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写真と自分を馴染ませる

写真は自分と同じようにあると言うことに気付いた時、同時に写真が自分を鍛えてくれていた事に気付きました。

写真においても私生活においても、悩みや出来ない事の多くの根幹は同じであったと言う事です。

私は写真と私生活での自分を行き来する事で、少しずつ好きな写真を撮れる様になって来ました。

この考え方に則っていくと、現れた写真とその蓄積はは、撮影者の生活や思考を思わせ、人生をも浮かび上がらせて行くのではないでしょうか。


カメラを構えるとつい「撮るぞー」と意気込んでしまいます。フィルムであれば尚更失敗しない様に細心の注意を払って撮影する方も多いかも知れません。

私自身初めのうちは特別なものを撮ろうとしていたしカメラを構えてから撮るまでの時間も長かったですから、自然の流れからは少し外れたところに写真があったと言う風に感じています。

ここでお伝えしておきたいのは、身構えて撮った写真もとても愛おしいと言う事です。その写真には頑張った痕跡が残っているし、当時の選択も反映されているのですから。        

しかし、往々にして、撮影者が意気込んでいる場合、その緊張や熱は映る側に伝播し、普段見えている現象を隠してしまうものです。それでは撮ろうとした結果にの写真にしかなり得ません。

私は自然に撮られた写真が好きです。
目の前に現れる景色が好きで、カメラを持って居るからだと思います。

普段の自分にカメラが馴染んでいる状態。「食べる」ことの様に当然の行為として「撮る」事ができたら、カメラを持って眼差すものは自然に視界に飛び込んできた物になります。友達と遊んでいる景色を写ルンですやスマホで撮影した写真は、まさに生活に馴染んでいる写真では無いでしょうか。

カメラを持っているから丁寧に行動するのでは無いし、カメラを持っているから世界が美しいのでも無いのだと思います。勿論私の様に、カメラにきっかけを与えられた方は多くいると思います。ですが、多くはきっかけに過ぎ無いのだと思います。
一度立ち止まって、カメラに教えて貰った世界の美しさを、私が見て居る世界に出来た時、写真は私にグッと近づいて来てくれる様に感じます。

写真が普段の自分と地続きであれば撮らないことすら撮っている事になるのでは無いでしょうか。矛盾している様に見えますが、写真に映る光景はカメラを構えたかどうかでしか無いと言う事です。

そうなると、写真は自然に自分の心と同じ様に動いていくと感じています。

同時に、「私はこんな人間です」と言う事になるのかも知れません。

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