シロクマ文芸部|うつくしき地はかつて
物語──と友人からその地名を聞いたとき、まさかそんなうつくしい地名が存在しようとは思わなかったので、驚いてもう一度聞き返した。
神々がふと、あの辺りにしようかと何気なく舞い降りてきて、さっと舞台をこしらえてから、輝く星を置いて行ったような。
または、神話を思いついた賢者が、あのあたりを描こうかと厳かに宣言して印をつけたかのような、忘れがたい地名だ。古代シュメール語の由来という説もあると『物語』で生まれ育った友人は教えてくれた。
なぜだろう。自分の祖先が関わっているわけでもないのに不思議な懐かしさを覚え、どうしようもなく惹かれてしまったわたしは『物語』を訪れた。
晴れた日には頂上から山の堂々たる姿が見え、どこからでも町が一望でき、山の麓には野草園と音楽ホールと朝市があった。
家々の窓辺は花で飾られ、放牧された家畜がのんびりと過ごし、すれ違う人たちはみんな物静かで、友人と散歩していると顔見知りらしい誰かが会釈して通り過ぎることもあった。
ここはいつも水の匂いがする。澄みわたる空気は時間によっては淫らなほど甘く蠱惑的で、天国もこんな感じだろうかと想わされる。どこを見ても、うつくしき生命に出逢えるのだ。
友人の家の裏には小川があった。その小川を境にして、南は明るい野原、北は暗く恐ろしい密林だと話してくれた。
わたしから見ればこの辺りはどこまでも明るく広々と開かれた草原が続き、風がよく通る森にしか見えなくて、〝恐ろしい〟という形容詞がまったく実感できない。
『物語』に生まれ棲む友人にとって森は、シマフクロウの鳴き声がまるでここは異世界であると宣言するかのように響き渡り、凄まじい顔つきのキタキツネ──怨念の塊のような顔をして人を見る──や、残虐非道ぶりの噂に事欠かさないヒグマたちの巣のようなものらしい。
さらに迷い込んだ馬や人間が一歩足を踏み入れば、ズブズブと足を取られて沈み込み、もがけばもがくほど身動きが取れなくなって白骨化しているという底なし沼が生い茂る藪に隠れてあちこちにあり、森の精霊たちが死骸を守るために風の歌をうたうのだと。
なるほど。『物語』は荒唐無稽なファンタジーな地でもあるようだ。
突然、天空に亀裂が入り、その割れ目から人間を見下ろしている巨大な目が覗いたとしても、この地ならばあるかもしれないとすんなり受け入れてしまいそうな、何が起こっても不思議ではない、という説得感がこの地には確かにあった。
気まぐれに移住してみようかなと考えているわたしのような浅はかな者に「その覚悟ありますか?」と審査するのかもしれない。
けれどそれ以上にわたしの想像を遥かに超えたうつくしさや壮厳さ、天国のような快楽が備わっている。
小鳥のさえずりが飛び交う小川沿いを歩きながら友人の昔話を聞かせてもらった。
「夏は、朝霧を含んだミルク色の草原に、じゃがいもの白い花が朝露のようにキラキラと広がっていたわ。いつだって風にのって薄荷が香ってきた。
冬は、月の光が煌々と薄暗い銀盤の舞台を作って、森の奥から狐だの野うさぎだの、それからリスや子鹿までが出てきて、そこで不思議な舞台劇をやっているようだったのよ。
本当にリスや子鹿がいろいろな踊りをするのだと信じていたわ。大人になるまでずっとね」
あの舞台はどこに行ったんだろう、と淋しげな友人に、
「探しに行こうか」
思わず口にすると、どこからか声が聴こえた。
──あなたがいたところでしょう?
え。まさか。
誰だろうとあたりを見まわしたが人影すらない。
ぴゅうと北風が吹きつける。急激に吹きつけた風に肩をすくめ足を止める。
目の前に閃光が走り視界が銀一色になった。眩しくてあっと声を上げた瞬間、記憶が降りてきた。
そうだ。わたしもまた、巨大な目で地球を覗きこんで、どれどれと探索しながらうつくしき舞台を作り、星を照らし、生きとし生けるものと踊るために、ここにやってきたのだ。
(了)
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