に。」
沙良は驚いていた。河合くんが自分から世間話を振ってくれることに。そして、河合くんの一人称が「俺」であることに。そのかわいらしくて中性的な見た目から、沙良は河合くんの一人称が「ぼく」だと勝手に思い込んでいた。そこに不意打ちの「俺」である。メロい。メロすぎる。河合くんは、沙良の予想の範疇など軽々超えてくる人間なのだ。
「なんていうか、頭も性格も悪いけど強運だけで全部どうにかしてくところがかわいいんすよね。」
「そうそう。罠にハマって人間に捕まる直前で、トカゲを身代わりに逃げ出すのとか。」
「あ、俺もその話好き。」
沙良は実のところ、ストラップを買った時点では「かわいグアナ」のアニメを見ていなかった。「かわいグアナ匂わせ大作戦」に使うなら見ておくべきだろう、と全話視聴しておいて良かった。
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客がレジに来たので、沙良がバーコードを打つ。高校生らしき女の子で、スマホケースにはかわいグアナの友達、「がんばり屋モリ」のステッカーが入っている。
「レジもだいぶ慣れたみたいですね。」
「はい。色々教えてくれてありがとうございます。」
女子高生が店を出ていくと、河合くんが声のトーンを落として言った。
「俺、がんばり屋モリ推しの人ちょっと苦手なんすよね。屋モリって色々頑張るけど、結局いつも報われなくて空とか見てるじゃないですか。それ自体は別にいいんだけど、がんばり屋モリに"健気に頑張ってる自分"を投影して推してるタイプの人、あれ嫌いなんすよね、俺。」
河合くんってこんなにベラベラ喋る人なんだ、と沙良は意外に思う。あとこの人、たぶんめっちゃ性格悪い。沙良は嬉しかった。河合くんの言っていることがとてもよくわかったからだ。沙良は河合くんの容姿のかわいさに一目惚れした訳だけども、河合くんはそれだけじゃないのだ。河合くんの性格の悪さは沙良のものより遥かに研ぎ澄まされ、高次に位置している。それが滲み出ているからこそ、河合くんはこんなにもかわいいのだ。
沙良は、河合くんのことがもっと好きになった。
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二学年約三百人が一堂に会した体育館で、沙良はお金のことについて考えていた。昼休み担任に呼び出され、何かと思えば学校独自の奨学金を七万円くれるのだという。
「親が離婚したら経済的に苦しくなるだろうし、根本は成績もいいから。」
との理由らしい。沙良は勉強が死ぬほど嫌いだったけれども、外面を気にしてビクビク怯えるタイプなので脳が一応受け付ける文系教科に関しては人並みに勉強していた。ほぼ毎日何かしらの教科で行なわれる小テストが、隣の席の人と交換して丸付けを行うというシステムであることも沙良が渋々勉強する大きな要因となっていた。囚人同士で監視し合わせる監獄的策略に、まんまと乗せられているわけだ。沙良はゆりか以外に友達らしい友達がいない。それによって勝手に「真面目」、「勉強ができる」というイメージを持たれることが多い。実際頭は悪いし全く真面目でもないのだが、「こいつは範囲の決まっているテストで合格点を取れないのか」、「ろくに口もきけないくせに勉強もできないのか」、そうやって馬鹿にされるのが恐ろしくて、英単語だの古典文法だの無理矢理頭に叩き込んだ。幸いにも、感覚的な面では人より多少優れた部分があるらしく、教師が立てた小テスト•定期テストの計画に従ってみんなと同じ勉強をしていれば、みんなよりもいい点が取れた。しかし、今回奨学金の件に関してはそこにつけ込まれてしまった形になる。沙良は大嫌いな学校の人間に、個として認識されることを避けたかった。数多くの生徒のうちの一人、有象無象として目立たず無難にやり過ごし、卒業後は一切関わりを持たず学校は既に過ぎ去った二度と戻らなくていい場所、ということにしたかった。それなのに、七万円を貰ってしまったら沙良は学校から、「奨学金を与えた生徒」として「認識」されてしまうではないか!金をやったんだからもっと真面目に勉強しろ、いい大学に行け、模範的な行動をしろ、大企業に就職しろ…。沙良の一ヶ月のバイト代よりも安いたった七万円で、そんな風に生涯付き纏われちゃかなわない。沙良はもう、毎朝登校して一日をやり過ごすことで精一杯だというのに。…流石に、考えすぎだろうか。くれるというのだから大人しく貰っておけばいいのかもしれない。しかし、さらの懸念はあながち完全な杞憂というわけでもなさそうだ。だって、二学年三百人が体育館に集められた目的は、「奨学生の先輩の話」という、同窓生による講演会に参席するためだったのだから!!
奨学金を貰ってしまったら、終わりである。卒業してからもこんな風に教師が生徒を洗脳するための宗教的集会に恐らくノーギャラで呼び出され、間抜け面のクソガキどもに向かって「何かありがたいお話」を説法しなくてはいけない羽目になるのだ。何て可哀想なんだ、と沙良は憐れみを込めて舞台を行ったり来たりしながら話している「伊藤」という卒業生の男を見つめる。しかし、伊藤は「僕なんか大した人間でもないんですけどこんなとこ呼ばれていいんすかね、」などと言いながら満更でもなさそうにニヤついた笑いを浮かべて喋っている。つまり、楽しそうなのだ。彼はこの学校を卒業して学歴ヒエラルキーの上位層に位置する大学に進学し学生起業、卒業後はそのまま経営者をしているらしい。
「やっぱりね、投資ですよ投資。僕が普通の収入と投資で年収三千五百万くらいあって、奥さんが大体千五百とかなんですね。昔だったらあの靴とこの靴、どっち買おう?って悩んでどっちか決める訳じゃないですか。でも今はどっちも買っちゃうんですよね。どうですか吉田先生も投資、始めて見ませんか。」
生徒たちがざわめきながら体育館後方で立って講演を聞いている学年主任、吉田の方を振り向く。沙良は吉田の反応に興味もなかったし、首が痛くなるので嫌だったが一応みんなに合わせて後ろを向いた。
吉田はいきなり呼ばれて驚いたという体を装っているが、あいつは自分が手懐けた従順な教え子が自分に話を振ってくる瞬間を今か今かと待ち望んでいて、予め準備していた反応をやってみせたのだろうということが沙良にはよく分かった。だけど、この場にいる大多数のバカどもにはそれが分からない。その事実に身の毛がよだち、沙良は全身を掻きむしりたい衝動に駆られる。吉田は生徒たちから絶大な支持を得ていた。教科は日本史、沙良も日本史選択なので吉田の授業スタイルはよーく知っている。彼は「教養」という言葉を何よりも愛しているといったタイプの人間だった。大学入試のためだけでなく、「人生を豊かにするため」に日本史を勉強してほしい、事あるごとにそう言っていた。歴史人物の面白エピソードや文化芸術など生徒の興味を引くような話を授業の合間に挟む、いわゆる「カリスマ性」のある教師。実際生徒からの人気は高く、世界史と日本史どちらにするか決めあぐねた文系生徒の中には「担当が吉田先生だから」という理由で日本史にやってくる生徒もいるくらいだ。しかし、沙良は入学当初から何かがおかしいと思っていた。上手く説明できないが、何かが間違っている。吉田には決定的な何かが欠落している。最初はそれが何なのか分からなかった。そんな風に思う自分の方がおかしいのだろうか。吉田は、別に何も間違ったことを言っていない。花穂と一緒にいた頃、それとなく話を持ちかけてみたことがある。
「吉田先生って、なんか…怖くない?」
すると、いつも穏やかな花穂にしては珍しく露骨に嫌悪の表情を作られてしまった。
「何で?いい先生じゃん。」
花穂は吉田信者側の人間だったのだ。あーそうだよねごめんごめん、と言いつつあーダメだなこの子、と思ってそれ以降吉田について花穂と話をすることはなかった。同じような質問を、ゆりかにもしてみた。
「吉田ってなんか…キモくない?」
ゆりかは世界史選択。吉田の毒牙にかけられていないので、客観的な意見が聞けるのではないかと期待した。
「贅沢なこと言わないのー。世界史のハゲジジイに比べたら一億倍マシだって。あいつ、なんか世界史愛はすごいっぽいけどすぐブチ切れだすからほんと無理。老害最悪。」
沙良はその時、ピーンときたのだ。そう、そうだよゆりか。愛。それだ。愛だよ。吉田には歴史に対する愛がないのだ。人々が成してきたこと、残してきたもの、生きていたということそのものに対する愛。愛は救済と同義、だと沙良は思う。吉田にはたぶんそれが、ない。なーんだ。「なんかすごい」感をやたら振り撒いているこいつ、吉田は、実は全然すごくなんかないのだ。それが分かると「カリスマ性」は単に高圧的なだけに思え、「教養」は吉田が吉田自身を飾り立てて上手く生きるための安っぽい道具にしか見えなくなってしまった。歴史に名が残っている人間は、多少なりとも「歴史に名を残したい」という考えがあった筈だ。そうでなければあんなにも必死に人を殺したり、助けたりしただろうか?折角頑張ったのに、名前が残ってどうなるかといえばなんちゃってカリスマ教師が自己満足するための道具として利用されるだけなんて虚しいものだ。…どうして、そういうことがみんなには分からないのだろう?そのことが沙良を苛立たせた。しかしその問いに対する回答を、沙良は感覚的にちゃんと分かっていた。できれば目を背けたい、考えると胸が苦しくなってしまうような現実だ。それはいわゆる「同族嫌悪」というやつで、沙良と吉田は「空っぽの自分に何かを無理矢理詰め込んで安心する」という点で似ている。吉田であれば日本史の知識や薄っぺらい教育論、沙良の場合は周囲のあらゆるものに対する不平不満、最近だと河合くんに対する恋愛感情。吉田は自分で歴史を作る気はないし、沙良は最悪な周囲の環境を変えようとはしない。自分も河合くんのようにかわいくなろうと努力をする訳でもない。恋人になって河合くんのかわいさを一人占めするために頑張る訳でもない。沙良はまだ、河合くんのLINEすら訊けていないのだ。行動力がない。何事に対しても受け身。
「大体みんなそんなもんでしょ。最初から中身がある人間なんていないのよ。」
いいや、違うのだ。世の中には、たとえ中身が空っぽでも驚くべきバイタリティーをもって自分が主役の人生を送れる人間というのが、確かに存在している。そういう人たちが歴史を作り、悪習を正し、好きな人と付き合えるのだ。沙良は彼ら•彼女らが羨ましい。吉田は自分と同じ、つまり沙良の理想の対極にいる人間なのだ。
…でも、まだ間に合う。微かな希望がある。だって、沙良はまだ十七歳なのだ。早くこの空間から脱出しなくてはいけない。あんな風に、吉田みたいになってしまうなら、空っぽでいる方がずっといい。
✴︎
悪魔的講演会が終わり、二百人がひしめき合う廊下は騒がしかった。運動部男子の集団が、「どっちも買っちゃうんですよね。」というセリフが気に入ったらしく何度も繰り返して言っている。「やっぱり頑張ってる人ってすごいよね。」なんてふざけた感想も聞こえてきて、沙良はうんざりしてしまう。どうしてみんな、そんなに素直なのだろう?そんなんだから、吉田みたいななんちゃってカリスマ教師の本性を見抜けず簡単に洗脳されてしまうのだ。聴覚を遮断したい思いに駆られていると、隣を歩くゆりかが短い息を吸い込むのが聞こえた。
「あの人の話さあ、最初から最後まで全部キモかったよね!」
ギョッとするような大声だった。一瞬辺りがしんと静まり返った後、ひそひそと会話が再開される。
「大家族で貧乏だったとか、睡眠時間削ってどーのこーのとか、苦労自慢キツすぎ。だから何ですか?チー牛がラッキーパンチでちょっと成功したからってイキんな成金野郎。会社潰れろ!」
ゆりかの、高い位置で結んだツインテールがさらりと肩に触れた。成程生まれつきの金持ちお嬢様であるこの子が言うととても説得力がある。沙良はニヤつきが抑えられなかった。ゆりかのこういうところが好きだ。沙良は自分が思ったことをこんな風に、みんなに聞こえるように言えない。
「なんていうか、頭がいい人ってすごいよね。」
沙良がこの場で口に出すことのできる、精一杯の軽蔑を表現したセリフだった。それを汲み取ってくれたらしいゆりかが、ふん、と鼻で笑ってみせる。
「…てか、さっき慧が私に手振ってくれたの!友達と一緒にいたんだけど、私にだけ分かるように…ヤバくない?私の推し尊すぎるんですけど。」
ゆりかの声のトーンが急変してギョッとする。慧とかいう奴、そんな小慣れたことができるのか。
「この前のDMね、結局好きな人いないって返したら、「うそ」「いるくせに」「ゆりかちゃんのすきなひとしりたい」って、全部平仮名で返ってきたの。ちゃん付けだよ?ちゃん付け。ねえどおしよ沙良、ホントに好きになっちゃいそお〜」
げげげげ。気持ち悪い。これがいわゆる、「エモい恋愛」の始まりというやつなのだろうか。というかもう、推しというより普通に好きなのでは?と沙良は思うけれども、ゆりかはあくまで「推し」という体裁を崩さない。というかこんなに大声で話をして、本人に聞かれたらマズイとか思わないのだろうか?それとも、聞かれることを狙っているのか。腕を絡めて肩に頭を持たせかけてくるゆりかの体温の生暖かさに、溜息をつきたくなる。何だか色々面倒くさくて、沙良は廊下の窓から曇った空を見上げた。
✴︎
コンビニに出勤すると、河合くんが煙草の入っている戸棚を熱心に磨いていた。そんなとこ掃除する?というような場所だ。汚れでもあったのだろうか。
「おはようございます。」
いつものように挨拶すると、河合くんが立ち上がる。嫌な予感がした。
「ああ…おはようございます。」
河合くんの声も視線も、酷く冷たかった。いつもの、涙袋をぷくっと膨らませる優しい笑顔はない。自分は河合くんに何かしてしまっただろうか?もしかして、好きバレして気持ち悪がられている?自分の好意が気持ち悪いことは分かっているが、そうだとしたらとてもショックだ。考えたくはなかったが、河合くんに彼女はいるのだろうか?いてもおかしくない、というかいない方がおかしい。こんなに顔がかわいいのだから、周りが放っておく訳ない。このコンビニに沙良や河合くんと同世代のバイトはいないから狙われることはほぼないだろうけども、他の場所ではそういうわけにいかないだろう。そもそも河合くんが学生なのかフリーターなのか、それすら沙良は知らなかった。知っているのは成人済みであることとかわいグアナが好きなこと、それと河合くんが世界一かわいいということだけだ。それ以外は、何も知らない。
今日の河合くんは、本当におかしかった。いつもならカゴいっぱいに商品を持ってくるお客さんの時は袋詰めを手伝ってくれるのに、今日はカウンター内で自分の足元をボーッと見つめているだけ。客が並び始めてもしばらく気付いていない。
「レジお願いします。」
遠慮がちに言うと、ああ、とノロノロした動きで隣のレジへ歩いて行く。客におせえよと舌打ちされてもまるで聞こえていないようだ。自分の接客をしながら隣のレジをチラチラ見ていると、沙良はあることに気づいた。河合くんの視線が、一点に固定されたまま全く動かないのだ。カウンターの縁を見つめながら手だけ動かして作業しているが、商品を見ていないので中々バーコードを読み込めない。痺れを切らした客が今にも怒鳴り出しそうだというところで沙良のレジが空いたので、慌てて河合くんの方へ行く。
「河合さん、もう上がりですよね。レジ変わりますよ。」
「…すみません。」
河合くんの声には全く覇気が感じられなかった。沙良は憤慨する客に平謝りしながら、頭の中は「河合くんは一体どうしたのだろう」ということでいっぱいだった。
✴︎
沙良にとって、修学旅行は憂鬱なイベントだった。京都の神社仏閣をタクシーでまわる四人班が、花穂と一緒だからだ。他の二人は西野真希と井上音羽、いつも二人でいる目立たない子たちだった。つまり、ゆりかはその中に入っていない。班を決めたのはまだ花穂と沙良が二人でご飯を食べていた頃だったからだ。自分のことながら、短期間でここまで交友関係が変わるものだろうか。しかし一度決めた班を変えることはできない。沙良は気まずい気まずいと思いながらタクシーに揺られていた。
「いやあ、今日はいい天気でよかったね。私、ずっと京都にきてみたかったんだあ。」
花穂が言った。前と全く変わらない、おっとりした口調だった。この子は沙良に対して、怒ったりしていないのだろうか?
「…あ、うん、そうだね!花穂ちゃん、歴史好きだもんね。」
花穂は日本史の成績が常に学年トップだった。修学旅行の行き先に関しては海外や沖縄などリゾート感のある場所が良かったと嘆く生徒も多いが、日本史好きには結構嬉しいのだろう。
✴︎
意外にも、タクシー班での見学はかなり楽しかった。花穂の歴史に関する知識はガイドの運転手をも驚かせるほどで、修学旅行のために下調べをしてきたというより元々知っている大量の情報からその場に合うものを取り出している、といったかんじだった。この子は、吉田信者ではあるが吉田とは違う。愛というのともまた違うが、単純に好きなのだろうなということが話し方や表情から伝わってくる。
北野天満宮で熱心に手を合わせる花穂を見て、そう言えばこの子は教師志望だったな、と思い出す。教科はもちろん日本史。大人になってまで学校に行き続けるのが平気だという神経の図太さには到底理解できないものがあるが、花穂ならきっといい先生になるだろう。単純にその教科が好きで、その魅力を生徒に伝えることができる教師。そういう存在はごく稀だが確実に一定数はいて、花穂ならきっとなれるだろう。控えめな性格だから、どっかの自認カリスマ教師のように突然授業に関係ない自分の思想を語り出したり、いい大学に行くことを強制したりもしないだろう。ただ、生徒にナメられないかということだけが心配である。
沙良は色々なところでお賽銭を投げ入れて祈るたび、「河合くんと付き合わせてください」と神様に頼み込んだ。北野天満宮などは学問の神様だということだったが、そんなの沙良の知ったことではない。大事なのは受験より恋愛だ。とりあえず沢山の神様にお願いしておけば、誰か一人くらい叶えてくれるかもしれない。そんな沙良なので、清水寺の有名な舞台より、隣接する地主神社の方に興味津々だった。大国主命という神様を祀っている神社で、縁結びの御利益があるらしい。大黒様の像を熱心に撫で回していると、いつの間にか後ろに立っていた花穂にクスリと笑われた。
「沙良ちゃん、好きな人いるの?」
「ああ、うん。まあ。」
いないととぼけるのも無理があるだろうと素直に認めると、当然次の質問はこうだ。
「誰誰?うちの学校の人?」
「いや、コンビニの店員さんで…」
「イケメン?」
「うん。…うん?というより、かわいい。」
「へええ、それは通っちゃうね。」
何となく、花穂にバイトをしていることは言いにくかった。沙良の学校はバイト禁止だ。ルールはきっちり守り、催眠術師松岡の数学ですら昼寝も内職もせずキチンと授業を聞いている真面目少女•花穂に堂々と校則違反を公表する気にはなれなかった。花穂は優しいので先生にチクったりすることはないだろうが、ルールを破るなんて信じられないとドン引きされてしまうような気がした。
最後におみくじを引くと、沙良は中吉でまずまずといったところだった。修学旅行前に見た、様子のおかしい河合くんを思い出すと不安になる。しかし、冷静に考えるとこの前の河合くんは沙良に対して嫌悪を感じていたわけではないように思える。体調が悪かったとか、何か嫌なことがあったのかもしれない。後者の場合、上手くいけばその話を聞くことで距離を縮められる可能性もある。名付けて「どしたん?話聞こか大作戦」だ。それとは別に、沙良は「修学旅行お土産大作戦」の実行も計画していた。京都で買った八ツ橋を渡す。それだけの単純な作戦だが、やはり何もしないよりは何かした方がいいだろう。それをきっかけに河合くんが修学旅行でどこに行ったのか、更には高校時代の思い出なんかにも話を広げられるかもしれない。高校生の河合くん、めっちゃ気になる。とにかく何でもいい、少しでも話す口実を作ることが大切なのだ。「鉄は熱いうちに打て」、おみくじに書いてあるその言葉は、今の沙良にとって一番大切なことのように思えた。
✴︎
修学旅行というイベント効果、それに加えて花穂の穏やかでマイペースな性格のおかげで四人はすっかり打ち解け、一日の行程を終えたタクシーの車内には心地よい疲れと沈黙が漂っていた。
「…やっぱり、沙良ちゃんといると楽しかったな。」
花穂がぽつりと呟いた。夕日が花穂の顔を照らしている。沙良は、しっかり話すなら今だと思った。
「あの…ごめん。昼休みとか移動教室とか、前は花穂ちゃんと一緒に行動してたのに、今はその…ゆりかといるようになっちゃって。」
花穂は穏やかに首を横に振った。
「ううん、いいの。沙良ちゃんが私のこと気にしてくれてるの、何となく分かってたし。」
何となく分かってたというのは花穂の本心なのか、それとも優しさなのか。一人でお弁当を食べている、教室での花穂を思い出す。もっと、怒ればいいのに。
「ねえ、前から思ってたんだけど、ゆりかちゃんってちょっとどうなの?自分がハブられたからって花穂ちゃん達の間に割り込んで、沙良ちゃんだって正直引いてるよね?」
真希が話に入ってくる。外野から見ていても思うところはあったらしい。
「てかあのツインテール、何?痛くね?花穂ちゃんさ、良かったら今度から私達とお昼食べようよ。沙良ちゃんも、無理してあの子と一緒にいる必要ないんじゃない?」
音羽も便乗してくる。花穂は困ったように笑っている。この子は人の悪口とか言えない子なのだ。
「あ、そうだ。この後の新京極って、花穂ちゃん誰と回るか決まってるの?良かったら私達と…」
「ありがとう。でも、約束があるから大丈夫。」
夜は21時まで、ホテル周辺の店で自由に食事や買い物をしていいことになっていた。花穂がその時間をどうするつもりなのかは沙良も気になっていたところだが、先約があるというのなら安心だ。しかし花穂に他クラスの友達がいるイメージはなかったので、少々意外だ。…いや、そういえば一度だけ、他クラスの人と廊下で話している花穂を見たことがある。沙良の胸に嫌な予感が走った。いや、でもそんなまさか。すると、真希が突然ニヤニヤと笑い出した。
「花穂ちゃん、さっき地主神社で2個セットのお守り買ってたよね。…もしかして彼氏?」
花穂が慌てた様子で口籠る。どうやら図星らしい。それにしても、お守りを買っていたなんて気づかなかった。花穂は、沙良と疎遠になっていたほんの数ヶ月の間にちゃっかり彼氏を作っていた。二人でいた頃は、そんなそぶり全くなかったのに…それとも、沙良に話していなかっただけだろうか?花穂は恋愛に関して大した経験のない自分の同類だと沙良は思っていたが、どうやらその認識は間違っていたらしい。隣に座る花穂が何だか大人びて見えた。
「それでその…相手は?」
沙良が恐る恐る訊ねると、花穂はスマホを操作してこちらへ向ける。
「この人なんだけどね…」
嫌な予感は見事的中した。写真に写っていたのはゆりかの推しのエモい恋愛スターティングセット男こと、中村慧だった。
✴︎
夜の商店街は不思議な光を放っていた。学校と家、それからコンビニを行き来するだけの真面目生徒である沙良には何もかもが新鮮に思えた。居酒屋に服屋、土産物屋。見ているだけでワクワクする。純粋にこの状況を楽しみたいと思う反面、沙良の頭の中はある心配事でうめられていた。ゆりかが、花穂慧カップルを目撃してしまうことだ。二人が付き合っていることはまだ話していないが、いずれ何らかの形で分かることだろう。被害を最小限に抑えるにはどうしたものか、沙良は悩んでいた。自由行動といっても移動可能な範囲は限られているため、周りを見れば大体どこにいても同じ学校の制服を見つけられる。カップルを見かける度、沙良は内心ヒヤヒヤした。それにしても、恋人と行動している人の多さには驚かされる。沙良には全く無縁の青春だった。少し前までならリア充爆発しろ、などと心の中で悪態をついていただろう。しかし今は、単純に羨ましかった。もしここを河合くんと一緒に歩いたら、きっとすごく楽しいだろう。
「ねえねえ、ご飯あのお店で食べない?」
ゆりかが指差した店のガラスケースにはうどんや蕎麦、丼物の食品サンプルが並べられている。いつもより少しだけ短くしたスカートに十二月の冷たい空気が入り込んできて、何か温かいものが食べたい気分だった。
「そうだね、あそこ入ろっか。」
「あとさー、別のお店でデザート食べようよ。私抹茶パフェ食べた…」
ゆりかの言葉が不自然に途切れる。どうしたのかと目を覗き込んでも、ゆりかは沙良を見ていない。後ろにある何かを凝視している。ゆりかが見ている、見てしまったものは何なのか、沙良は直感的に理解した。ああ、こうやって、最悪の想定は結構現実になってしまうのだ。ゆりかの視線を追うと、花穂慧カップルが手を繋いで歩いているのが見えた。ああ、どうしよう。振り返ると、ゆりかはこちらに背を向けてすたすたと店に入っていくところだった。
「ちょっと待って、」
沙良は慌てて追いかける。
✴︎
二人とも鍋焼きうどんを注文した。店内は騒がしかったが、料理を待っている二人の間にはしばらく気まずい沈黙が流れた。
「…慧って、花穂ちゃんと付き合ってたんだ。」
先に口を開いたのはゆりかだった。
「そう、みたいだね。私も今日、タクシー見学の時に初めて聞いて。」
「そっか。」
ゆりかはタクシー班見学を、前いたグループの子達と回っていた筈だ。ホテルで一旦合流してから、不自然なほど午前中の話はしていなかった。きっと、さぞかし気まずい思いをしたに違いない。その直後にこれだ。楽しい筈の修学旅行なのに、ゆりかにとっては辛い一日になってしまったことだろう。
「まあ、別にいいけど。慧のことは別に好きなわけじゃなくてただの推しだし。ただ、あいついつも飄々としてて掴みどころないから彼女とか作ることあるんだーって、意外だっただけ。」
明らかに強がりを言っているゆりかに何と答えたものか迷っているとうどんが運ばれてきて、蓋を開けると湯気がもくもくと立ち上った。大きなエビの天ぷらとシイタケ、油揚げにほうれん草。
「うわ、おいしそ。」
「ね。食べよ食べよ。」
つるつるしたうどんを口に入れると、ホッとするような優しい味が広がった。
「おいしいね。」
「うん。」
しばらく無言で食べることに集中していると、湯気の向こう側で鼻を啜る音が聞こえ始めた。熱いものを食べているから、というだけが理由ではないだろう。湯気ごしにゆりかの顔を見ると、目からぽろぽろ涙が溢れていた。
「ゆりか…」
涙を流しながら、ゆりかは絶対に食べることを中断しようとしない。
「まじで、ほんっっとにムカつく。何で慧があんな芋女と…」
ゆりかは紙ナプキンで鼻をかみながら続ける。
「てか、慧も慧じゃね?いつから付き合ってんだか知らないけど、彼女いるくせに思わせぶりな態度とりやがって。あーもうムカつく!お前らはあ、平凡な優等生のいい子ちゃん同士せいぜい仲良くやってってくださあい。で、結婚とかして、普通のクッソつまらない人生歩んでけばいいんじゃないでしょーかあ?細やかな幸せ?的な?」
結婚とはかなり話を跳躍させたものだ。そんなに心配しなくても、高校生のカップルなんて簡単なことですぐ別れるだろうに。
「はい、じゃあ今からあ、クソキショ男慧をブロックしまあす!」
ゆりかは沙良に画面を見せながら、慧のインスタとLINEアカウントをブロックした。やけに思い切りがいい。
「うん、それがいいと思う。慧くんって、何ていうか…いけすかない?かんじだし。ゆりかには他にもっといい人いると思うよ。」
「いい人って、例えばどんな人?」
「うーん…ゆりかが好きなバンドの、ボーカルとか。」
「いや無理でしょ、流石に。」
「でもアイドルなるんだったらさ、歌番組とかで共演できるかもしれないじゃん。」
ゆりかは自分がアイドル志望であることを今思い出した、というような顔をした。その後、頬杖をついてニヤニヤと笑いだす。
「えー。えー。高久律と付き合えるとか、マジやばいな。えー。えー?やば。慧みたいなしょーもない奴と付き合わなくて良かった〜。私の人生唯一の汚点になるとこだったわ。」
ゆりかは大分元気が出たみたいだった。お会計して店を出ると、二人は手を繋いで抹茶パフェのお店に向かった。
✴︎
シャワーを浴びながら、大浴場じゃなくて良かった、と沙良は思った。同性とはいえ恥ずかしいし、二ヶ月ほど前に発狂して彫刻刀をブッ刺した傷を見られたらマズい。昔交通事故に遭ったとか何とか言って誤魔化せればいいが、詳しい状況を質問されたら困る。経験してもいないことを、本当かのように話して聞かせられる自信はなかった。
あの時、血が止まるまで大分時間はかかったが、落ち着いてきたところで沙良は傷口に絆創膏を貼った。翌日は一日中、腕が痒かった。学校から帰って絆創膏を剥がすと、傷口は驚異の自然治癒力によりピンク色の肉で塞がっていた。アジの開きのような、美味しそうと言えなくもない奇妙なにおいがする。運動したり、お風呂に入ったりして血行が良くなると心なしか色が濃くなるその傷跡は流血沙汰から二ヶ月経った今も消えずに残っていて、触ると少し窪んでいる。もう完治することはないのかもしれないが、不思議と後悔する気持ちはなかった。傷の形が、河合くんの涙袋に似ていたからだ。これといって特徴のない微妙な形の切り口だったが、何かに形容するなら河合くんの涙袋、それが沙良には一番しっくりきた。それに加えて、このぱっくり開いた傷口は忌まわしき自称進学校による被害の証拠だ。このままだと喉元過ぎれば熱さを忘れる、何だかんだ高校時代いい思い出だったよねーなんて、過去を美化してしまいかねない。だからこの苦しみ・憎しみを忘れないという自戒を形として残せたことは、沙良にとって一つの成果だった。あのバカ教師共に、傷跡を見せまわってやりたい気さえした。みんな不快に思うだろうが、それこそ沙良の望むところなのである。
✴︎
風呂から出ると花穂と真希、音羽が恋バナで盛り上がっていた。
「いつから?どっちが告白したの?てか何繋がり?」
「ちょっと真希、一気に質問しすぎ。」
花穂は照れた様子で笑っているが、質問攻めにされることを嫌がってはいないようだった。
「えーと、慧とは中学が同じで。三ヶ月くらい前に、向こうが告白してくれたの。」
呼び捨てなんだ、と沙良は意外に思った。花穂と沙良は、お互いをちゃん付けで呼んでいる。一年生の頃からどこかよそよそしさを感じながらも、呼び捨てやあだ名に変えるきっかけもないままだった。三ヶ月前といったら、ちょうどゆりかがこっちにきて微妙に気まずくなり始めていた頃だ。沙良は色々気を揉んで神経をすり減らしていたが、花穂は友達同士のちょっとしたいざこざより恋愛の方に気を取られて忙しかったのかもしれない。
スマホを見ると、別室のゆりかからLINEがきていた。
「私の部屋の人たちみんな別の部屋行った。多分もう帰ってこない爆笑。沙良こっち来てー」
「203号室」
ゆりか一人を残して退散するとは、随分酷いことをやるものだ。まあ部屋に残られて、自分一人だけ身の置き場がないよりはマシだろうが。沙良はりょうかい、と打って返信する。
✴︎
「ちょっと、出てくるね。」
「ゆりかちゃんのとこ行くのー?早く戻ってきて、うちらと恋バナしようよ。」
「うん。」
花穂が行ってらっしゃい、と手を振る。部屋から出て、長い廊下を歩く。沙良の足音は全て床に吸収される。同じデザインの扉が延々と続く光景は、何かのダンジョンに迷い込んでしまったかのようだ。階段を1階分降りて、203号室のドアをノックする。内側からドアが開き、ゆりかがひょこっと顔を出した。
「いらっしゃ〜い」
ゆりかはレモンイエローのパジャマを着ていた。正に女の子というかんじのパジャマだ。
「あいつらマジ、性格終わりすぎ。まあお陰で沙良たんと二人きりになれるからいーんだけどね。今日、こっちで寝るでしょ?」
沙良は頷く。流石に、修学旅行の夜一人なんてゆりかが気の毒だ。花穂たちには戻ると言ったが、まあ別にいいだろう。
✴︎
夕食の帰りに買ってきたお菓子をベッドに広げ、取り敢えずUNOでもやろうか、とゆりかが持ってきたカードを取り出す。赤、赤、2、青、青、スキップ。二人でやるUNOは何だか味気ない。こういうカードゲームをやるなら人が三人は欲しいところだ。二回目のゲームが終わったところで、ゆりかがゴロンとベッドに寝転がった。
「あーあ、何で私ってこんなかわいいのになんにも上手くいかないんだろ。友達にはハブられるし、失恋するし。」
やっぱり、「推し」じゃなくて「好き」だったんじゃん。沙良は苦笑する。
「ゆりかは将来、国民的アイドルになるんでしょ?そういう運命だから、スキャンダルが出ないように神様がストップかけてくれたんだよ。」
「なに、その謎理論。」
ゆりかは力なく笑って、ぼうっと天井を見上げる。
「…私って、少女漫画でいったら地味な主人公に意地悪する悪役ポジションだよね。さいあく〜。」
地味な主人公というのが花穂のことなら、沙良は悪役の腰巾着といったところだろうか。
「あー何で私、こんなに人から嫌われるんだろ。やっぱ金持ちでかわいくて、気が強いから?…きびしー。」
「ちょっと、私の存在忘れてない?私はゆりかのこと好きだよお。」
おそらく、この場の最適解であるだろうセリフ。「好き」という言葉を使うのは薄気味悪かったが、そんなに棒読みにならず言えて良かった。ゆりかと付き合うようになってから、沙良は自分の「一般的女子高生」としての振る舞いが上達していくのを感じる。自分はゆりかのことが「好き」だろうか?…好きでも嫌いでもない。それは、花穂に対しても同じ感覚だった。花穂とゆりかどっちと一緒にいるか、正直別に、どっちでもいい。休み時間や移動教室で一人にならなければ、相手が誰だろうと大した違いはない。沙良の「好き」な人は、あの学校に誰一人としていない。沙良は、誰かを好きになってみたかった。もっと言えば、「この人の言うことなら信じられる」と思えるような人が欲しかった。花穂が吉田を敬慕するそれと同じように、沙良も誰かを尊敬する、そういう感情になってみたかった。そして、その人にどこか正しいと思われる方向に導いて欲しい。だけど、そういう人は沙良の周りに誰一人としていないのだ。だから沙良は、中身空っぽな自分をそれでも無理矢理信じるしかない。無駄に自我が強いのも、中々大変なものなのだ。
「もお私には沙良たんだけだよお。」
沙良の思考もつゆ知らず、ゆりかがもたれかかってくる。どうしてこの子は、こんなにベタベタ人にくっつきたがるんだろう?しかし突き放すのも怖いのでそのままにしておく。
「…やっぱ私、アイドルになりたいな。」
ゆりかがボソッと呟いた。
「私、誰かと付き合って仲良くする〜とか、信頼関係築く〜とか、もう無理だと思う。性格悪いし、自分のこと好きすぎてそういうの向いてないんだよね、多分。」
沙良はゆりかに性格が悪い自覚があるということに驚いた。
「だから私、質より量が欲しいんだ。一人にめっちゃ愛されてもさ、その一人が何かでいなくなっちゃったら全部パーじゃん?飽きるし。私は不特定多数に趣味としてちょっとずつ好きになってもらって、チヤホヤされたい。」
ゆりかの承認欲求の強さは普通のレベルを超えている。「私はかわいい」、「私は特別」というような発言は、根本的な自信のなさの現れのように思えた。人と違う生き方をしなくても平気な、平凡や普通を選べる人の方がよっぽど自分に自信があるのだ。だって普通の、自分の人生に価値があると思っている。ゆりかにはそれができない。誰かと同じ自分の人生に価値はないと思ってしまうのだ。
「…じゃあ、二十四日楽しみにしてるね。ペンライト買って…メンバーカラー、黄色だっけ?」
「うん。ほんとは白が良かったんだけどね。他の子に取られちゃって、じゃあ何でもいいやってテキトーに選んだけど今は黄色が一番好き。」
そういえばパジャマも黄色だ。フードを被ってえへへと笑うゆりかは、かわいいと言えなくもなかった。
✴︎
修学旅行のお土産です、みなさんで食べてください。そう言って12個入り八ツ橋を店長に渡すと、みんなが見られるように事務所の机に置いてくれた。タイムカードを押してカウンターへ出ていくと、河合くんが煙草を出していた。今日も不機嫌だったらどうしよう。
「…おはようございます。」
「はざます!」
沙良の予想に反し、河合くんは爽やかに返してくれた。ホッとすると同時に、嬉しさが込み上げて来る。河合くんのご尊顔を拝めるのはほぼ一週間ぶりだった。
「あの、修学旅行のお土産事務所に置いてあるんで良かったら食べてください。」
脳内で何度もシュミレーションしたセリフを、一息で言い切る。
「ありがとうございます。どこ行ってきたんですか?」
「京都です。なんか、寺とか神社とかいっぱい見てきました。」
「へええ。じゃあ、お土産は八ツ橋?」
「あ、はい。そうです。」
「やったあ。俺、好きなんですよ八ツ橋。」
もう箱ごと全部持って行ってください、とは流石に言えないが、どうやら「修学旅行お土産大作戦」は成功らしい。
「あ、そうだ。俺今日、ケーキ予約して帰るつもりだったんですよ。んー、どれがいいと思います?」
そう言って河合くんが見せてきたのは、クリスマスケーキのカタログ。そうだ、今月の下旬にはクリスマスがあるのだ。定番のショートケーキからかわいいブッシュドノエル、アイスケーキなんかもある。
「あ、これ。かわいグアナコラボの…」
沙良は、かわいグアナとがんばり屋モリのチョコレートが乗ったケーキを指さす。中にはイチゴやキウイなどフルーツが入っているようだ。かわいグアナは最近数多の企業とコラボしまくっていて、キャラクターのゆるかわいい見た目とは裏腹に稼げるだけ稼ぐぞという製作陣の強い心意気が頼もしい。
「んーでもこれ、かわいいけどデカいんすよね。一人じゃ食べきれないから、3号のちっちゃいやつがいいかなって思うんですけど…」
沙良は「一人じゃ食べきれない」という言葉に瞬時に反応した。二人が見ているのはクリスマスケーキのパンフレットだ。クリスマスに一人、ということは、河合くんに彼女はいない。そう考えていいのだろうか?それを確かめるには、今が最大のチャンスだ。自然な会話の流れで質問できる。えー、彼女とかいないんですかあ?えー、彼女とかいないんですかあ?えー、彼女とかいないんですかあ?…
「えー、彼女とかいないんですかあ?」
訊いた。訊いてしまった。
「いやあ、悲しいことにいないんすよ。へへへ。」
河合くんは沙良の期待していた言葉を、いともあっさり口にしてみせた。沙良は、店内を奇声を発しながら駆け回りたいくらい嬉しかった。河合くんに彼女がいない。それは沙良にとって、どんなことよりも嬉しいニュースだった。
「じ、じゃあこれとか…」
沙良は何とか平然を装いながら、ちんまりかわいいブッシュドノエルを指さす。
「おいしそうですよね…じゃあ、これにしようかな。」
河合くんがバーコードを読み込んで予約の手続きを始める。後ろから河合くんのクラゲみたいな頭を見つめていると、急にどうしようもなく胸が苦しくなってくる。河合くん、クリスマスに、一人でケーキ食べる河合くん。私も一緒に食べたいよ。彼女いないならいいじゃん、ねえ?
しかし実行力のない沙良は、どんなに強く思ってもそんなこと実際口に出せはしないのだった。
沙良は河合くんが好きだった。本当に本当に、大好きだった。
✴︎
「はい、じゃあ今日はクリスマスですからね。ちょっとゲームをしましょう。」
授業も残り10分というところで、松岡がいつもと同じ無表情・抑揚のない声で言った。各々がっつり寝る体勢に入っていたり、別教科の課題をやったりしていた生徒たちの視線が一斉に松岡に集まり、教室が静まり返る。誰も真面目に授業を聞かないことにとうとうキレて、バトル・ロワイヤルでも始めようというのだろうか。おいおい明日から冬休みだっていうのに勘弁してくれよ、と沙良は思う。松岡はみなさんにちょっと殺し合いをしてもらいます、とは言わず黙々と何かを準備している。今まで電子教科書が映し出されていた黒板のスクリーンが、教卓の上をリアルタイムで映す映像に切り替わる。ミニ三脚で固定されたiPadと連動しているようだ。かつてないほどの注目を浴びながら松岡がポケットから取り出したのは、トランプだった。松岡はカードをケースから取り出し、見事な手捌きでカードをシャッフルしていく。すげえ。誰かがぽつりと呟いた。松岡はカードを二つの山に分けると、最前列の男子を指差した。
「はい、じゃあ山田。右か左、どっちか選んで。」
山田はえ、俺?というように周りをキョロキョロ見渡してから口を開いた。
「えっと、じゃあ…右で。」
「はい、右ね。じゃあこの山から好きなカードを一枚選んでください。」
山田は大人しく、差し出されたカードの束から一枚を選んだ。
「じゃあ皆さん、このカードを覚えてくださいね。私は、カードを見ていません。」
松岡が、カードがクラス全体に見えるよう高く掲げる。ハートのエースだった。
「このカードを真ん中に挟んで…山を合体させます。」
再びカードが一つの束になり、あっという間にシャッフルされてしまう。きって、分けて、向きを変えて、またまとめて。松岡が念入りに混ぜたトランプを教卓上に広げる。扇状に並んだトランプの中に、一枚だけ裏返しになっているカードが見えた。松岡は、それを摘み上げる。
「山田が選んだカードはこれですね?」
ハートのエースだった。おお、と生徒たちの間から感嘆の声が上がる。
「このカードは山田にあげましょう。」
「あ、あざっす。」
山田がハートのエースを受け取ったところで、丁度チャイムが鳴った。
「それでは皆さん、有意義な冬休みを過ごしてください。メリークリスマス。」
そう言って松岡は号令なしで教室を出ていく。沙良は、右足を引き摺るようにして歩く松岡の後ろ姿をしばらくの間眺めていた。
✴︎
沙良は17歳にして初めて、ライブハウスに足を踏み入れた。入って左側にカウンターがあり、そこでドリンクを買う仕組みになっているようだ。列に並んでいる客は大半が中年男性だったが、二十代と思われる女性もチラホラいる。500円。高いな、と思いながら烏龍茶を注文する。店員のお姉さんの顔には耳、口、鼻、眉、開けられるところは全部開けましたというように大量のピアスがぶら下がっていた。透明なプラスチックのカップに入ったドリンクを受け受け取り、人の流れに従って客席へ入る。客席といってもオールスタンディングなので、慣れない沙良は邪魔にならないよう後ろの壁際に行ってペンライトを取り出した。カチカチと何度かボタンを押して、黄色で止める。加糖れもん、というのがゆりかのアイドルとしての名義らしい。沙良の知らないアイドルソングばかりのSEに耳を傾けていると客席が暗くなり、大音量で音楽が流れ始めた。ライブが始まるようだ。ボリュームのある衣装を着たアイドル達が一人ずつステージに登場し、それぞれ短い振りを踊った後静止する。右に二人、左にも二人。最後の一人がセンターに立つと照明が切り替わり、五人の顔がハッキリ見えるようになる。全員、サンタやトナカイの被り物をしてクリスマス仕様だ。
「メリークリスマース!ふぁんたじぃまかろんズでーす‼︎みなさん盛り上がっていきましょー!」
「わー!!」
野太い歓声に迎えられ、ふぁんたじぃまかろんズのメンバー達は歌い踊り始める。沙良は客の熱気に圧倒されながら、何となく音に合わせてペンライトを振る。これは対バンライブ、ゆりかのグループがいつ出て来るのかも分からなかった。一グループ平均四曲、入れ替わり立ち替わり様々なアイドルがステージに出てきては引っ込んでいく。フワフワかわいい王道アイドルから、とにかく元気な曲ばかりのグループ、デスボイスでシャウトするような曲調まで、アイドルといっても色々あるようだ。沙良はこんなにも大勢の女の子達がアイドル活動をしているということに驚きを感じていた。この子達はこれを職業として生活しているのだろうか?それなりにかわいい子もいたし、言っちゃ悪いがこの子がアイドル?というような見た目の子もいた。たくさんの女の子がいるけれども、河合くんよりかわいい子は一人もいないな、と沙良は思った。沙良も年相応に、「もっと目が大きかったらな」とか、「顔に立体感がほしいなあ」とか、自分の容姿を気に病むことはあった。しかし河合くんに出会ってからは、そういうことがかなりどうでも良くなってしまった。どんなに容姿端麗な女の子だって、河合くんのかわいさに勝てる人間は誰一人としていないのだ。河合くんは、男の子なのにも関わらず。
7グループ目、ゆりかがようやくステージに現れた。ゆりかのグループは四人組で、みんな真っ赤なサンタのコスプレに黄色い星のカチューシャをつけている。ゆりかはいつものツインテールを三つ編みにしていた。曲が始まり、ゆりかが歌い出す。上手いとも、下手とも言えない。音程はそれなりにとれているのだろうが、無理にかわいい声を作ろうとして鼻にかかったような歌い方が若干耳障りに聞こえてしまう。それでも、ゆりかは「アイドル」としての振る舞いという点で今まで出てきた人たちの中でも突出しているように感じた。ずっと笑顔を崩さず、これでもかというくらい大量のファンサをしているゆりかは、とてもかわいかった。後方彼氏面地蔵状態の沙良のことも見つけてくれたようで、思いっきり手を振ってくれる。かわいいアイドルソング、歌詞が意味不明のポップス、感動系のバラードを立て続けに歌った後、MCがはさまれた。
「みなさーんクリスマス楽しんでますかあ〜?」
「たのしー!」「れもんちゃーん!」「かわいー!」
前方で叫んだ三人は黄色のペンライトを掲げていた。どうやら固定のファンのようだ。
「えへへ、ありがとうございまあす。今日はクリスマス兼私の卒業ライブでもあるんですけど、大好きなみんなとたくさん楽しい時間を過ごせて本当に幸せでした。最後に、私にとってとても大切な曲を歌わせていただきます。」
最後の曲は、ゆりかの好きな女児アニメのオープニング曲だった。
あたしはれもんちゃん
ふだんはおっちょこちょいだけど
やればできるこ ほんとだよ
ぜったいあたしのかわいさを
ぜんせかいにひろめたいの〜♪
✴︎
「ありがとうございましたー!」
絶対またいつか会おうねー!と手を振ってステージ裏に消えていくゆりかを、歓声が見送る。そうか、沙良はまたいつでもゆりかに会えるけど、ファンの人達にはこれが最後なのだ。
ライブというのは不思議なものだな、と沙良は思った。実際演者は目の前のステージで歌い踊っているのに、どこか現実感がなくて映像のように思えてしまう。終わった後は全て夢だったのではないか、という気さえする。沙良はフラフラと駅まで歩き、帰りの電車に乗った。クリスマスの街は幸せそうに手を繋いで歩くカップルで溢れていた。
✴︎
家に帰ると、チキンとケーキが用意されていた。どうやら栗林家にも、一応クリスマスがきたらしい。
「沙良、さっき先生から電話があって、奨学金の件どうするか冬休み明けに教えて欲しいって。何なの?あの人達、まるでウチがすっごい貧乏で困ってるから恵んであげましょう、みたいな。」
母は奨学金の件でプライドを傷つけられたようだ。
「なんかめんどくさいから断りたいんだけど、何て言えばいいと思う?」
「ウチはそんなに貧乏じゃないので要りませんって言えば?…まあくれるっていうんなら貰ってもいいとは思うけどね。」
沙良はお腹が空いていたのでチキンを秒で食べ終わり、ショートケーキにフォークを突き刺す。自分のことじゃないからって、母のテキトーな物言いに無性に腹が立ってくる。母からすればへー七万もらったの良かったねー程度の話だろうが、沙良は重い足枷をはめられる羽目になるのだ。大体自分に稼ぐ能力がないせいでこんな風に学校から情けをかけられている、その状況を本人は理解しているのだろうか?まあ沙良も沙良で中途半端に成績がいいという失点もあるわけだが、それだって七•八割は両親からの遺伝だろう。母は夫ガチャ•子ガチャ共々とんでもないハズレクジを引いてしまって気の毒なものだが、そうはいっても自分で出産という選択肢をとった以上、奨学金を断るそれらしい理由くらいちゃちゃっと思いついて欲しいものだ。しかし、くれるというものを断るのがなかなか難しいのも事実。母の言うように「ウチは貧乏じゃない」と言い張るのも何だか軋轢が生まれそうだし…かといって他には何も、サッパリ思いつかない。体が痒くなってくる。最初は美味しく感じていたケーキも後半になると甘ったるく、沙良は気持ち悪くなってしまった。
✴︎
昨夜奨学金の件ですっかり重くなってしまった心身を引きずりながら、沙良はコンビニに出勤した。予約のケーキやチキンの受け渡しは24日がピークだが、今日もまだクリスマス、というか本来25日が本番なのだ。もしかしたら河合くんのサンタ帽、あるいはトナカイ姿が見られるかもしれない。
しかし、河合くんは店にいなかった。今日は出勤日の筈なのに。嫌な予感がした。それも、超特大級の嫌な予感。
「おはようございます。あの、今日河合くんは?」
沙良は社員の久部さんに声をかけた。何度かシフトが被ったこともあり、それなりに話せる間柄だった。
「ああ、河合くんね。辞めたって。」
沙良は、久部さんが何を言っているのかわからなかった。
「…は?辞めた?」
事態を飲み込めず、すっとぼけた声が出てしまう。
「店長から聞いたんだけどね、あの子鬱病?だか何だかで精神的に不安定なところがあったみたいなのよ。言われてみれば確かに、お客さんに挨拶もしないでむすーっと黙り込んでるなあと思ったら、次の日には調子良く訳の分からないことをペラペラ喋りかけてきたりさあ。最近ってそういう子多いのよね。あの髪型も変だし…とにかく、急に辞められると困るのよ。今日だって私ほんとは休みだったのに、いきなり呼び出されて…」
茫然自失の沙良は自動相槌マシーンと化していた。信じられなかった。河合くんが辞めたって、じゃあ沙良の希望は、恋はどうなるのだ?
「…それで、大学も辞めて地元に帰るみたいね。」
「はあ…じもと、ですか。」
「新潟だって。」
「に、にいがたあ?」
そうか、寒い所出身なんだ。沙良は河合くんの真っ白な肌を思い出した。いやいや、そんな呑気なこと考えてる場合じゃない。新潟なんて、そんな遠くに行ってしまったら沙良はもう河合くんに会えなくなってしまうではないか。河合くんがいなくなるという悲報。何て最悪なクリスマスプレゼントであろうか…。河合くんはそのかわいさ故、神に選ばれてしまった。ろくに人もいない地元へ強制送還。神様は河合くんを一人占め。そんなのダメだよ、と沙良は思う。河合くんは特別な人間だ。東京にいなきゃダメだ。河合くんはかわいいから、ただ外を歩いているだけで社会に貢献できる。もったいない。本当にもったいない。沙良は悲しかった。かわいいは才能なのだ。才能を持っている人間は、それを臆面なく振りかざすべきなのだ。それなのに、神様はどうしてこんなことをするのだろう?沙良はどうして、生活の中のほんの僅かなトキメキすらも奪われなくてはいけないのだろう?沙良は目に映るもの全てに苛立った。カップル、くたびれたサラリーマン、大声で騒ぐ子供、虫唾が走る。常連気取りのおっさん、やたら声の小さい若者。自分が店員に何かしら感想を持たれる、認識される、そう思っている傲慢さが心底気に食わない。毎日何十回、何百回といらっしゃいませ•ありがとうございましたを繰り返し、流れ作業でレジを打つこちら側からしたら老若男女客は客でしかない。それから、値引シールが貼られるのを弁当棚の横で待機している貧乏人ども。ほんとにムカつく。そんなに金ないならコンビニなんか来るな、せめて店の外で待つとか、あいつらにはその程度の見栄を張るプライドもないのか?絶対に値引シールを貼りたくないという思いで胸がいっぱいになったが、時間になったらどうしても貼りに行かなければならないのがルールだ。沙良が渋々値引シールを貼った弁当を、薄汚れた作業着の男が早速レジへ持って来る。
「38番。」
煙草だ。で、この人は38番をどうして欲しいわけ?「ください」か「お願いします」だろ?などなど、心の中で悪態をつきながら会計作業をこなす。店内は暖房が効きすぎていて、肌にまとわりついてくるヒートテックが気持ち悪い。BGMで流れるもろびとこぞりての神経にさわる旋律と、明日には片付けられてしまうクリスマスツリーの点滅が虚しかった。結局、河合くんは予約していたブッシュドノエルを取りに来なかった。
✴︎
布団に入ると床からの冷気に身が震えた。居間や弟の部屋の畳と違い、キッチンのフローリングは熱を吸収しない。体温で毛布の中が温まるのをじっと待つ。この薄ら寒く生ゴミ臭いキッチンで寝る度、沙良は私ってまじ没落貴族、と思う。ちょっと前まで一軒家暮らし、どちらかといえば人生勝ち組の側だったのに世の中の栄枯盛衰というのはこうも儚いものなのか。沙良は寒さにじりじりしながら諸行無常を噛み締める。
幼い頃から、電気を全部消した部屋は小さな銀河みたいだと思っていた。それは昔住んでいた一軒家でも、このボロアパートでも同じようだった。玄関の覗き穴によって凝縮されたコンビニの明かりが、強い光を放っている。それはカーテンの隙間から見える本物の星よりも明るくて、目が眩んだ。
沙良は、河合くんのことを思った。河合くんの笑顔、サラサラツヤツヤの黒髪、低いのにこもらずよく通る声。段ボールを開ける時、商品のフェイスアップをする時、全ての動作が優しくて、神経質なくらい丁寧だった。沙良は次々、河合くんの記憶を思い出した。思い出したけれども、沙良の目から涙は一滴も溢れてこなかった。あれ、おかしいな。何でだろう。てっきり、河合くんの思い出を反芻すれば自分は泣くものだと沙良は思っていた。鼻水をかめるように、枕元に箱ティッシュまで準備していたのだ。しかし、一向に涙は出てこない。そのうち河合くんの記憶を懐古するより、何故涙が出てこないのだろうということばかりに意識が向くようになってしまった。ふと、修学旅行の夜、湯気の向こうで泣いていたゆりかを思い出した。
いつまで経っても泣けないので、沙良は代わりに祈ってみることにした。星に願いを、だ。だけど、具体的に何を祈ればいいんだろう?河合くんが戻って来ますように?河合くんにもう一度会えますように?河合くんが心穏やかに過ごせますように、だろうか?寝返りをうつと、夜空の星と目が合った。その瞬間、沙良は何だかバカバカしくなってしまった。星に祈るとか、こんなくだらない少女趣味なこと辞めよう。やっても意味がない。あの光は、過去の中で燃えている星の残像に過ぎない。人間の願い事を叶える力なんて、持ってはいないのだ。
沙良は目を閉じた。次に目を開ければ対面することになる河合くんのいない世界は、きっと心底つまらないものなのだろう。
✴︎
沙良は憂鬱な気持ちで職員室前の廊下に立っていた。冷たい空気に足がスースーする。嫌だなあと思いながらもずっとここにいたってどうしようもないので、沙良は意を決してドアをガラガラと開けた。
「三上先生いらっしゃいますか?」
呼びかけると自席で弁当を食べていた担任が、片手を上げて沙良のもとにやってきた。
「あの、奨学金の件なんですけど。」
「ああ、はい、はい。」
「受け取らない、という方向で…いこうかな、とおも、い、ます。」
「え?何で?」
予想外の発言だったらしく、担任は面食らったような顔をしている。
「えっと…ウチ離婚はしたんですけど、そこまでその…経済的?に?困ってるわけでもないといいますか。他にもっと、必要としてる人がいるんじゃないかなーと。」
他に必要としている人がいる、それは沙良が冬休みの間中考えに考えた末ようやく捻り出した、どうにか奨学金を受け取らずに済むかもしれないなけなしの言い訳だった。担任が切りっぱなしボサボサの頭をかきながら思案する。
「いやあ、今のところ特にそういう事例はないんだよね。根本は模試の成績もいいし…」
「いや、良くないです。」
「ああ、理系科目のことなら気にしなくていいよ。どうせ根本は、来年文系教科しかとらないんだろ?」
「それは、まあ…。」
沙良はまずったなあ、と思った。三年で何の科目をとるかは既に決定していたが、沙良は理系を一科目も取らないというかなり特殊な選び方をしていた。私大に行くつもりはなかったが、公立大の中には数少ないが文系科目だけで行ける穴場的な学校が存在するのだ。沙良はそういうところを適当に受験しようと考えていた。学校は道を狭めないよう文系に絞ることをあまり推奨していないが、沙良の場合理系科目をやるとストレス性蕁麻疹及び発狂という身体的・精神的な害が出るので却下するしかない。そもそも何もやりたいことがないので、選択肢を狭めないことにはいつまで経っても方向が定まらないという消去法的人生なのだ。しかし理系を排除してしまったことで、教師が沙良に対して「勉強ができない子」という判断を下し奨学金給付を見送る、という展開を無意識のうちに潰してしまっていたのだった。勿論奨学金のことなんて科目選択時の沙良は知る由もなかったのだから仕方ないが、やはり人生というのは苦手なものからも逃げずに向き合うべきなのだ。それをしないとこんな風に、バチが当たる。
しかし沙良は文系教科だって、決して飛び抜けてできるというわけでもないのだ。一番得意な日本史でさえ、模試の校内順位を見ればかならず十数人は上に人がいる。じゃあどうして学校は、沙良より勉強ができる彼らを奨学生にしないのか?答えは簡単、沙良より成績のいい生徒は大抵それなりに裕福な家庭の子供だからだ。沙良は腹が立ってきた。こんなに何百人と生徒がいる中で、沙良より貧乏かつ勉強ができる、という人間が一人もいないなんておかしいではないか。一体世の中どうなっているわけ?大学受験という戦場において、根本改め栗林沙良という人間は大して厄介な敵ではないはずだ。誰だって、ちょっと努力すれば沙良の成績なんて簡単に追い越せるだろう。ここにいる人間はその程度の才能すら、誰一人として持っていないのか。そう思うと世の中の全てに絶望してしまいそうだ。同学年の私より貧乏な子たち、頼むからもっと勉強を頑張ってほしい。君たちが頑張らないせいで、私はこんな酷い目にあっているのだ…。
「悪い話じゃないと思うんだけどな。こちらとしてはぜひ根本に貰ってほしいと思うんだけど…どうかな?」
ぜひ根本に貰ってほしいというか、新しい人を探すのが面倒なだけだろ。と、沙良は思ったが勿論言えはしない。
「ああ、はい。じゃあ…えっと、貰います。…あざます。」
沙良は、全てがめんどくさくなってしまったのだった。あーあーもおどーとでもなれ。私は一回断ったし、もう知らん。
「うん、じゃあ必要書類渡すから。書いて、今週中に持ってきて。」
こうして、沙良は学校の奨学生になってしまった。まさに、お先真っ暗。廊下を歩く沙良の足取りは、一体リンゴ何個分の重さだろう?
✴︎
河合くんがいなくなってからというもの、沙良の生活はとてつもない無気力感に支配されていた。毎日何とか布団から起き出して学校に行き、八時間耐えて家に帰り、バイトに行く。河合くんのいないコンビニでの労働は、ただただ単調でつまらない。が、没落貴族少女の沙良は小銭稼ぎをやめるわけにもいかない。河合くんがいた頃は楽しかったな、とぼんやりした頭で思う。ドブのような日常の中で、河合くんのことを考える時だけ沙良の心はときめいたのだった。
沙良は冬休みの課題にほとんど手をつけていなかったので、日本史の授業中に数学のワークをといていた。提出締め切りはとっくに過ぎているが、課題を出さないと授業中松岡に名指しで催促されるため仕方なくやっている。ごく簡単な計算問題だけ自力でやり、残りは答えを写していく。そうしているとチャイムが鳴り、授業が終わった。机の上を片付けていると真横に誰かが歩いてきて、止まった。明らか沙良に用があるといった様子だ。見上げると、吉田がいた。げげげげ。何のつもりか知らないがピンク色のネクタイを締めている。
「数学の課題ですか。」
「ああ…。」
なんと答えたらいいのか分からず、沙良は呻き声のようなものを発する。吉田は今日の授業でもペラペラペラペラよく喋りカリスマ教師振りを披露していたが、沙良の内職にはきちんと気付いていたらしい。
「あなたは、学校に何をしにきているんですか?」
「…すみません。」
蚊の鳴くような声で謝る。とりあえず謝れば、立ち去ってくれると思ったのだ。
「課題を期限までに終わらせられないというのは社会に出てから困りますよ。」
沙良は机上の消しカスを見つめながらコクコク頷く。肩から背中にかけて、蕁麻疹が浮き出てくるのがわかった。
「いいですか勉強というのはね、自分の人生のために自分で選んでやっていることなんです。この学校を選んだことも、日本史の授業を選択したことも、大学受験も同じです。自分で選んでやっていることなのに、こんな風に反抗するのは幼稚だと思いませんか。」
沙良はもう、頷くこともできなかった。少しでも動いたら、瞳に溜まった涙が溢れてしまうからだ。
「これは学年集会でも毎度話していますが、応援される人になることが重要なんですよ。授業に真面目に取り組まず他教科の課題をやっているような人を、誰も応援したいとは思わないでしょう…根本さん、この前職員会議でききましたが、あなたは学校の奨学金を受けるということになっていたはずです。もっと自覚と責任を持って行動してください。」
吉田は言いたいことを言い終わったらしく、身を翻し軽やかな足取りで教室を出ていく。「従順で素直」な生徒たちにこんにちはあなどと挨拶され、機嫌良く返している。そりゃあ何も言い返してこない相手に長々説教するのは気持ちいいだろうな、と沙良は思った。しばらく椅子に座ったまま、動けなかった。吉田は先ほど職員会議、と言った。全学年の先生が集結する場で、奨学金付与対象として沙良の名前が挙げられたのか?もしかしたら、苗字が変わることもバラされたのかもしれない。そう考えると、カーッと顔が熱くなった。泣いちゃだめだ、泣いちゃだめだと思うほどに視界がぼやけて滲む。
許せない、と思った。あんな奴が、あんなしょーもない男が、教師という立場を利用して言いたい放題説教していいなんてシステムどう考えたっておかしい。それでも周りの目はあるし、こちらは言われっぱなしで黙っているしかない。あのクソゴミ教師は、沙良が唯一の希望である河合くんを失ったことも、生ゴミ臭いキッチンで毎日眠っていることも、何も知らないくせに。悔しい。悔しい。最悪。瞬きをすると、涙がぽろりと溢れた。周りに、泣いていることを悟られてはいけない。表情が歪まないように歯を食いしばる。その反動で体が震える。とてつもない怒りと惨めさで頭がいっぱいになりながらも、この事態をどうしたものか、冷静に考えている沙良がいる。ここが家だったらギャーギャー泣き叫んで久し振りに彫刻刀を持ち出しているところだろうが、今沙良がいるのは学校。周りにはたくさんの生徒たちがいる。沙良は周りの人間に、急に泣き出す痛い奴、突然発狂して騒ぎ出すヤバい奴だとは死んでも思われたくなかった。なので沙良はあくまで自然な動作を心がけながら席を立ち、俯きながら廊下を歩く。行き先はトイレである。個室に入って鍵を閉めると、誰の目も届かなくなったのをいいことに、涙と鼻水がどんどん出てくる。こうなってしまったらもう、涙が止まるまで泣くしかない。泣きながら、制服の中に手を突っ込んで背中を掻く。自分の手の冷たさに身の毛がよだったが、痛いくらい爪を強く立てることで誤魔化す。爪の間に剥がれた皮膚が入り込み、少し出血もしていた。沙良は先ほど吉田に言われたことを、脳内で一から反芻し始める。こちらを見下ろしながら喋る偉そうな態度、声、「学校に何をしに来ているんですか」、「社会に出て困る」、「自分で選んだ」、「幼稚」などムカつきワードの数々。それら一つ一つに感情が昂り、涙が出てくる。沙良はそうやって泣くことに、一種の快感を覚えていた。映画とか読書とか失恋とか、そういうものではもう出てこない涙なのだから、普段の分も今思う存分出して、出し切らなければならない。怒り以外の感情で泣けなくなってしまったのはいつからだろうか、沙良にはもうわからない。チャイムが鳴った。もう次の授業が始まっている。しかしこんな状況で外に出ていくわけにもいかないので、サボることにする。仕方がない。こんなことになってしまったのは沙良のせいではなく、吉田のせいなのだ。沙良はポケットティッシュを持っていなかったので、トイレットペーパーを千切って鼻をかむ。寒い。徐々に興奮が冷めてくると、きん、と凍てついた空気が身に沁みた。教室や職員室は暖房で暖かいのだろう。クソ。寒い、と意識し出すとどんどん寒くなってきて、沙良はその場で足踏みをする。制服の衣擦れと、上履きのタッタッという音だけが静かな女子トイレに響く。しばらくそうしていると誰かがトイレに入ってきたので、足踏みを辞めて息を潜める。突然の来訪者が用をたす音を聞きながら、沙良は虚しくなってくる。何が悲しくて、こんなクソ寒いトイレで他人の放尿音を聞かされなくてはいけないのだろうか?人生って何なのだろう、という哲学的問いに思いを巡らせていると、隣人は出すもの全部出し終わったらしくさっさと水を流してトイレを出ていく。ああ、家に帰りたい。今日はバイトも休みだし、帰ったら即毛布にくるまって眠りたい。
乾いた涙が冷たくて、泣き腫らした頭が重かった。ポケットから鏡を取り出して開く。瞼が腫れ二重線が消失している。鼻にトイレットペーパーの残骸がこびりついていたので、悴んだ指で取り除く。スマホを鞄に置いてきてしまったから、暇が潰せるようなものもなかった。具合が悪いということにして保健室に行こうかと思ったが、適当な症状が思いつかない。沙良は昔から、精神は幼稚で脆弱なくせ体だけは何故か丈夫だった。ここ数年、一度も風邪をひいていない。バカは風邪をひかないというやつだろうか?生理も軽いので、体のどこかが不調だという感覚があまり分からない。取り敢えずゲロ臭でも漂わせておけば帰らせてくれる確率が上がるだろうと思い。トイレの蓋を開けて真っ白な便器と対面し、喉に指を突っ込んでみる。封水を飲むとか便器を舐めるとか気持ち悪い想像をして吐き気を催そうとするが、一向に吐瀉物は喉元まで上がってこない。そうこうしていると、また誰かがトイレに入ってくる。授業中のトイレって思ったより賑わっているものなんだな、と沙良は思った。
✴︎
吉田の学年主任パワーにより、気に入らない生徒の奨学金受給権利が剥奪される。そんな沙良の思い描いたシナリオが現実になることはなかった。沙良は満員電車に揺られながら、今日の昼休みに校長室で行われる予定の「奨学金授与式」について考えていた。校長から封筒を受け取り、「お礼の言葉」なるものを述べなくてはいけないのだ。沙良は思ってもいないことを口先だけでベラベラ喋れるタイプではないので、本当に困ってしまう。いっそ、バックれてしまおうか?私は人様からお金をいただけるような大層な人間ではないのです。ただちょっと家が貧乏で、ちょっと勉強ができるだけなのです。大した才能もないのです。心が繊細なので、ちょっとした足枷だけで途端に歩けなくなってしまうのです。どうかどうかお許しください、本当に本当に申し訳ないと思っているのです。沙良は寝たふりで目を瞑りながら、また泣きそうになってしまう。沙良は、自分が理系だったらよかったのになあ、と思った。時々、脳みそが理系であれば、もっとマシな人生になっていたのではないかと思うことがある。なんだかわかりやすい目標をたてることができる。エネルギーの開発だとか、人類にとってなんだか役に立ちそうな研究に従事する。そして社会貢献をすることができる。「お礼の言葉」の内容も、さぞかし組み立てやすいことだろう。そもそも思考回路が論理的であれば、こんなに感情に振り回されて苦しむこともないだろう。勉強だってちゃんとできるだろうし、将来的には株とか投資、プログラミング、そういうなんか頭良さげで稼げる分野の職業に就き、勝ち組の人生を送ることができるだろう。この前悪魔の講演会にやってきた吉田のお気に入り、伊藤氏の言葉が思い出された。
「僕は税金に助けられてきた側の人間なんで、たくさん納税することには納得してるっす。」
「もう稼げるだけ稼いで人生上がりなんで、次は社会貢献とかしたいっすね。」
講演会なんてやるような人間は全員クソである。マジで、ろくな奴がいない。と沙良は思っているが、世の中ではやはり、金を持っている人間が「すごい」と崇められ、尊敬され、慕われるのだ。
沙良だって本当は投資とかプログラミングとか、そういうすごいかんじの仕事をして人生上がりたい。が、しかし自分にそういった知能が備わっていないことは明白で、沙良はただただ悲しかった。
✴︎
車窓から見える住宅地の中に、沙良の住んでいた家が見えた。グレーの外観、小さな芝生の庭。そこには、マウンテンバイクが2台停まっていた。引っ越したばかりの頃は売り物件の赤旗が立っていたのだが、もう買い主が決まって人が住んでいるのだ。沙良が今まで人生の殆どを過ごしてきたあの家。庭のミニトマト、薄汚れた勉強机、それから日々自傷行為に励んだあの風呂場。そこに別の人が暮らしているというのは不思議なような、何だか寂しいような気がした。
電車が学校の最寄駅に停まる。沙良と同じ制服を着た生徒たちがぞろぞろ降りていく中、沙良は重い腰を上げることができなかった。寝たふりを続けていると誰に起こされることもなくドアが閉まり、発車する。沙良は毎日ホームルームにギリギリ間に合う電車に乗っていた。だから、これで遅刻が確定したというわけだ。
✴︎
風景が、街から郊外のベッドタウンへと移り変わっていく。今日はもう学校には行かないだろうな、と沙良は他人事のように思う。そうだ、このまま奨学金受与式をすっぽかして、次学校に行った時やっぱり辞めますと言おう。元々向こうが勝手に押し付けてきただけで、沙良はお金をくださいなんて一言も頼んではいないのだ。学校独自の奨学金なのだから、少し給付が遅れて別の人を探す時間をとられるくらい大した問題でもないだろう。奨学金というものはこんな風に学校をサボってフラフラしているようなダメ生徒ではなく、今日も普通に学校へ行き勉学に励んでいる真面目な生徒にこそ与えられるべきものなのだ。全く、学校の教師というものは大勢の生徒を見てきているのだから、そのへんの審美眼くらい勝手に養われるものではないのか。あいつらの目は、節穴?
車内アナウンスから、聞き覚えのある駅名が流れてきた。小さな頃よく遊びに行っていた公園の最寄駅だった。あまり長く電車に乗っていると運賃がもったいないので、沙良は電車を降りることにした。改札を出て少し歩くと、懐かしい公園が見えてくる。立方体をいくつか積み上げた現代アート的オブジェが沙良を出迎えてくれた。平日の昼間だから人も少ないだろうと思ったがそうでもなく、公園は小さな子供とその母親たちで賑わっていた。そんな中で、制服姿の沙良は異質だ。学校に通報なんてされたらたまったものではないので、人のいない方へ、いない方へと歩いていく。昼の光にジャングルジムが照らされ、落ち葉が風に舞ってキラキラと輝いている。
✴︎
緩やかな坂を登ったところに、展望台があった。誰もいなかったので、沙良はしばらくベンチに腰を下ろして町を眺めた。ここから見ると全部がミニチュアのおもちゃみたいで、人が暮らしているようには思えない。レプリカの町の中でも一際存在感を放っているのが、学校だった。町の中心部に、どしんと居座っている。丁度授業が終わったのか始まったのか、チャイムが鳴り響いた。それなりに距離のあるここからでもこんなにうるさいのか、と沙良は驚いた。そのうち校舎からわらわらと人が出てきて、校庭を走り回り始める。どうやら、あれは小学校らしい。自分にもあんな頃があったのだ、と思うと無性に切なくなってくる。今までの人生、どこが分岐点だったのだろう?どこを間違えなければ、こんな風に真昼間の公園でボーッとしているような高校生にならなくて済んだのだろう?沙良は、一からやり直したいと思った。でも、長かった17年をもう一度やり直すのはめんどくさいなあとも思う。沙良が沙良である以上、多少選択を変えたところでやっぱり17歳2月7日の今日この日、この公園にたどり着くのだろうか?
気がつくとベンチの横に知らない老人が立っていて、沙良と同じように町を見下ろしていた。ちっ、私一人の時間を邪魔してくんじゃねえ年金老人。まあ、公園が公共物である以上仕方のないことだ。
「これ、食べる?」
突如老人が沙良に向かって口を開き、握り拳を差し出してくる。驚きながらも反射的に手を差し出すと、個包装のキャンディが落っこちてきた。
「あ、ありがとうございます?」
沙良が礼を言うと、老人はくるりと背を向けて立ち去っていく。知らない人からもらったものを食べるのは良くないが、飴ならまあ大丈夫だろう。封を切って口に入れるとレモンの味がして、沙良はゆりかのことを思い出した。そういえば今日、沙良がサボったせいでゆりかはぼっち飯かもしれない。スマホの画面を開くと案の定、ゆりかからLINEがきていた。今日サボり?ぼっち飯キツいんだけど。とのことだ。母からも何回かの着信、学校の連絡用アプリには担任からメッセージが届いている。あー煩わしい。どうでもいいけど、飴を舐めたらお腹がぐるぐる鳴りだした。コンビニで、何か買って食べよう。沙良はベンチから立ち上がり、最後にもう一度町を見渡す。全体に淡い水色のモヤがかかっているような町は、虚偽と浅い思想から出来上がったシステムで回っている。これが全部CGだと言われても、ああそうですかと納得できてしまうだろう。小さい頃よく来たこの場所は、もう沙良のいる場所ではなくなってしまった。老人からもらったキャンディはもうほんのカケラ程度しか残っていなくて、甘ったるい砂糖の塊が口の中で不快に溶けていく。
✴︎
「あ、今日授与式やるから。」
次に学校に行くと、沙良のサボりは体調不良ということになっていた。沙良以外の奨学生たちは先日既に儀式を終えたらしく、今日校長室に行くのは沙良一人だけだ。どうしようどうしようと思いながら、沙良は午前中の授業を上の空で過ごした。階段でずっこけそうになり、腕を掴んで止めてくれたゆりかにボーッとしすぎ、と怒られた。
そしてとうとう、悪夢の昼休みがやってくる。嫌だ嫌だと思いながらも、体が勝手に校長室へ向かって歩いていく。校長室の前には担任と、何故か吉田までいた。
「根本さん、ブレザーのボタンを留めなさい。」
留め「なさい」?いつ何時もとことんムカつく奴だ、と思いながらも外面だけペコペコしてボタンを穴に通す。
「それじゃ、ノックして入ってください。」
「はい。」
三回ノックして校長室のドアを開けると、パンパンに顔が張ったアンパンマンみたいな校長が起立して待ち構えていた。沙良は吉田の誘導で校長机の前に立たされ、気をつけの姿勢になる。
「それでは今から、奨学金授与式を始めたいと思います。」
どうやら吉田が進行を務めるようだ。窓の外で、鳥が木の枝から飛び去る音がした。
「それでばまず校長からお言葉をいただきたいと思います。松野校長、よろしくお願いいたします。」
「はい。この奨学金は、本校に在籍する優秀な生徒に給付されるものです。これからもより一層勉学に励み、社会に貢献できる人材になってくれることを期待しています。」
私INFPなんでそういうの無理っすよ、と沙良は思った。
「はい、松野校長ありがとうございました。それでは根本さん、校長から封筒を受け取ってください。」
赤と白の封筒。なんの重みもなかった。お金は銀行に振り込まれることになっているから、この中に入っているのは紙切れ一枚とかなのだろう。
「では根本さん、感謝と決意表明の言葉をどうぞ。」
カンシャトケツイヒョウメイ?意味がわからない。外国の言葉のように聞こえる。
「…この度は奨学金を、その…いただきまして、ありがとうございます。これからは…が、学習に力を入れ、大学受験を…」
そこで言葉が途切れてしまう。校長、担任、吉田、三人の視線が沙良に集まり、嫌な汗が出てくる。
「だいが、く、じゅ…けん、を、」
「がんばりたい、と、おもいます。」
それだけ?という雰囲気が室内に充満する。吉田が場を取り持とうと息を吸い込んだのがわかった瞬間、沙良はようやく覚悟を決めた。
「…というのは嘘で、やっぱり、私、これ、奨学金、辞退します!あの、なんか、ほんとに、すいません!」
封筒を担任に押し付けると、沙良は校長室を飛び出した。
✴︎
「え、ちょっと待って、根本!」
呼び止める声が後ろから聞こえるけれども、構わず大急ぎで廊下を歩くその姿はまるで競歩選手のようである。廊下は人目があるので走れない。こんな時でも他人の目を気にしてしまう沙良なのであった。沙良は保健室に向かった。ノックもせずガラガラとドアを開けると、養護教諭の牧原先生が驚いた顔で沙良を見た。
「あら、どうし…」
「追われてるんです、助けてください!」
沙良は牧原先生の返事も待たずにズカズカ入り込むと、ベッドの脇に体育座りして頭を伏せた。涙が溢れて、床に水滴が落ちる。担任が保健室の入り口からひょこりと顔を出し、丸くなっている沙良を見つける。
「おい根本、どういうつもり…」
「入ってこないでください!」
沙良は自分の声の大きさに驚く。学校でこんな大声を出したのは、これが初めてだ。
「あの、先生。ちょっと私が話を聞きますので、一旦席を外していただけないでしょうか?」
牧原先生が、訳の分からない状況ながらも間を取り持とうとしてくれる。
「あ、はあ…分かりました。ではすみません、よろしくお願いします。」
担任もこれではとりつく島もないと思ったのか、意外とあっさり引き下がってくれた。ドアが閉じられ、牧原先生の近づいてくる気配がする。
「一旦落ち着こうね。何年何組、何番?」
「2年2組、30番です…」
沙良が力なく答えると、牧原先生が出席簿を確認する。
「えーと、沙良ちゃんね。今日はどうしちゃったの?」
牧原先生が沙良の隣にしゃがみ込み、肩にそっと手を置く。柔軟剤のいい匂いがした。
「あの…学校の奨学金、何故か貰うことになって。今日授与式で、ていうか本当はこの前授与式だったけどその日サボっちゃって。でも今日封筒貰って、やっぱお金貰いたくないなと思って…逃亡、しました。」
牧原先生は優しく相槌を打ちながら沙良の話を聞いてくれている。側から見て理解不能の行動をする人間の話もまずは否定せずに傾聴、流石は保健室の先生だ。
「沙良ちゃんは、どうしてやっぱりお金を貰いたくないって思ったの?」
ティッシュを差し出され、受け取る。頭が重くなってきてイライラする。どうして?どうしてなんて訊かれても、説明するのは難しい。プレッシャーをかけられるのが嫌だ。学校に洗脳されたくない。貧乏だと思って馬鹿にされている様で気に食わない。
「私、気持ち悪い人間になりたくないんです。」
牧原先生は、少しの沈黙の後口を開いた。
「んー、そうねえ。学校は単純に、沙良ちゃんをサポートしたいだけだと思うんだけどね。どうしても嫌なら、私から先生にその旨伝えることもできるわよ。」
「あ、じゃあお願いしたいです。」
沙良が即答すると、牧原先生は担任と話をしに保健室を出て行った。しばらくここにいていいのだろうか。昼休みの保健室には沙良以外誰もいなかった。レモン色のカーテンから真昼の光が差し込んで、保健室の床に水中みたいな影を作っている。色々ダメにしてしまった後というのは、こんなにも静かなのか。あーあ。せっかく七万円貰えたのに。もしかしたらこれをきっかけに真人間に生まれ変わって、文系でもそこそこいい大学行って楽しいモラトリアム生活とか送れたかもしれないのに。全部台無しにしちゃったなあ。今だけ。今だけ頑張れば、そういう未来もあったのかもしれない。でも今頑張れないから、その話はここでお終いなのだ。これから校長からも吉田からも担任からもすごい冷たい目で見られるだろうし、肩身狭い。気まずいなあ。沙良はそんなことをのんびり考えた。不思議と嫌な気分ではなかった。怖くもなかった。むしろ清々しい、色素の薄い青空の様な気分だった。全然、これでよかったのだ。ああ危なかった危なかった。沙良はすんでのところで危険を回避したのだ。他の奨学生たちは気の毒だが、まあ仕方ない。きっと夢とか目標とかあるんだろうし、みんなそれに向かって頑張ってくれればいいのだ。
✴︎
さて、これからどうしよう。揺れる木漏れ日を見ていると、沙良の頭に突如ある考えが降ってきた。ああ、そうか。初めからそうすればよかったのだ。
閃いたらお腹がぐるるると鳴った。
「就職します。」
「ん〜〜〜ふぅ、どんな方向転換?」
二年からそのまま持ち上がった担任は最初驚いていたが、沙良の考えが変わらなさそうなところを見ると高校生の就職活動について一から説明してくれた。この担任は沙良が起こした校長室逃亡事件の後もそこまでキツく詰め寄ってきたりせず、軽く注意があっただけだった。むしろ「家庭の事情で色々大変だろうけど困ったことがあればいつでも力になるから」なんて、「親身になって生徒と向き合う教師」のお手本の様な台詞を披露していただけたくらいだ。困ったことも何も、まあ部屋が狭くて臭いのは置いといて、沙良としてはバカで短気な父親がいなくなって清々しているくらいだ。にも関わらず、「ちょっと可哀想な子だからまあしょうがないか」といった具合で無責任な行動に目を瞑ってもらえるのは大変助かる。ので、沙良は神妙な面持ちで、
「ありがとうございます。でも大丈夫です。」
などと言ってみるのだった。
「春から夏にかけて企業の説明会とか見学、9月ごろ応募して面接、という流れになります。…なんか、こういう仕事してみたいなっていうのはもう決まってるの?」
「事務職がいいです。」
「なるほどなるほど。ウチは就職少なすぎて求人来ないから、ハローワークと相談しながらになるけど事務なら色々あると思うから。今度電話して、いくつか求人票送ってもらうよ。」
「ありがとうございます、お願いします。」
そういうわけで七月、受験の天王山と言われる夏休みを目前に同級生たちが気合を入れる中、沙良は企業見学に行くため電車に揺られていた。このままいけば沙良は高卒、あんなにバカにしていた父親と同じ学歴になってしまうのだ。これも、「血は争えない」というやつだろうか。まあ、別にいい大学に行って社会から認めてもらわなくても、沙良の才能は沙良一人だけが知っていればいいのだ。そんなことを本気で思っているのだから、沙良はゆりかの承認欲求について偉そうに分析できる立場にはいない。沙良も沙良で、大変な自己愛を拗らせた逆張り承認欲求モンスターなのだ。まあ、そんな風になってしまうのも仕方ない。何故なら最近、沙良は全てが絶好調。大学受験という呪いから解放された瞬間になんだか勉強が楽しくなってきて、この前の定期テストではなんと日本史学年二位を取ってしまった。吉田ざまあ、日本史選択の皆様におかれましては誠にご愁傷様ですこと、あなた方の小さい脳みそじゃあ本気を出した栗林沙良には到底及びませんことよおほほほほ、と高笑いしたい気分であった。というか実際成績が返ってきた日、沙良は家に帰っておほほほと声を出して笑った。沙良はすぐ調子に乗るのがダメなのだ。そんな沙良を気に入らない様子の吉田は相変わらず嫌な奴で、授業中もそれとなく嫌味を言ってくるが、沙良は無視している。何か言われても、涙が出てくることはもうない。一度リミッターが外れると、自分でも驚くくらい感情が動かなくなるものなのだ。そんな乗りに乗りまくっている沙良にも負けない安定感抜群の日本史女王•花穂は、彼氏の慧くんと同じ大学目指して頑張っているらしい。ゆりかは塾の先生に超絶イケメンがいるとかで、いつになく勉強に熱意を燃やしている。どうせお前就職なら付き合えよ、と買い物や映画、地下アイドルのライブなんかにちょくちょく連れ出されているが、それでもゆりかは順調に成績を伸ばしているからやっぱり"やればできるこ ほんとだよ"なのだ。ゆりかが友達で良かった、と沙良は思う。受験でやたらピリピリされて、当たられたりしても困る。沙良は、根本的にセンスがある人間が好きなのだ。
みんな、それぞれ向かうべきところへ向かっている。全部投げ出して逃亡した沙良でさえ、それはそれでまた新しい何かが始まっていくのだ。
会社の最寄駅に着いたので電車を降り、改札を抜ける。こういう、人が多い場所に来ると沙良はついつい河合くんを探してしまう。こんなとこにいるはずもないのに。
学校サボったりなんやかんやあって、母に「あんたどうしたの」と訊かれた時、沙良は初めて河合くんのことを母に話した。「縁がある人とはまたどこかで会えるから。」母はそう言って励ましてくれた。ウチの母も、たまにはいいことを言う。沙良と河合くんの間に縁が無いわけない、運命の赤い糸で結ばれている筈だと沙良は信じている。でもいくら運命だといったって、ぽやーっとしていたらすぐ横を通り過ぎてしまうかもしれない。だからいつも、アンテナをビンビンに張っておかなくてはいけないのだ。
河合くんがいなくなった時沙良が泣けなかったのは、そういう楽観的な予感が既にあったからだろうか?それとも、沙良が冷たい人間だからだろうか。吉田に説教された時や校長室から逃げ出した時は簡単に泣けたのに、河合くんのことでは、結局沙良は一度も泣けなかった。沙良は、恋に恋していただけなのかもしれない。高校生で17歳で女の子で、みんながしている様な青春の真似事をしてみたかっただけ。そんな恋しか出来ない自分が嫌になる。でも、沙良の恋が虚偽だったとしても、河合くんのかわいさ、河合くんが世界一かわいいということ、それだけは紛れもない事実、本当のことなのだ。それだけは、揺るがない真理。だから沙良は、それを知れて良かった。
あれ、今すれ違った人、河合くんに似てる。そう思って、沙良は振り返る。だけどそれは河合くんじゃない。河合くんはもう、沙良の住む街にはいないのだった。
完
