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法庭の蟻(1/2)プロローグ しゃべらないひと



あらすじ


弁護士の仲川は、東京湾ごしに東京の見えるタワーマンションに猫と暮らしている。

事務所はヤマトタケルの神社の裏の蔦の絡まる古家。ボスは地元の顔役。そのボスが言うには、弁護士の仕事は生態系における蟻の役割だという。

会社勤めの縁で受けた刑事事件は、女が大麻を所持していたというものだが、被告人は全然しゃべらないので、その妹に話を聞きに行ったりと、なれない探偵ごっこに至った。

ほんとうは背伸びしてがんばってるあなたの青春のお仕事小説です。


1 プロローグ


 東京湾の真ん中にいると巨大な円の中心にいると感じた。円の中心を真っすぐに貫く東京湾アクアラインの上にいる。陽を受けた明るい群青の水は、少しだけ弧を描いた平面で、冬の空は際限がなく高い。干潮時のため白波を立てたその平面は、一斉に西進する。
 今では、かずさ市に帰ると思うと気持ちが落ち着くようになった。
 五十メートルの高さから、上総丘陵に向かって突入していく。右手には八幡製鉄かずさ製鉄所の威容がうかがわれ、高炉の巨大さがここからでもはっきりわかる。左手には南房総の漁師町が現れた。海には追い込み漁のための竿が林立している。
 
 一時間前には、直方体の箱の中にいた。
 首都地方裁判所第五〇号法廷。
「弁護人さあ。この人言ってることが全然わかんないんだけど」
うわ。検察官がめっちゃ話しかけてきた。不規則発言でしょ。裁判官に視線を送って助けを求めたけど、こっちを見ようともしない。
法廷はどこも天井が高い。裁判官の座って居るところは、俺らから随分高い。彼らはいつも、寂しくぽつんと座っている。
 しょうがねえか。
「弁護人の仲川から質問します。去年の10月20日だけど、あなたは、大麻を所持していましたか」
「いいえ」
「これはあなたも認めていることですけど、あなたの家に、大麻が入ったバッグがあったってことなの。で、そのバッグはあなたの物でしたか。」
「違います。」
「じゃあ、誰のものなの。」
「わかりません。」
「あなたの尿から大麻成分が出たって鑑定書があるんだけど、あなたは大麻を使いましたか」
「わかりません。」
「弁護人からは以上です」
否認してるのにこの受け答えじゃ、説得力がないのはわかってるよ。でも、手続き的に問題ないでしょ。出来ることこれしかないからねと言いたい。
 裁判官がクールに告げた。
「本日は以上とします。次回は検察官の追起訴を待って行います」
 
 被告人は全然しゃべらない女だった。
 真新しいかずさ警察署の留置施設はピカピカで広い。特に女性用の施設が整っていて、数も多いから、首都で逮捕された女の人がよく送られてくる。
 南房総のこういう所といえば、地下ヘ地下へと剝き出しのコンクリートの階段を川底と同じ高さまで下りて行った先の湿った、やけに広い部屋であるとか、ずらりと並んだ小窓に鉄格子がはめられた取調室の前の路地を進んだ先の、不定形の小部屋であるとか。いずれ劣らぬ個性派ぞろいなのであるが、その中で、異彩を放つ素晴らしい設備である。
 首都の事件は、遠いからあんまりやりたくなかったけど、前職の女上司の紹介だったから、受けた。留置先がかずさ市という事で、思い出してくれたらしい。商売も大事ですけど、人に頼られてなんぼの仕事ですから。
 ピカピカの接見室に女が現れた。グレーのジャージは、警察署が貸してくれたものか、よれよれだ。アクリル板越しに、むしろ、艶めかしく感じられた。
「なんか、すいませんでしたね。あの検察官、あなたのことすっごい目で見てたね。「おい、聞いてんのかよ」なんて言っちゃって、いつの時代だよ。あんな人ばっかじゃないんだけどね」
「裁判官の言ってた追起訴の件ですけどね。追起訴っていうのは、もう一件起訴するってことですけど。今日は自宅のバッグの件だったから、これからあなたの尿から大麻成分の反応が出たってこと、普通は使ったから反応が出たわけなんで、覚せい剤使用の罪で起訴があるってことね。時間的隔たりがあるから、一応別罪の扱いね」
「あなたは法廷ではわからないって言ったけど、捕まってすぐの時に、警察官にさ、上野のカラオケボックスで大麻使ったって言ったでしょ。その記録はあなたの真意では無いってことで、裁判で使わない様に俺から言ってあるんだけど、今日の手続きで、法廷での発言と矛盾してるってことになったから、手続き上、証拠に使えることになったから、裁判官も見ちゃうんだよね。」
「尿から大麻の成分の反応も出てるし、法廷で黙っていても有罪の可能性が高いことは伝えておきます」
 ほんとしゃべらないなこの人。
 普通、否認するにしてもなんかあるじゃん。
 苦し紛れのやつが。知り合ったばかりの男が隣で吸ってて、たばこだと思いましたとか。
 覚せい剤の事件なら、隣で友達がアルミホイルの上で白い粉をライターであぶってたから、何かわかんなくてのぞき込んだときに、煙を吸ったかもとか。
さて、
「では、法廷での発言は変わらないですね」
「はい。」
「何か、私に伝えておきたいことや、質問はありませんか」
「ありません」
「誰か連絡を取ってほしい人はいませんか」
「妹に」
「わかりました。また来ます」
 
 愛車のニッサンラシーンで事務所に戻った。干潟を跨ぐ大きな橋を越えると、左手には厚生水産さんの網焼き屋さんが見える。海風は凪の時間だった。その先、房総の山の砂を運ぶ戦艦みたいな船が立ち並ぶ港を走り抜けていく。
 川名先生はもういない。先生にとっては、弁護士の仕事は福祉の仕事か、アリさんのお仕事なんだそうだ。
 福祉のお仕事というのは、高齢者のための成年後見事件や、子どもたちの福祉のための離婚事件、児童相談所関係の事件のことらしい。顧問はとらないんだけど、行政や社会福祉法人からよく相談が来る。
 アリさんのお仕事というのは、どうやら、貨幣経済の通常の取引の過程では行き場のなくなってしまった財を引き取って整理する仕事、ということらしい。
 先生のよくやってる破産管財人や相続財産管理人、裁判所のご指名の管理清算系のお仕事のことらしい。そういうエコシステムの担い手との言である。
 いちいち、自分のことや仕事を定義しないと落ち着くことができない面倒な性分なんだろう。
 
 富津湊に住んでいる伊東のおばあちゃんの相談では、おばあちゃんは座ってるだけ。富津湊は、かずさ市からさらに南に下った先にある。C県県域を犬に見立てたをCバ君のおへそと言われる富津湊岬の辺りである。
 話すのは、もっぱら、当事務所なじみのソーシャルワーカーの河東さんだった。
「先生いつもすいません。厄介ごとばかりで」
って、相談者さんの前で言うようなことでもないでしょうに。
伊東のおばあちゃんは、息子さんと同居しているけど、息子さんはずっと家にいて何もしない。二人の収入はおばあちゃんの年金だけだ。河東さんは言う、
「あたしが行くのは仕事なのに。いちいち息子が嫌そうな顔して。気を使って天気の話とかするのに、ぶすっとされて、十倍腹立つんですよう。せんせい。」
息子は、伊東のおばあちゃんの年金で暮らしている。河東さんのことを警戒していた。おばあちゃんを施設に入れられたら、自分の生活が危ういという理屈からだ。
河東さんの説得で、おばあちゃんは、デイサービスに通うようになって、今日はそのついでに立ち寄ったそうだ。背筋は伸びているのに、いつもよれよれの服を着てるおばあちゃん。ちゃんとしたものも食べれてないのか、顔色が悪く髪もぼさぼさだ。ずっと、下を見ていて、言いたい事がたくさんあるのに、世間体か何かが邪魔をして、頭の中でぐるぐる回っちゃって言い出せない。そのうちに意識はぐちゃぐちゃにうなって、アウトプットされるのは、怒りや要領を得ない愚痴だけだ。
「もう、自立じゃないと思うんですよー。伊東さんもデイサービスで施設に慣れてきたし」
ほんとかなあ。どうみても不満顔でしょ。おばあちゃん。
「伊東さんも施設に入らないと、いつ栄養失調で倒れるか。うちの方で、お昼のお弁当は運んでますけど」
高齢者だと、栄養状態は体の健康状態だけでなく、心にも、認知能力にも悪影響を与えることがままある。
「施設に入れるには、後見必要だっていうんですけど。せんせえー。息子さんがいるから」
やっと、川名先生が話せる番が来た。
「息子さんがお金とっちゃってるってことだよね。経済的虐待ってことで市役所に言ってさ、行政に市長名義で後見申し立てしてもらおうよ。市には、親族同意不要だって僕から説明しとくから」
 優しいような顔してるけど、俺は川名先生たちのやり方は強引だと思った。今でも伊東のおばあちゃんの背筋が伸びているのは、息子の存在があるからじゃないのか。活かすのか殺すのか。命が生きても心が死ぬことはないのですか。
行政とか司法とか、何かの仕組み的なものが、その人の人生を最後まで看てくれることはない。
 
 限界があるのだ。ゆりかごから墓場までとか言ってた国も昔あったみたいだけど。お題目だよね。心あるひとなら知っているだろう。この土地に住む俺たちは、それが東京じゃない日本の現実でもあることを知っているのに。ここ、港町木更津は大昔から、江戸との海運を主軸にして栄えてきたわけで、中央のおかげで栄えてきた。そして今、工場の撤退に怯えているのはマンチェスターやラストベルトだけじゃない。
「ありがとうございまっす。先生の力添えがあれば、市もなんにも言わないもん。正直、もうあの息子さんとはかかわりたくないんですよねえ。」
 期待通りの返事がもらえて、河東さんはほくほく顔だ。やり手のソーシャルワーカーさんである。いつも俺は、川名先生が地元の善意の皆様に、どれほど頼りにされているか思い知ることになるのだった。
 タケル八幡神社の真裏にある覆われた法律事務所の庭先には,いつも猫が集っている。この事務所を先代から継いだ川名先生の趣味は筋トレで、かずさ市長とはトライアスロン仲間である。今日もジムだろうか。
 結局、おばあさんの命を支えているのは、河東さんみたいな面倒見の良い小母さんたちだ。自分の人権づらは薄っぺらか。川名法律事務所に巣くう蟻にはなれず、ただただ憩う猫かも知れない。


しゃべらないひと 1

「起訴状
 
被告人は、法定の除外事由がないのに、令和元年10月20日、首都A区幸町22番地2号幸ハイツ201号室において。乾燥大麻2gを所持したものである。
 
罪名および罰条
大麻取締法違反
同法24条の2」
 
自宅に大麻があった。検察官は、もう何も考えなくていい。手続き上は。手続きはいつも、俺たちがやるべきことを最小限に抑えてくれる。
でもね。俺は無駄なことはしないけど、無口の彼女には何かあるかも。期待を込めて、彼女の妹に連絡をとってみた。
 
「お姉さんのことですけど。私にも、ちゃんと話してくれてないと思うんです」
連絡を取って次の日の夕、上野駅先アメヤ横町を抜けたファミレスで、妹に会うことができた。さっぱりした感じのいい子だと、その時は思った。
「でも。弁護士さんに私と話してって言ったんでしょ。すっごく先生のこと頼りにしていると思いますよ。」
そうなのか。嬉しい。
「このままだと普通に有罪で終わりなんだけど。お姉さんてどんな人なの。」
「刑務所行くんですか。」
「ううん。執行猶予付くから。」
「私たちは、北千住に二人で住んでいたんです。」
知ってる。余分なことは聞かないことが、この業界の職業倫理だと思っているが、検察庁から開示を受けた警察官作成の身上調書に書いてあるから。
この子たちの「身上」はこんな感じだ。
被告人である姉はコールセンターで派遣社員として働いていてA区に一人暮らし。有名な健康食品のテレビショッピング会社の勤務で収入はいいらしい。ガッツがいるお仕事だろう。
妹は大学生で、学生寮に暮らしている。
そして、その調書には、本来あるはずの、両親や親戚関係、その生活状況についての記載はなかった。
二人とも、児童養護施設の出身で、支援団体の協力を得ながら、それぞれに自立して生活している。
それだけでも立派な子たちだ。
「そうなんだ。ご両親は?」
「いるんですけど。あんまり連絡とってなくて」
「今回のことは話したんですよね」
「それはちょっと」
意地悪な質問だったか。必要な質問なんで、、本当にごめん、と思う。
「あの。私にできることは何かないんですか。」
「はい。情状証人をお願いするかも知れません。」
説明を待たずに妹が言った。
「わかります。被告人を、私が、更生させます、とか。見守ります、とか。法廷で、お話しするんですよね。刑の重さに、影響するんですよね。」
「詳しいですね。」
素直に思った。本格ミステリーなんかは、有罪か無罪かが争われているわけなんで、有罪前提で、刑期の長さや罰金の金額といった刑の重さが勝負になるケース、被告人の情状、つまり信条や生活状況をもとに、更生の可能性なんかを主張しようというような、そんな些末な話は出てこない。
「私、法学部なんです。更生って、更に生きる。生き直すっていう意味なんですよね」
食いつきぶりに安心して、少し踏み込んでみる。
「お姉さんのこと聞きたいんですけど。今までトラブルとかあったの」
「ないですないです」
「友達や彼氏はいるでしょ」
「姉はいつも家にいるんです。出かけるのは仕事だけ」
「でもほら、頻繁じゃなくても、SNSとか。繋がってて、親しい人はいるんじゃないですか。あと、学校の友達とか」
「いないことはないかもですけど。最近、ボランティアには行ってるみたいです」
「なんで」
「好きなんじゃないですか」
妹は、ふいに窓の外に視線を流した。つられて見やった先には、上野広小路に沿った垂直のビル群にトリミングされた、荒々しい上野の森が見えた。
ボランティア団体の名前を教えてもらい。書き留めた。連絡先はスマホで調べてとのことである。
「姉のことが心配なんです。また連絡してもらえますか」
「わかりました。まだ結論までは二か月以上かかりますけど、状況で連絡しますね」
 
ファミレスを出て、ビルの谷間の、ラーメン屋に行く。京都発祥のどろどろスープの店だ。今日は勝負スーツの紺色のスーツだけど、思い切って、入る。個人経営の店の雑然とした狭さでなく、チェーン店の計算された狭さや椅子の硬さには、居心地の悪さしかない。そこには、弁護の方針のまるで立たない状況に対するもやもやした思いや、行きつ戻りつする出口のない分析を、寄せ付けない。きっぱりした割り切りを感じる。
 
意外にも、すぐに約束が取れたので、ボランティア団体を訪問する。
渋谷の情報関係の企業の集積するエリアに、その事務所はあった。NPO法人フラワーズの担当者川崎氏が応対してくれた。
「彼女たちにそんなことがあったなんて。信じられません。何かトラブルに巻き込まれたんでしょうか」
川崎氏は細身で、どろどろのラーメンなど食べなそうに見える。
「わからないんです。誰か彼女と交友関係のある人を知りませんか」
「ボラの時は誰とも仲良くしてるんですけど。去年の夏まつりは楽しそうでしたよ。水ヨーヨー作ったりしてました」
ボランティアの活動は、NPOの活動とは別物とのこと。職員とは一定の距離がある様だった。
「そうそう。妹さんとよく来ていて。あの二人、すごく仲がいいんですよね」
やっぱ妹がキーマンじゃん。ぽつんと渋谷の街に取り残され、行くところがなくなってしまった。
次回の法廷まであと3週間もない。検察庁に証拠開示請求を行い、できる限りの事実を拾い集めよう。そして、彼女に、もう一度向き合うしかない。
 
「上野のカラオケボックスって。妹さんと一緒にいたんでしょ。」
「妹がそういったんですか。」
ここは答えない。妹との二回目の面会で、話を聞くことは実は難しくなかった。結局、この姉妹は、お互いしか頼れる人間はいないのだ。
「妹は友達が多くて、その時も大学の友達を連れてきていたんです。」
「妹には未来があるけど。私には何もないから。妹の友達の子たちは、みんなすごいんです。親が大学の先生だったりで」
「自分なんかが迷惑をかけちゃいけない人たちなんです」
「将来やりたいこともないし。お金だって稼げないし」
俺はこの人を知らない。この人を知っている人たちを何人か見た。妹と、NPO職員の川崎氏、この人の弁護を依頼してきた元女上司。
「児童養護施設ではそんなことを習ったの」
「違いますけど」
 
検察官は、出したくない証拠を出さなくていい。それが手続きだからだ。俺が検察庁から開示を受けた警察官の現場臨場報告書には、こう書いてあった。
自宅のバッグを捜索したときの状況について。近隣住民からの通報を受けて現場に臨場したこと。通報の内容は、深夜に騒いでいたとのことで、要は迷惑だからお巡りさん何とかしてよということだ。警察官が臨場した時間には、通報の内容と異なり、被告人のみが在宅していたこと。「バッグ」とされているものは、セレクトショップのショッピングバッグ、要は紙袋であったこと。それって、誰の「バッグ」かわかんないってことだよね。
更に、被告人が入室を拒んだこと。自宅の前で少なくとも三時間以上の説得をしたうえで、同意なく侵入したこと。
証拠収集過程に重大な違法があることは明らかだ。刑事事件は民事事件と違い、証拠収集過程に違法性がある場合は、証拠とすることができない。
だから、この姉の大麻所持の件に物的証拠は無いという法律上の主張ができるかもしれない。それに、検察官に、追起訴を断念させることができるかも知れない。
 
事務所で、早速、検討に入る。
手始めに判例集を開いてみた。
ふむふむ。
ネットでニュース検索してみたら、でるわでるわ、ざらんざらん。びっくりした。現代のニュースですか、正直、戦後の死刑囚の再審無罪事件の多さぐらいびっくりした。
長時間の留め置きとかだけじゃなくて、中には、証拠を警察官が偽造したとかいうものもでてくる。
仕事熱心なのはありがたいことで、世界一の日本の治安を作ってくれているんだと思う。現場の警察官が、自分が犯罪者になる危険を冒してまで、職務に忠実というか、犯罪撲滅の信念のために、リスクをとっていると思うと、逆に心配になる。
こと、薬物の取り締まりという点では、治療か刑罰かという政策論や、取り締まり対象薬物の適否という政策論があると思うが、それらは、しかるべき人が考えてくれているだろうと想像しておいて、現場で司法の一翼を担う身としては、行政や立法に対する抑止を考えなければならない。

しゃべらないひと 2

法廷だけが戦場じゃない。
検察官に面会を申し込んだ。首都中央合同庁舎所在の、首都地方検察庁に行く。桜田門の前と司法省旧庁舎通称赤レンガの間を過ぎて向かう。
「申し上げにくいんですが。違法収集証拠じゃないですか」
「え。仲川先生本気でそんなこと言ってるんですか。新人さんじゃあるまいし」
「検事もこの分野、違法捜査が多いのご存じじゃないですか。大麻の分野のことですよ。すごいこだわりを感じますよね。警察活動のこととはいえ、検察庁としてはどのようにお考えですか」
ここは返事がない。
「追起訴があった場合には、臨場した警察官の証人申請は、応じていただけるんですよね」
「それはその時に判断します。まあ。事案は色々あるからね。本件が有罪事件じゃなくても仕方が無いと思いますよ」
お。勝ったか。
「でもさあ。弁護士さん。その弁護活動って、有益なのか。結局真実にはたどり着けないわけでしょう。彼女は罪を犯したのでしょう。それが罰せられないことは不正義でしょ。社会にとってだけでなく、彼女にとっても良くないことなのではないか」
まあ。言いたいことはわかる。今度はこっちが黙り込む番だった。
手元資料には起訴状の起案資料が見えた。こわもてなのに、親切な検察官である。
「起訴状
被告人は、法定の除外事由がないのにみだりに、令和元年一〇月一〇日から同月二十日までの間に、都内某所において大麻を使用したものである。
罪名および罰条
大麻取締法違反
同法24条の3」
使用の場所方法等についての事実の記載はない。自宅のバッグの件が証拠で使えないければ、この点で客観的なものも、証拠の女王たる自白もないわけで、こちらも罪に問わないのが検察官の良心となるだろう。手続きは、検察官にこれ以上のものは要求していないようにも読めるが。
 
感謝の気持ちで検察庁を離れる。
弁護士会館に寄って人に会うのも嫌で、ふらふらと日比谷公園についた。
野外音楽堂があり、松本楼があり、右手に人々の集う噴水を眺めながら藪のほうに入っていく。そこには、雀が無数に集まる木があって、男が熱心に小鳥たちの写真を撮っていた。少し遠回りして出口のほうへ進んでいく。
真実というが、有罪にすることが真実なのか。もっと真実。事実というものは多面的ではないのかと思う。その一面を切り取って判断をしていく、その司法の営みに寛容性が欠ける、一方的、そういうことになるのか。その営みに知恵が詰まっていることはそうなのだが、時にこぼれれ落ちる価値やあふれ出す事情を拾い上げていくことが、司法にかかわってしまった人たちのお役目だと思う。
刑事弁護活動を原理主義的に行う事でもこぼれ落ちるものがあることはそうだと思う。検察官の言うとおりだと思う。
 
結局、追起訴は無かった。
令和2年2月10日
首都地方裁判所第50号法廷。
覚せい剤の所持については、無罪判決である。彼女は同日、釈放となった。
妹はその日、傍聴席にいた。
「どうでしたか」
「仲川先生すごいですね。無罪とかあるんですね」
「そうじゃなくてさ」
「私たちは大丈夫ですよ。強いですから」
妹の表情は読めない。
 
姉から手紙が届いた。
「この度は私のしたことで、先生に大変なお手間をお掛けしました。絵にかいたような弁護士さんで、熱心にご対応いただいたことが申し訳なく。手紙を書いています。
私は、夢も目標もなく生きていて、なにか日々申し訳ないような思いがしています。
覚せい剤とか大麻とか、すごく遠い世界のように思っていたんですが、自分が知りあった人たちは、すごくカジュアルに楽しんでいて、余計に自分がつまらないように思えたんです。
あたしはとても暇なので、その人たちと付き合っていたというところです。
裁判で無罪になるというのは、自分の身に起きるようなことではないような気がして、弁護士さんとの接し方も分からず。結果として、悪いことを余計にしたという思いです。
弁護士さんのせいで悪いことをさせられたという事までは申し上げませんが。不運な出来事であったというような思いです。
仲川先生には、お世話になりましたが、妹との関係も悪くなったように思いますし。
お話しすることが難しくなってきましたが、先生が頑張ってくれたことには感謝しています」


法庭の蟻(2/2)できたひと エピローグ

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