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選択を求められている

写真を撮る時、切り取ると言う表現をよく耳にしますが、写真を撮ると言う行為によって選択された瞬間があると言うことは、撮られなかった瞬間があると言うことに他なりません。同じ時間の中にも撮る選択と撮らない選択が同居していると言うことを自覚した時、罪悪感が生まれました。

写真を撮る中で、日向は撮るのに日陰は撮らない。この花は撮るけど、あの花は撮らない。笑顔は特別良い物のように撮影される。この事によって、優劣を付けている様に感じたからです。

しかし、考えて見れば、私生活の中でも同じ様に選択をして生きているという事に気が付きます。むしろ選択しかしていないのでは無いでしょうか。それにも関わらず、私生活の中で、ひとつのことを選択するのに罪悪感は生まれません。

きっとこの原因は写真を撮ることの方が、私生活よりも自覚的だったと言うことなのだと思います。

私たちは果てしなく選択をして生きています。選択とは選び取る事です。常に選ばれたものの周辺になされなかった数多の選択肢がありました。私の場合、生活の中で選択する行為にあまり自覚がなかった。

けれど、写真をきっかけに、私生活においても選択をしていると自覚した時、「もっとちゃんと選択したい」と言う意志と、選択出来る事への感謝が芽生えました。

カメラで写真を撮ることと同様に、選択する物のすぐ横に選択されなかったものがあります。選択したと言う事は選択出来たということです。この事を知っていれば、目の前の物をもう少し大切に出来るのでは無いかと感じています。


ここで、罪悪感という言葉に言及しますが、罪悪感は不要だと思っています。今お話しした撮ると言う行為はひとつひとつの選択ですが、大きく捉えれば私達の目は前にしか付いていないことも、選択を強いて来ます。それは前しか見れないと言うこと。360度を常に観察し続ける事は叶いません。この事に罪悪感を持ってしまえば生きられませんね。

目が前にしか付いていない事から始まる選択の特性は、私達元来の弱さであり、強さでもあると感じます。何もかも選択しなければなりません。相手に委ねるのもひとつの選択です。

選択をしながら多くを捨てて生きています。同時に、選ぶ行為によって、ひとつのものに力を注ぐ事ができると言うのも事実です。選択することは、時に痛みを伴うのだと思います。その痛みも、自分が選択をした証として、他の選択と同じ様に抱えて居られるように。そして、選択した物に対して真っ直ぐでいられたらいいなと思います。

自分の選択を自覚した先でどの様な選択をするのか。

そこに現れる選択こそ、その人であるような気がして居ます。

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