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記憶と写真

私達が写真に触れる様な短いスパンで考えた時、写真は記憶を長持ちさせる手助け、又は私達が有している記憶以上の現実、記憶に満たない素朴な現実を浮き上がらせる物だと思います。写真に収められた現象は時間から抜け出し、本来忘れて行くものの何割かを繋ぎ止める事が出来るでしょう。

記憶は不完全な物です。移り変わり、美化されて、大なり小なり、改竄されて行きます。進行すれば風化して行く物でもあります。

しかし、写真にはいつも、目の前にかつて存在した光景の一部分がありありと映っています。勿論写真の外の世界については、同じ様に移り変わり、風化して行くわけですか、写真に写した範囲において、記憶の跳躍や風化はあまり意味を持ちません。明確に、現象として、出来事として存在していた物として、示されます。

記憶が、進行しながら形を変えて行く物だとしたら、写真は、真新しく目の前に現れる現象であると言えるかも知れません。

その前提の上で考えると、写真は常に再解釈を求めて来る物であり、目の前で流れて行く現実とあまり変わらない態度で接する事が出来る物でもある様に思います。

つまり、写真は体験出来る物であると言う事です。もしかすれば、本のように、見る度に新しい発見があるかもしれません。
L版程度の大きさに詰まった世界をそんな風に楽しめるわけです。

写真を見る事で、今目の前で起こる現象は二度、三度解釈され、新しい記憶に変わって行く。

つまり、写真は記憶に逆らいながら、記憶を作り出して行くのです。

それはもしかしたら、どんな現象も時間から切り離されて、常に目の前に転がっていると言う事になるかもしれません。


写真は好きな瞬間を撮ると仮定した時、写真が本と似たような存在として、存在出来るならば、写真は好きな本や好きな文章として捉える事が出来るでしょう。

であるならば、積極的に写真を見つめ新しい解釈を促して行きたい。体験をその場限りの物として、受け止め、変化して行くことこそ眺めて見たいと思います。


さらに、写真を持って、現象から現象を引き剥がすと言う事が、どのような事か改めて考えなければならないと思っています。

本来、前後関係と共に朽ちて行く記憶の一瞬を切り出しておく事。一連の流れから引き剥がされた、現象の一瞬だけを残しておくと言う事が何を現すのでしょうか。

私は、写真が猶予を与えられる物と考え、良いと感じられた物以外の物を見つめるきっかけに写真はなれないのかなと考えています。

日向ばかりが良いのでは無く、笑顔だけが良いのでは無い。そうなのだと思いたいと言う気持ちも含めて、写真に写してみる。または同じ態度で見つめてみる。

そうすれば次第に受け取れるようになるのでは無いかと思います。

どんな現象も、私たちの記憶と無関係では居られないのなら、全てが私たちの前においては不完全であり、寧ろ不完全であるから私達はどんな現象も楽しめるという可能性が残されているのだと信じていたいと思います。

記憶は私達を苦しめるためにあるのではないはずです。


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