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シロクマ文芸部| KAPPA酒

風が吹く春の朝、坂道を降りると一匹の河童がいた。
頭に乗せたお皿がピカピカと銀色に輝いている。
まぼろし? 目を疑っていると、河童はクイと頭をもたげ、黒目がちな瞳をいっぱいに開いてわたしの方を誘惑的に見た。

──おはよ。長く生きてるから、息抜きしたくなってね。

初めて聞く、水底から湧いたようなくぐもった河童の声。そういえば近くに池があると思った。
もしかしてあの公園から来たの? そうだよ。と間髪入れずに返事をした。

リストラにあったばかりで失望していたわたしは、いよいよ坂道で河童と立話か……とこの状況をやけっぱちになりながら、暇つぶしと思い直す。
どれくらい生きてるの。
忘れた。つい最近、人魚と別れたよ。
自慢そうに言う。
嘘でしょ、と言えば、嘘じゃないと混ぜ返すあたりも人間くさい。そのうち酒でも飲ませろと言うんじゃないかと思っていると、案の定、この辺で飲める店知らない? カウンターだともっといいんだけど、ときた。

知らない。わたし飲めないもん。
なんだ。あんた下戸かい。
小馬鹿にした顔に見えた。

ぷんとしていると、港町にはあるんだと言う。
市バスの海岸通り、駅の終点にあるよ。そこじゃ年齢は関係なし。みんなタメ口で悦びに満ちた顔で朝からいい気分になる。
あんた、市バスにも乗るんだ。
河童がわたしをあんたと呼ぶので、わたしもあんたと呼んでみる。すると、彼の目が釣り上がった。
河童をもののけ扱いするのもほどほどにしてくれよ。何千年生きてると思ってんだ。河童だって移動するし、借金もする。酔っぱらったり、人を好きにもなるさ。
え。
びっくりした。でも、AIで戦争をするこのご時世だ。なんでもありなのだろう。

河童は、最近はどうも幻想が効かなくなった、とぼやく。
人間の想像力が欠如してんのかな。この世は末期だね。
そして脈絡もなく、あんたんちへ連れて行ってくれないかい?
そのときわたしは、何千年か何万年かの長すぎる命が急にかわいそうになった。それに河童はけっこう人懐っこい。ぬめっとした肌も触ってみたい。人間の男なら用心するけれど、相手は河童だ。
いいよ、と即答した。ついておいでよ。信号気をつけてね。車にひかれたら何万年の命も一瞬にしておしまいだから。
知ってるさ。

河童は水かきのある足をペタペタと繰り出した。
アパートに着いた頃には疲れたのか、あるいはメッキがどこかで剥がれ落ちたのか、お皿の銀色は色あせ、惨めなほど地味な水ごけの生えた池の色に落ち着いていた。

お酒って言ってもこんなのしかないんだけど。
料理酒に使っている「パール辛口吟醸」を、おちょこに注いで差し出す。
あんたはいい人だ。彼は途端に顔をほころばす。
お皿に乗っていたのか、桜の花びらがひらり、おちょこに落ちる。

いつまでもいていいよ。どうせ暇だし。
わたしまで酔ったようになって情け深いセリフをはいていた。
やさしくしすぎたかも、と後悔しても遅い。結局、池色の河童はそのままアパートに居つき、何年かが過ぎた。
その間、わたしはいつしか河童を〝河崎さん〟と呼ぶようになっていた。

そんな河崎さんがある日、いなくなった。
出逢ったときと同じ、風が吹く朝だった。
部屋にお皿が残されていた。間違いなく渋い池の色の、あの河崎さんのものだ。市バスにも乗れるのだから、人間の男と同じで旅にでも出たのだろう。もしくは、人魚とよりを戻したとか。

河崎さんは湿った匂いがした。最初の頃はジメジメして嫌だった。けれど不思議なことに、そのしっとりとした感触に安らぎを感じていた。
雨降りの葉っぱのようにみずみずしい肌に包まれて、ぐっすり眠った。いなくなってみると、むしろあの匂いが懐かしい。

そしてわたしはいま、泣きたいような感情を抑えている。
いつの間にか河崎さんを好きになっていたのだろうか。
月影の照らす夜道をひとりと一匹で歩いていると、よくからかわれたものだ。

いつもひとりだね。寂しくないの。
中には恥ずかしくなるようなことを言って、わたしを誘惑しているつもりの男たちもいた。
何を言われても平気だった。そんなとき、河崎さんが背後から気にするなと小声で励ましてくれた。

なぜ、みんなには河童が見えないのか。
月の光でわたしたちのいびつな影が、あんなにもはっきりと路上に揺らめいていたのに。

そういうわけで、河童がいてもいなくなってもわたし以外の誰ひとり気にかける者はいなかった。
残されたお皿の凹みに、わたしは真珠のイヤリングを入れている。河崎さんがくれたものだ。
白い粒が海の波にいじめられて、すねてるみたいに変形したバロック真珠といわれるものだった。いじめられたといっても、愛が偏って涙型になったように見えた。奇妙な愛の雫。

どうして。もらっていいの?
動揺するわたしに、あのとき河崎さんは言った。
安心しろよ。いつかとっておきの人にあげようと水かきの隙間に隠しておいたんだ。あんたには真珠がよく似合うと思っていたけど、本当にそうだった。
彼は静かに笑った。河童の笑い声を初めて聞いた。クプクプという、水中で吐息をこぼすようなかわいらしい音だ。

本当に河童なんかいたの、と誰もが思うだろう。
実はわたしもときどき、わからなくなる。
そういうとき、酒瓶を覗く。
まだ河童のいない頃、確かに口元までいっぱいあった透明なお酒。
今はそのかさがだいぶ低くなり、わずかを底に残すだけだ。

それを飲んだのは時間ではないだろう。


#シロクマ文芸部|お遊び企画「風が吹く」 に参加させていただきました✨

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