掌編 やがて永遠の光り
しばらく小説を書かない日が続いている。エストニアの取材旅行から帰国し初めての長編を書いた後、鼓膜に穴が空いたみたいに物語の声が聞こえなくなってしまった。その後遺症は予想以上に大きく、ぼんやりしている間にどんどん時間が過ぎてしまう。八月も終わりかけている。
昔からわたしは、ひとつの作品に取りかかると貪るように書き散らし、全身をヒリヒリと刺激するスリリングな執筆状態を好んできた。同時に、この小説はこれから先どんな世界へ進んでいくのか、次のシーンは、次の一行はどうなるか、もしかしたらこれ以上一歩も進めなくなるかもしれないという疑念につきまとわれた。
その不安をなんとか向こうに押しやり、物語の持つ声に耳を澄ませる。聞こえると言うほど明確ではなく鼓膜に触れてくる気配に近いものだけれど、それでも確かに声は存在している。
ならば安心してその声に任せて書けばいいじゃないか、と言われるとそう簡単にはいかない。具体的な小説の手がかりは無いに等しいし、不安の気配は奥が深く闇が濃い。いずれにしても小説と関わっている限り、なにか得体の知れない誘導に唆されている気がして仕方ない。
締切が迫っている。声に導かれ自分でも思いもしなかった場所へたどり着けるような期待で胸が高鳴っているのに、陽が西に傾くと、そろそろスーパーに買出しに行かなければ、などと先送りの言い訳を次々に生み出してはいつまでも書けない自分を甘やかしてしまう。
結婚した当初、夫はわたしが小説を書いているのを知らなかった。
小説を書くと言うのは妻でも母でも女でもない、あらゆる役割から独立した個人的なフィーリングで成り立つ行為だから、いちいち夫に報告する必要も感じなかった。今はそうもいかない。
自分のあり方や小説との距離をはっきりさせなければ成り立たない。
昼間ひとりの時間にキッチンテーブルに置いたMacに向かい、家族の帰宅前に片付ければ、小説と格闘していたわたしはきれいに消え去る。食事の支度が整えばパソコンに何が書いてあるかなど彼らには関係のないことだし、締切だって同じだ。
これまで何度も過ごした夕暮れの風景を思い出す。保育園から帰ったばかりの娘はお腹を空かせてぐずぐずと(わたしに似て)泣く。夕食の支度がまだ何もできてないばかりか、流しには汚れた食器が積み重なっている。運動靴は替えも少ないから一刻も早く洗濯しなくてはいけない。ポストは郵便物が溢れ、編集さんからのメールは受信BOXに溜まり、五時までにエアコン修理の電話をしなくてはいけない。
娘も五年生になり少しは余裕ができたはずなのに、Macに現れる白紙の原稿はただカーソルが点滅するばかりでさっきから一行も進んでいない。
キッチンで二杯目の珈琲を淹れ、再びテーブルに着く。それでもまだ書きあぐね、テーブルに置き忘れたヴァージニア・ウルフの『灯台へ』をパラパラめくっていたら、本に挟まっていたらしいポストカードが一枚滑り落ちた。
表面の写真は、窓辺に座る女性の後ろ姿だった。
書き物をしているような彼女の向こう側には、ヨーロッパのどこか懐かしい景色が広がっている。色褪せた質感のポストカードを裏返すと消印はなく、宛先は夫からだった。
「あなたの、書いてるときの後ろ姿が好きです」
わたしは飛び上がり、背筋を伸ばしてその一行を繰り返し読んだ。

よく見るとそこは、以前訪れたコート・ダ・ジュールのエズの街並みだった。学生結婚だったわたしたちは式も挙げず、新婚旅行にも行っていなかった。そんな事はすっかり忘れたある夏、夫が海外旅行をプレゼントしてくれたのだ。
断崖にある小さな街の迷路のような階段を通り抜けると、いきなり絶景が現れ、思わずわぁ、と声をあげるわたしの横に満足げな表情の夫が立っていた。
胸元にすずらんの刺繍がほどこされたブラウスはわたしの唯一のお気に入りだったからよく憶えている。岩壁に建つ展望台の窓から眺めた雲ひとつない空に学芸会の紙の月にそっくりな真昼の月が浮かんでいて、どこからかジャスミンの香りが流れてきた。
確かにわたしは書き物をしているようだ。でもどうしてこんな場所で?
──脳内に流れだすタイムスリップ映像が、どこ行くにも分身のように持ち歩いていたモレスキンのノートに一日も欠かさず言葉を綴っていた遠い日を甦らせる。
それはわたしたちが今存在している世界とは違う、別の次元の時空……。
混乱する頭を冷やそうとしてわたしは、もう一度ポストカードに視線を落とす。
彼女は、その眩しいほどの光の中で、十二年後に小説家になった未来の〝わたし〟がキッチンテーブルで書きあぐねていることなど予想もしておらず、夫のカメラに収められていることも、やがて出逢う自分の娘の顔も声も知らずに、今もまだコート・ダ・ジュールの空の下で永遠に物語の声に耳を澄ませている。
わたしはその背中に、ここにいるよ、と囁いてみる。
(了)1990字
花澤薫さんの企画、#一枚の写真から文芸賞 に参加させていただきました✨
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