【日本100名城】#15 「この城とこの城は一本の道でつながっているから」。そういう理由で訪れた二つの城は、新しい知見を与えてくれた
東海地方の100名城では、残すところ岐阜1城、愛知1城、静岡2城となった。その中から次は、岐阜の「岩村城」と愛知の「長篠城」を狙うことになった。岩村城があるのは岐阜県でも長野寄りの恵那市、長篠城があるのは浜松に近い新城市と、距離的にはかなり離れているが、ルート検索を担当する昭人さんによれば、この二つの城は「一本の道でつながっている」というのである。
そこで4月1日、今回も高速道路は使わないルートで、朝早く家を出て岐阜方面へ向かった。
【2017年4月1日(土)】
自宅 → 岩村城(岐阜県恵那市) → 長篠城(愛知県新城市) → 帰路
この日、最初に立ち寄ったのは、かねてから目をつけていた人気のラーメン店「大石家 可児市店」である。城めぐりを始める以前に一度訪れたことがあったのだが、「スープがなくなり次第終了」という店で、まだ昼間だったがもう店が閉まっていた。そこで今回は、ちょうど恵那市へ行く途上にあるということと、岩村城から長篠城へ向かう途上には飲食店を見つけるのが難しそうなことから、早めの昼食とすることにした。


大石家可児店に到着したのが、午前10時40分ごろ。開店までまだ20分あったが、すでに店の前には行列ができていた。お店に入って注文の品が出てくるまでは良かったが、写真で見るとおいしそうなこのラーメン。なぜか「殺す気か!」と叫びたくなるほどスープの塩気がきつく、食べるのがつらいほどだった。私だけではなく昭人さんも同じ感想だったから、きっと、スープに入れる塩の量を間違えたのだろう。いつもこんな味ではないとは思うが、とりあえず食べるものだけ食べて、早々に店をあとにした。
そこから、さらに車を走らせて、岩村城の100名城スタンプが設置されている岩村歴史資料館に到着したのが、午後1時ごろ。800メートル先だという岩村城に向けて、登城口から歩き出した。




岩村城の歴史は古く、鎌倉幕府を開いた源頼朝の家臣だった加藤景廉が遠山荘の地頭となり、その長男・景朝が遠山氏を名乗ってこの地を治めたのがはじまりだといわれている。歴史の舞台に登場するのは戦国時代。当時岩村城の城主だった遠山景任は、織田信長の叔母にあたるおつやの方を妻に迎えたが、まもなく景任は病で命を落としてしまう。後継となる子どもがいなかったため、織田信長の五男、御坊丸を養子に迎え、遠山氏を継がせることとなった。しかし御坊丸がまだ幼少だったことから、おつやの方が実質的な城主として、この地を治めていたという。資料館に立つ「女城主の里」の幟旗は、そんな歴史を今に伝えている。
この話には、続きがある。1572年、武田信玄の家臣の一人、秋山虎繁が美濃に侵攻してきたことから、女城主だったおつやの方は信長の支援を待ちつつ籠城した。しかし信長の援軍が来ないまま兵糧も尽き、ついに秋山虎繁に城を明け渡すこととなる。御坊丸は武田信玄のもとへ人質として送られ、おつやは虎繁の妻となる。しかしその翌年、武田信玄が遠征先で病没。あとを襲った武田勝頼は1575年、三河侵攻を開始し、織田・徳川連合軍との間で「長篠の戦い」が勃発する。この戦いに武田軍が敗れると、織田信長の嫡男・織田信忠の軍勢が岩村城に攻め入り、秋山虎繁は降伏。虎繁とおつやは信長により磔刑にされたという。
登城路は石畳で、よく整備されており歩きやすい。しかし曲がりくねった山道で、『日本100名城ガイドブック』にあるような石垣がこの先にあるとは、とても思えないような雰囲気だった。しかし、やがて山道の木立の先に、幻の都のように、石垣が見えてくると、登り坂もつい足早になる。



「岩村城絵図」をもとに再現された「岩村城再現CG映像」を見ることができる


織田信忠に攻め落とされたとき、補佐を務めていた河尻秀隆が、その功を認められ岩村城主となり、城と城下町を再整備した。現在まで残る石垣は、この河尻秀隆以降の城主によって築かれたものだという。
その後、江戸時代には岩村藩となり、明治維新を迎えるまで藩の中心として栄えることとなった。城は標高717メートルの高さに位置し、江戸諸藩の城の中で最も高所にあったといわれている。
細い山道を登りつめると、そこに整然と整備された石垣群が現れ、まるで山上に開かれた都市に迷い込んだかのようんだった。本丸あたりまで登ってきて、はじめてこのすぐ下に駐車場があり、ここまで車で来ることができるとわかったのだが、やはり山道を歩いて登ってくるからこその驚きを感じられた意味でも、ここは徒歩で登城することをおすすめしたい。

開発されることなく石垣がよく残っている

霧がよく出ることから「霧ケ城」の別名がある

付け足し、付け足したことでこのような姿になった






およそ50分で山麓の資料館前の駐車場に戻ってくると、次の目的地である長篠城へ向けて車を走らせた。二つの城をつなぐ一本道というのは、国道257号なのだが、1575年の長篠の戦いのあと、そこから北上して織田信忠軍が岩村城を攻めたということは、その当時から、この2点をつなぐ街道のようなものがあった、と考えるべきだろう。道は岐阜県境を超えて愛知県に入るが、奥三河と呼ばれるこの地域は、広大な濃尾平野に都市が広がる愛知県のイメージを覆すど田舎で、愛知県にもこんな山深いところがあるのか、と認識を新たにすることとなった。

もう一つ、恥ずかしながら驚いたのは、あの「長篠の戦い」で名前だけは知っていた長篠が、愛知県にある、ということである。昔歴史を習った頃に覚えたが、甲斐国を本拠とする武田勝頼軍が戦って敗れたのだから、てっきり静岡の富士山麓あたりのことかと勝手に思い込んでいた。信玄亡きあと、すぐに滅び去った印象のあった勝頼だが、そのきっかけとなった「長篠の戦い」が徳川家康の本拠、三河・遠江を脅かす場所で繰り広げられたのだとわかると、その勝頼がものすごく勢力を伸ばして侵攻していたことを、逆に実感することとなった。
長篠城は、その戦いのきっかけとなった城である。1575年5月、徳川家康の家臣、奥平貞昌の守る長篠城を、武田勝頼の軍勢が包囲した。わずか500ばかりの城兵で武田軍の猛攻に耐える間、織田・徳川連合軍が、ここから西におよそ4km離れた設楽原に布陣したことから、武田軍は城の包囲を解いて設楽原へ向けて軍を進め、壮絶な戦いを繰り広げることとなった。
長篠城は、豊川と宇連川の合流する場所に築かれており、城跡の真ん中をJR飯田線の線路が通り抜けている。二つの川に挟まれた断崖で、まさに要衝の城である。現在は、二の丸帯郭跡に長篠城址史跡保存館があり、ここに100名城スタンプが設置されている。館内には、長篠の戦いに関する史料や出土品、甲冑、鉄砲などが展示されており、小さいながらも充実した施設だった。



長篠城は武田勝頼の軍勢に囲まれて窮地に陥った際、決死の覚悟で家康に窮状を
知らせに走り、戻ってきたところを捕らえられて磔刑にされたという。
残念ながら、本丸より先、川の合流部に突き出た三角形の断崖絶壁の場所は、飯田線の線路に隔てられていて近づくことができず、その要衝っぽい感じが今ひとつつかめなかったが、本丸周辺を囲む内堀が、当時の様子を偲ばせてくれた。


築かれた、堅固な城だった



この砦の背後から、酒井忠次の軍勢が武田軍に奇襲をかけた



長篠城の見学を終えたのが午後3時40分ごろ。帰路は時間を節約するため、すぐ近くの新城インターチェンジから東名高速道路に乗った。この道は、長篠の戦いの舞台となった、設楽原を山沿いに抜けてゆくのだが、ちょうどその途上にその名も「長篠設楽原パーキングエリア」があるので、せっかくだからと立ち寄ってみることにした。すると、このパーキングエリアから、織田信長の戦地本陣跡に行けることがわかり、これは見逃せない、と足を伸ばしてみた。散策路の途中には馬防柵が設置されていて、雰囲気を盛り上げてくれる。その先の階段を登ったところに、信長の本陣跡があった。
その日は小雨まじりの曇天で、茶臼山の信長本陣跡から、戦場になった設楽原を見渡すことはできなかったが、珍しい、信長の歌碑がそこにはあり、そのときの信長の気分を感じることができた。






「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かな」
勝利に酔っている感・・・

長篠設楽原パーキングエリアをあとに高速道路を豊明インターチェンジまで走り、そこから国道23号で三重方面へ向かう。国道1号沿いにある𠮷野家1号線甲西店で夕食をとったのが午後8時すぎ。思いの外長い1日となったが、今回はすべてが一つの戦いに収束していく、そんな面白さのある旅路となった。
【23城目】38番 岩村城(岐阜県恵那市)
【24城目】46番 長篠城(愛知県新城市)
登城日:2017年4月1日(土)
【旅のお会計】
高速道路通行料 1,290円
ガソリン代 3,458円
駐車料金 0円
食事代 4,020円
入場料等 1,020円
土産物 2,752円
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合計 12,540円
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